 |
エッセイにならないエッセイIII 日本地名あれこれ(44) |
 |

第44回 「わ行」で始まる地名も少ない
「わかえ(若江)」は「分江」のこと、旧河内湖と旧大和川にまつわる
「わかさ(若狭)」は山や半島で分けられた狭い地域だから
「わかのうら(和歌の浦)」も、もとは「分の浦」
「わけ(和気)」は川によって大きく「分け(わけ)」られているから
「和食」という地名、まったく「食」には関係なく「わじき」と読む
「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じる
「わ行」の地名も、「ゐ・ゑ・を」が「い・え・お」に吸収されているので少ない
私が「あ行」の「い・え・お」と「わ行」の「ゐ・ゑ・を」の違いを初めて知ったのは、小学校に入学する前のこと、母親から教えられてのことでした。
当時、幼稚園に行けるのはそれなりに裕福な家庭の子で、私のところのような貧しい家庭では通わせることは無理でした。幼稚園では「読み書き」「算数」は教えていたので、小学校に入学しても困らなかったのですが、われわれ幼稚園に行けなかった子どもはたいへんだったのです。そこで、両親が早くに亡くなって小学校も満足に卒業できず、読み書きでは非常に苦労した母が、だからこそよけいに必死になって「あ・い・う・え・お」や「1+1」などを教えてくれたのです。
まるで坊さんがお経を読むように、「五十音」を声を出して唱えさせられ、「わ行」の「ゐ・ゑ・を」は「あ行」の「い・え・お」とは違うよと何度も念をおされ、「は」を「わ」と発音することがあるけれど、この二つが違うことや、「へ」と「え」、「ひ」と「い」の違いも教えられました。
これらの違いをいまだに十分理解してはいませんが、とにかく違うということだけは丸暗記しました。新聞はともかく、わたしが小学校に入学した昭和25年頃の本には旧仮名づかいがまだまだ使われていましたから、違うのだということだけは頭の中に入っていました。
ついこの間、この違いについてわかりやすく記した本が出版されました。大東文化大学の山口謡司先生の新潮新書「日本語の奇跡 <アイウエオ>と<いろは>の発明」です。江戸時代の国学者である本居宣長や富士谷成章の研究結果を実にわかりやすくまとめられています。知りたい方は、ぜひこれを読んでください。
さて、楠原佑介編著の「古代地名語源辞典」などをひもときますと、京都府下の「井出」は「ゐで」、兵庫県の「猪名寺」は「ゐなでら」、岐阜県の「恵那」は「ゑな」、大阪府泉南郡の「男里」は「をのさと」と記してあり、地名でも明らかに「い・え・お」と「ゐ・ゑ・を」を使い分け、異なる意味があったのですが、いまでは「い・え・お」に吸収されてしまったので、「わ行」の地名は少なくなってしまったのです。「あ行」に吸収された地名については「い・え・お」のところでふれましたので、ここでは「わ」で始まるものを取り上げることにします。
「わかえ(若江)」は「分江」のこと、河内湖と旧大和川にまつわる地名
東大阪市に「わかえ(若江)」という地名があります。その近くを走っている近鉄奈良線には「若江岩田」という駅もあります。「若江」と「岩田」という地名を一つにしたものですが、「わかえ」は8世紀の初めにはすでに文書に登場している地名で、昔の大阪の地形地理にまつわる古いものです。
何度もふれていますが、昔、大阪平野のど真ん中には「河内湖」と呼ばれる湖がありました。東は生駒山のふもとから、西は上町台地の森ノ宮・玉造、北は寝屋川から南は八尾あたりまでという、大きな湖でした。
そこには生駒山や信貴山から流れ落ちるいくつもの河川や、奈良から流れてくる旧大和川(いまの大和川は18世紀以降に付け替え工事が行われたものです)が注ぎ込んで、いくつも入江ができていました。それらの川が運んでくる砂がいつしか湖を埋め、さらに新田開発事業も行われて、いまでは河内湖の痕跡すらもわからないようになっていますが、地名には残っているのです。「河」の内側でもないのに、なぜ「河内」という地名があるのか、それは大昔、湖ほどの大きな河の内だったからなのです。北河内、中河内、南河内と、非常に広い地域をカバーしており、河内湖の大きさが想像できるでしょう。
「わかえ」もそうした地名の一つで、河内湖の入江のひとつでした。ただそれだけのことなら、単なる「え(江)」でもよかったのですが、他と区別するために名前がつけられました。ちょうどこのあたりには大和川が分かれて流れていく分流もあったことから、「分流の入江」となっていました。「分流」の「分(わか)」と「入江」の「え(江)」があわさって「わかえ(分江)」と呼ばれるようになったようです。
それがいまは「若江」となっているのは、同じ「わか」でも「分」より「若」のほうがイメージがいいからです。「地名は佳字二字」つまりイメージのいい漢字二文字という原則がここでも適用された結果です。
「わかさ(若狭)」は山や半島で分けられた狭い地域だから
福井県の西部、わかりやすく言えば近畿に近い方を「若狭(わかさ)」と呼びますが、この地名にどんな意味がこめられているのか、どんな由来があるのか、子どもの頃から関心を持っていました。もとは「和加佐」の字が当てられていたそうですが、古事記・日本書紀の時代になると、いまと同じ「若狭」と表記されるようになったようです。
なぜ「わかさ」と呼ばれるようになったのかについて調べてみると、吉田東伍「大日本地名辞書」に面白い記述がありました。
「若狭とは腋狭の義なり、はしたなる国にて、畿内とも山陰とも為し難きければ、北陸に入れられたりとの説は荒唐無稽」という文章でした。どういう意味か、要約するまでもありませんが、「若狭は山の脇の狭い国だから畿内にも山陰にも入れられず、北陸に入れられたのだという説があるが、これは根拠のないいいかげんな説だ」というのです。
なるほど日本の地方区分の中で若狭が北陸に入れられた理由がこれでは確かに荒唐無稽だと思いますが、若狭地方が山や半島、岬によって分断され、狭い地形になっていることは事実です。ですから、山の「脇(わき)」と「狭い」があわさった地名の「わきさ」が「わかさ」と呼ばれるようになったと言ってもいいのではないでしょうか。
先日、関西電力の大飯発電所に講演に出かけた折に、若狭地方をゆっくりたっぷり見てきましたが、山や半島によって分けられた狭い地域によって成り立っていることを改めて実感してきました。
福井県西部が山や半島などで「分けられた」「狭い」地域ということから、大昔の人々がここを「わかさ」と呼ぶようになり、それに「和加佐」という字が当てられ、その後、「地名は佳字2字」という原則がここでも適用され、「若狭」と表記されるようになったとしても不思議はなく、これが「わかさ」の地名由来だと私は思います。
「わかのうら(和歌の浦)」も、もとは「分の浦」
いまは人気がなくなっていますが、私が子どものころ、「和歌の浦」は和歌山県を代表する景勝地の一つでした。わたしたち大阪の子どもの遠足の地でもありましたし、家族旅行や社員旅行の団体客でにぎわっていたところでした。
その頃のことですが、「和歌の浦」の地名由来について、万葉集に収録されている山部赤人の「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無(な)み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」の名歌からきていると聞いたことがあります。
当時は、そうかと思っていましたが、しばらくすると、「若の浦」が、どうして「和歌の浦」に変わったのか、そもそも「若の浦」とは何を意味するものなのかいう疑問がわいてきたのでした。
楠原佑介ら編著の「古代地名語源辞典」を読むと、「ワカは分けられると関係し、砂州によって区切られた土地のことか」と記されてありました。これは「若江」や「若狭」と同じ地名ルーツでした。なるほどと思いました。
実際に「和歌の浦」に出かけてみると、それがよくわかります。このあたりは、紀ノ川、その分流である和歌川(昔は雑賀川とも呼ばれていたようです)や和田川などが運んできた土砂が岩盤が突き出るかたちで湾内に存在していたいくつかの島や大地の間に堆積してできあがった干潟であることがわかります。
昔は、それぞれが分かれていたであろうことも想像でき、「わかのうら(分の浦)」と呼ばれていたことも納得できます。河内の「わかえ」が最初は「分江」で後に「若江」という字が当てられたように、イメージのいい「若浦」に変わったこともなるほどと思います。さらに、その景色の美しさから歌に詠まれるようになり、「和歌浦」という優雅な表記に転じたことも理解できます。
「わけ(和気)」は川によって大きく「分け(わけ)」られているから
兵庫県赤穂市からJR山陽本線でほんの30分もかからないところに、「和気(わけ)」というよく知られた歴史のある町があります。昔の国名で言うと備前の国、いまは岡山県に属します。
ここに講演に出かけた時に、教育委員会の人に地名由来を質問しましたら、「奈良時代の末期から平安時代の初期にかけて活躍した当地出身の和気清麻呂(わけのきよまろ)にまつわるものです」という答が返ってきました。
たぶん、この答が返ってくると想像していましたが、やはりでした。これに対し、私はこのあたりの地理地形によるのではないだろうか、中国山地から流れてくる吉井川によって、このあたりが「分け」られているからではないかと疑問を投げかけ、吉田茂樹著「日本古代地名事典」などが記すように、和気氏は「吉備磐梨別公(きびのいわなしわけのきみ)」と名乗ったように、このあたりの地形からくる「別(わけ)」を氏としたことからきているという説があることを紹介しました。
残念ながら、その教育委員会の人は、歴史に詳しくなかったので話がすすみませんでしたが、あのあたりを歩いてみて、やはり吉井川によって、このあたりが大きく「分け」られていることが「和気」の地名由来だと確信しました。
高知県に「和食」という地名。まったく「食」には関係なく、「わじき」と読む
日本のあちこちに面白い地名がありますが、高知県の「和食」もその一つでしょう。この地名をはじめて目にしたときには、さすがに海の幸、山の幸にめぐまれた高知県のことはあると思ったのでしたが、まったくちがいました。「わしょく」と読むのではなく、「わじき」です。このあたりの人は読めるでしょうが、他の地方の人にはまず無理だろうと思います。
高知市と安芸市の中間のところに位置する芸西村にこの地名はあります。さらに東に進路をとっていきますと室戸岬に至ります。太平洋に面したところで断崖絶壁が続きます。「和食」という地名はこの地形からきているいう説と、このあたりが「わせ、わさ(早稲)」の産地だからという説があります。
地形説は、もとは「わしき」と呼んでいたものが、「わじき」になり、「和食」という字が当てられたというのです。「あし」「わし」は断崖絶壁、「き」は場所を意味するもので、徳島には「鷲敷」と書いて「わじき」と読む、似た地形のところがあります。千葉県にも滋賀県には似たような地形で「あじき(安食)」という地名があります。
「早稲」説は、このあたりが温暖で稲の成長が早いのでついた地名だというのです。「わせ」とも「わさ」ともいいますが、この「わさ」「わせ」と場所を示す「き」とがくっついてできた地名だという説です。徳島県の海部郡には「和射(わさ)」があり、当てられた漢字は違うけれどここも古来から「早稲」の産地だから同じ由来だとのことです。
どちらも当たっているような気がしますが、私は地形説をとります。
本州と四国を結ぶ瀬戸大橋の岡山県側に「鷲羽山(わしゅうざん)」があります。ここも断崖絶壁で、いかにも鷲が羽をひろげて飛んでいるようなところを思わせます。そこからこの地名がついたと言えなくもないのですが、「和食」と同じ由来です。
「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じる
神戸港の西のはずれ、川崎重工や三菱重工、三菱電機の工場があるあたりに、鉄道ファンなら誰もが知っている、JR山陽本線兵庫駅から2.7キロの大都市の中のローカル線である和田岬線があり、「和田岬(わだみさき)駅」があります。昔から、なぜ、ここが「和田岬」と呼ばれているのか、不思議でなりませんでした。
あるとき、偶然に日本史の教科書を読んでいて、ここがすでに奈良時代、平安時代に「大輪田泊(おおわだのとまり)」と呼ばれて、摂津と播磨の重要な港として機能していたことを発見し、「和田岬」の「わだ」は「大輪田泊」からきていることに気がつきました。これが「和田岬」の地名由来だとわかったように思ったのでしたが、地名辞典をひもといてみると各地に「わだ」という港がありました。昔の人は海や川が湾曲しているところを「わだ(輪処)」と呼んでいたことから、この地名がうまれ、こういう場所は港に適していたことから各地に存在することがわかりました。
「わだ(和田)」は「わた(渡)」にも通じ、昔の大阪には「わたなべのつ(渡辺津)」があり、いまは「渡辺橋」に名残りをとどめています。さらに、海や川に祈りを捧げる場所である「わたらい(渡会、度会)」の地名ともつながっており、三重県には伊勢神宮にまつわるその地名がいまも残っています。
「エッセイにならないエッセイ」として連載してきましたが、これでひとまず終わりとします。ながらくお読みいただいてありがとうございました。次は「ヤマケンのぼやき講談」を折にふれ書いていくことにします。(おわり)
|

|
|
|
|