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   雑感・戦後日本の世相と流行歌(29)

第29回 昭和47年、横井庄一元軍曹帰還、連合赤軍事件、あさま山荘事件、千日デパー ト火災、高松塚古墳壁画発見、沖縄本土復帰、日本列島改造論、パンダ、『結婚しよう よ』『瀬戸の花嫁』『女の道』『喝采』

 敗戦から22年が過ぎ、『戦争を知らない子供たち』というフォークソングがヒット したように、すでに戦争を知らない世代が国民の多くを占めるようになり、かつて日本 が朝鮮を植民地にし、中国を相手に戦争をしかけ、さらにはアメリカやイギリスを相手 にアジア・太平洋を戦場にして戦い、数え切れない償いきれない犠牲を強いたうえで、 本土空襲を受け焼け野が原にし、沖縄を惨憺たる状態にし、広島・長崎に原爆投下され 、ついには無条件降伏したことなど、もはや歴史の彼方に追いやっていたこの年の早々 、日本人は戦争の記憶を呼びさますことを余儀なくされた。

 1月24日グアム島の密林の中で、愛知県出身の旧日本軍兵士横井庄一さんが隠れ住 んでいるのを発見され、2月2日31年ぶりに帰国したのだった。米軍との激しい戦闘 の中ではぐれてしまい、日本が無条件降伏をしたことを知らず、前線逃亡と誤解されて 処罰されるのを恐れて、いっしょにはぐれた何人かの戦友たちとともに密林の中に隠れ 住むようになったのだった。見つかると米軍に殺されると思いこんでいたのと、捕虜に なることについては軍隊で「生きて虜囚の辱めを受けず」の教育をされていたので、投 降することは考えなかったとのことであった。その後、仲間は見つかって射殺されたり 、飢餓や病気で亡くなったりで、生き残ったのは横井さん一人になったというわけであ った。

 横井ショックの冷めやらぬ2月、今度は武装闘争を通じて世界と日本の革命を叫んで いた連合赤軍による何ともおぞましい大量リンチ殺人事件が発覚した。彼らが群馬県妙 義山中につくっていたアジトが発見され、同月19日に捜索が行われ、最高幹部が逮捕 されたのだが、その取り調べの中で、仲間12人をリンチ殺人していたことが明らかにな った。リンチにかけた理由は、闘争方針に異論を差し挟んだとか、方針を忠実に履行し なかったとか、日和ったとか、指輪や化粧をしていたことが革命的でないとか、およそ 「革命ごっこ」としか言いようがなかったが、彼らはこれを「総括」と称して正当化し ていた。中心人物の一人森恒夫は次の年の1月留置場で首吊り自殺した。

 さらに、この事件は、次の事件へと連鎖した。19日の捜査の際に逃げた5人が、長 野県軽井沢町にあった河合楽器社員保養所「あさま山荘」に押し入り、管理人の女性を 人質にして立て籠もったのだった。彼らは猟銃、ライフル銃、ピストル等を持って武装 しており、警官隊と激しい銃撃戦を繰り広げた。人質がいるだけに、警察もいっきに突 入というわけにはいかず持久戦となり、長野県警だけではなく神奈川県警、また警視庁 機動隊も動員され、総勢1500人の警察官が取り囲み、機をうかがうという態勢にな った。

 彼らが籠城して10日目、こんな事態をいつまでも放置しておくわけにはいかず、警 察は大型クレーンを動員し、アームから吊した大鉄球で山荘を破壊する作戦に出た。と 同時に、ガス弾1000発を打ち込み、100トンの水を浴びせて突入、人質を救出す るとともに5人を逮捕した。警察官2人が殉職し、一般人も1人亡くなった。この間、 テレビは連続中継し、人々を釘づけにした。この事件をきっかけに、過激派による武装 闘争に対する取り締まり強化やテロ対策が始まり、危機管理が叫ばれるようになった。

 60年代後半から高揚した学生や青年労働者を中心としたベトナム反戦や安保反対の 運動は、このような事件と同じように見られることによって下火になっていったが、成 田空港建設反対運動へとエネルギーを移していった。地元農民は三里塚教会の戸村一作 牧師を代表として結束して反対運動に立ち上がり、ともに闘う労働者や学生を受け入れ 、地域全体が闘いの拠点となった。いっぽう海外へ闘いの場を求めて出ていった日本赤 軍は、パレスチナ解放闘争と繋がることによって、国際的ゲリラ闘争を展開するように なり、5月30日イスラエルのテルアビブ空港で自動小銃を乱射する事件を起こした。

 ところで、人は、決して忘れてはいけない、自分にも責任のあるような近い歴史につ いては、知らない顔をしてすぐ忘れてしまうくせに、自分にはまったく関係のない、昔 の権力者が奴隷や被支配者を搾取し酷使してつくらせたと想像される古代遺跡や古墳な どには、たいへんな興味と関心を示すものである。邪馬台国論争をはじめとする古代史 ブームがそれである。3月26日それをいっそうかきたてる発見が発表された。かねて より発掘調査が行われていた奈良県明日香村の高松塚古墳の石室内部に、中国・朝鮮の 壁画古墳に見られるのと類似した極彩色の女性群像・四神・星宿などの壁画が存在する ことがわかったのだった。いろんな事件も、日本が抱える問題も、全部どこかにすっ飛 んでしまうような大騒ぎになった。

 しかし、それほど簡単に日本が抱える問題やそれに対する不満は、どこかに消えてし まうわけではない。どこにも受け入れてもらえない若者たちは、それを暴力的に表現し た。夏の暑い日、全国各地で暴走族が走り回った。東京、大阪、名古屋など大都市では 千人をこえる規模で走り回り、それをこえるギャラリーが待ち受けていて、いっしょに なって火を付けたり、商店を襲ったりした。静かな富山や高岡では2000人をこえる 暴走族と群衆が走り回り暴れ回った。かつての米騒動を思い出した人もいた。この年は 地方都市で激しかったのが特徴だった。

 大阪では何とも痛ましい火災事故が起きた。千日前デパートビルでの火災である。5 月13日の午後10時半、同ビル3階のスーパー・ニチイから出火、瞬く間に燃え広が り、7階にあったキャバレー・プレイタウンにも熱気と猛煙が流入した。防火や避難設 備が不十分なこともあって、居合わせた客やホステスはパニック状態に陥り、猛煙で窒 息したり、逃げようとしてビルの7階から飛び降りたりして、118人が死亡、42人 が負傷した。ホステスらが飛び降りる姿がテレビ画面に映し出され、たいへんな衝撃を 与えた。ビル火災では戦後最大の惨事となった。

 こんな中でも、永田町の政治家たちは、派閥抗争に明け暮れていた。7年をこえる長 期政権を誇ったさしもの佐藤内閣もついにレイムダック状態に陥るとともに、自民党名 物派閥抗争が激しくなったのだった。三木武夫、田中角栄、大平正芳、福田赳夫、中曽 根康弘という派閥の領袖たちが、オレがワレがで総裁=首相の座を奪い合ったのである 。6月17日佐藤首相は辞意を表明、7月5日に自民党大会が開催された。この間、カ ネ・モノ・ポストすべてが乱れ飛んだと言われる激しい争いの結果、田中角栄が勝利を おさめたのだが、とりわけ激しく争ったのは田中と福田で「角福戦争」と呼ばれ、両者 はこの後も事あるたびに対立した。

 当然のことであるが、彼らが激しく争えば争うほど面白いと思うものもいれば、ばか ばかしいと突き放すものもいる。多くの国民は後者で、彼らは必死になって争っている のだが、彼らが好きなセリフで言えば「国家、国民のために」頑張っているわけではな く、自分が権力の座につきたいからにすぎないからである。こんなものに国民はつきあ えないのである。それを象徴するセリフも流行した。前年、講談社が発行する「小説現 代」に連載され、この年にテレビドラマ化された笹沢左保作の『木枯らし紋次郎』が発 する「あっしにはかかわりのねえことでござんす」というセリフだった。紋次郎はこう はいいながらも、悪人たちを斬り捨てていったのだが、我が国民はシラけるだけだった 。

 田中はカネで首相の座を手にしたというのが正確だったのだが、マスメディアのほと んどは、田中を苦学力行した「今太閤」、財政や計数に明るかったことから「コンピュ ータ付きブルドーザー」と持ち上げ、内閣支持率は60・5%と空前の高さとなった。 田中は就任と同時に、以前から主張していた「日本列島改造論」を政策の中心として打 ち出したことにより、開発・土木建築ブームが起き、いっきに地価や建設材料が急上昇 した。「列島改造ブーム」と名づけられた強烈なインフレで、土地や建設材料のみなら ず他の物価も暴騰し、批判の声が上がったが、9月29日に日中共同声明に調印、国交 回復し外交関係を成立させ、その祝いということで中国からパンダ(カンカンとランラ ン)が上野動物園に贈られ、連日それを見ようとする長蛇の列ができ、ごまかされてし まい、この年は田中ブームで終わったのだった。

 さて、この年、流行歌のヒットに〃革命〃が起きた。これまではマスメディアに取り 上げられることによって、あるいは歌手がマスメディアが制作する番組に登場すること によってのみヒットしたと言っていい。だが、一人の若者があえて「テレビにでない」 やり方で、オリコン・ヒットチャート第2位に躍り出た。吉田拓郎で、彼が自ら作詞・ 作曲、歌った『結婚しようよ』である。この年の初めにCBSソニーから売り出され、 あっという間にヒットした。ただし、60年代末から活動してきたフォーク歌手やその ファンたちからは評判が悪く、彼らといっしょに歌うコンサートでは必ずといっていい ほど「帰れ」コールを受け、「商業主義者」と批判されていた。

 この頃には戦後復興を支えた昭和20年代「流行歌」、高度成長を応援し推進した昭 和30年代「歌謡曲」が完全に衰退し、ヒット曲も大きく変化をしていた。前の時代の ラストランナーが橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の「御三家」だったわけで、作詞では佐 伯孝夫・矢野亮・石本美由紀ら、作曲では吉田正・古関裕而・服部良一らが活躍したの だが、作詞では阿久悠・なかにし礼・山上路夫・山口洋子ら、作曲では平尾昌晃・都倉 俊一・森田公一・筒美京平・鈴木邦彦ら、歌手ではアイドル時代のさきがけをなす若い 女性歌手たちと主役交代していた。

 この時代の日本の流行歌は「カラーテレビ時代」に対応した「テレビ歌謡曲」で、そ れまでの歌謡番組の代表格が、玉置宏司会で「1週間のごぶさたでした」のセリフで始 まった「ロッテ歌のアルバム」から前田武彦・芳村真理司会の「夜のヒットスタジオ」 へと移った。この移行が意味するものは大きかった。一番大きかったことは、劇場や会 館のステージでスター歌手が歌う番組から、スタジオで、ナマで、その時々に一番人気 のある歌手が歌う番組へと変容したことだった。従来の大物スター歌手中心主義からフ レッシュな新人歌手や話題歌手、売れ筋歌手を主役とする番組になったのである。

 それは、そうしなければ視聴率が稼げないからで、レコードは比較的長い期間で売れ る売れないを見て販売戦略や戦術を考えることができたが、テレビはその瞬間が勝負で 明日も明後日もない世界であったから、常に売れ筋の歌手を番組に引きずり出してこな ければならなかった。そして、これは当然のことながら、レコード会社がスター歌手と ヒット曲をつくるのを待つのではなく、テレビがそれを創り出すということになった。 それが「スター誕生」であり、「勝ち抜き歌謡選手権」だった。これが流行歌を変えな いわけはなかった。

 ブラウン管から家庭に飛び込んで、一家を丸ごとつかまえる歌と歌手でなければなら なかった。テレビ映りがよくて誰からも親しまれる歌手が、すべての世代を縦断して受 け入れられる歌が必要となった。その条件を充たした代表作が、なかにし礼と平尾昌晃 が創り出し、小柳ルミ子が歌った新抒情歌とも呼ぶべき一連のヒット曲である。前年の 『わたしの城下町』に引き続いて『京のにわか雨』『雪あかりの町』、さらに安井かず みの詞で『瀬戸の花嫁』もヒットさせ、これでもかと思わせた。

 小柳の抒情路線のヒットは、当時テレビドラマ『時間ですよ』に出演して清純アイド ル・スターと呼ばれていた天地真理とも人気を相乗しあった。天地真理は小谷豊の詞で 森田公一が作曲し馬飼野俊一が編曲した『ひとりじゃないの』、山上路夫の詞で平尾昌 晃が作曲し竜崎孝路が編曲した『二人の日曜日』、山上路夫の詞で森田公一が作曲し馬 飼野俊一が編曲した『虹をわたって』を立て続けにヒットを飛ばした。

 こうした清純路線がヒットすると、これに対抗する歌も作りたくなるし、欲しいとい う大衆的欲求も出てくる。それにぴったりの歌をつくったのが、40年代流行歌最高の ヒットメーカー阿久悠・都倉俊一のコンビである。二人は、山本リンダに『どうにも とまらない』『狂わせたいの』『じんじんさせて』を歌わせ、小柳ルミ子の清純さとは 対照的なヒット曲を生み出した。小学館発行の『失われた歌謡曲』のい著者金子修介は 「ヘソ出し淫乱路線」と名づけているが、うまいネーミングである。

 テレビ各局が歌謡番組を競ったこともあって、この年も次々とヒット曲が生まれた。 量産と言っていいほどだった。「勝ち抜き…」からスターへの道を歩み始めた五木ろ しは、作詞山口洋子、作曲藤本卓也のコンビで『夜汽車の女』『待っている女』などを ヒットさせた。「スター誕生」は森昌子を第1号のスターとして『せんせい』でデビュ ーさせ、ヒットさせた。この年は、先でもふれたように男女ともアイドル時代の幕開け ともなり、郷ひろみが岩谷時子の詞、筒美京平の作曲で『男の子女の子』を歌い、麻岡 めぐみが千家和也の詞、筒美京平の作曲で『芽ばえ』、小林麻美が作詞橋本淳、作曲筒 美京平の『初恋のメロディー』、アグネス・チャンが作詞山上路夫、作曲森田公一、編 曲馬飼野俊一の『ひなげしの花』を歌ってデビューした。

 この他のヒット曲をランダムに挙げると、藤圭子が作詞阿久悠・作曲猪俣公章の『京 都から博多まで』、美川憲一が作詞斎藤律子・作曲中川博之・編曲馬飼野俊一の『さそ り座の女』、三善英史が作詞千家和也・作曲浜圭介・編曲近藤進の『雨』、和田アキ子 が作詞阿久悠・作曲森田公一の『あの鐘を鳴らすのはあなた』、ハニー・ナイツが作詞 池田友彦・作曲小林亜星の『ふりむかないで』、チェリッシュが作詞脇田なおみ・作曲 藤田哲郎の『なのにあなたは京都へゆくの』、朱里エイコが作詞山上路夫・作曲鈴木邦 彦の『北国行きで』、ペトロ&カプリシャスが作詞J・フィッシュベルガー・訳詞なか にし礼の『別れの朝』、内山田洋とクールファイブは作詞阿久悠・作曲彩木雅夫の『こ の愛に生きて』などである。橋幸夫は映画のヒットとともに『子連れ狼』もヒットし、 辛うじてスターの座にとどまった。

 この年の異色のヒット曲は、平田隆夫とセルスターズが歌った『ハチのムサシは死ん だのだ』だった。作曲は平田隆夫だが、作詞は内田良平(戦前の右翼の大物と同じ名) で、内田は当時の状況に何とも表現しがたい不満や憤懣、息苦しさを感じていて、闘っ たところで負けることは間違いないだろうが、闘わずにはおれない気持ちを「太陽に向 かって突進し、焼かれて死んでいくハチのムサシ」になぞらえたのだった。

 最後になったが、この年の最大のヒット曲は、何と言っても宮史郎、ぴんからトリオ が歌った『女のみち』であった。伝統的な日本的流行歌は過去のものになり、新しい歌 、新しい歌手がどんどん出ていく中で、まったくそんな風潮・流行に逆行するド演歌も ド演歌、「私が捧げた その人に…」と「ひたすら男に尽くし続ける女の歌」、まさし くこてこての演歌が流行ったのだ。時代があまりにも変わりすぎると、古いものが欲し くなるのである。