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   地獄にはまっています(番外編)

〜上方落語界に、いま、時ならぬ〃地獄ブーム〃が到来〜

 浪曲も講談も、また演歌も、その源流をたどると、仏教の声明(しょうみょう)や説 教説話にたどりつくとのことであります。小沢昭一さんがライフワークとして、全国各 地を歩き回って採話収集され、レコードやCDにまとめられた『日本の放浪芸』をはじ めとする諸労作を聞いてみますと、ほんとうにそうだなと思わされます。

 いっぽう、権力者や権威などクソ食らえ、日頃高いところでいばっている連中を引き ずりおろしてむちゃくちゃにし、タテマエばかりのいいかげんさをあざ笑って、「百の 説法も屁ひとつ」と、ご大層な説教など吹き飛ばしてしまう落語も、そのルーツは実は お寺で行われていた真面目な説話・説教にあったのだと言われると、「それ、ほんまか いな」と言いたくなるのですが、説教師さんの話を聞いてみると「なるほどな」と納得 させられます。

 それで、恐い恐いと脅かされる「地獄」も、当然のように落語の題材とされ、すごい 大作になっています。人間国宝桂米朝師匠の十八番の一つ『地獄八景亡者戯(じごくは っけいもうじゃのたわむれ)』はその代表的なものです。これは江戸時代後期、天保の 頃につくられた噺だそうですが、佐竹昭宏・三田純一編『上方落語』(筑摩書房刊)の 解説や、佐竹氏と米朝師匠との対談によりますと、昭和戦前、大阪の「文の家(ふみの や)かしく」という落語家が演じていたものを米朝師匠が受け継ぎ、大幅に手を加え、 甦らせたものだとのことです。五代目笑福亭松鶴も演じ、二代目三遊亭円遊は東京に持 っていき、アレンジして『地獄めぐり』として演じたこともあるそうです。

 昭和三〇年代から四〇年代にかけて、米朝師匠は何度も演じ、代表作の一つとなりま した。つい先日、日本経済新聞社から発行された『私の履歴書』には、これを演じた独 演会は常に満員だったと書かれています。サンケイホールが一杯になり、笑いの渦につ つまれ、たいへんな手応えだったそうが、なにせ一時間をこえる大作ですから体力も気 力も相当必要で、そう簡単に演じることができるというわけではなく、最近では、もう ほとんど演じられることはありませんでした。

 ところが、この春から米朝師匠の弟子の中堅落語家が次々にチャレンジし、上方落語 界には時ならぬ「地獄ブーム」が到来しています。3月に林家染二、5月に桂雀々、6 月に桂文我、7月には桂吉朝、8月には桂都丸と競っています。落語だけではなく、松 尾貴史さんらが舞台にもするそうです。

 これだけ演じられると、「地獄ブーム」と呼んでいいと思います。以前から、どうし ようもない事件が発生するたびに、「こんなことをしたやつは〃地獄行き〃じゃ」と叫 んできた私としては、多くの人が「地獄」を理解されるようになるのは結構なことで、 みなさんが落語会に足を運ばれるように期待したい。しかし、どうして、いま、落語界 で「地獄ブーム」なのか、興味深いものを感じないわけにはいきません。 なぜ、いま「地獄」が演じられるのか。

 いま上方落語界で、地獄が続々と演じられている理由について、私はまったく勝手に 、米朝師匠の弟子の面々が「師匠の元気なうちに師匠の十八番を何としても自分のもの にしよう」と思っているからではないか、と想像しています。

 この大作は、先にも記しましたように、昔の噺や民話の中に何か面白いネタははない かと探していた師匠が、文の家かしく師が演じていた江戸時代の噺を学び、改めて自ら 筆をとって本を書き、自ら演じて甦らせ、上方落語の代表作の一つと称されるまでにな ったものです。昔あった噺ですから、古典落語の一つと言ったほうがいいのかもしれま せんが、今日、上方落語の大作の一つに数えられるようになったのは、師匠が大幅に手 を入れ、演じられた結果です。この意味において、師匠の創作落語と言ってもいいよう な大作ですから、思い入れも普通ではないと思います。

 CDやカセットでまとめられた『桂米朝全集』第15巻におさめられていますので、 改めて聞いてみましたが、やはり実力のある落語家にしかできない大作です。68分4 0秒の間、地獄というテーマでお客さんを惹きつけ、笑わせ、なるほどと思わせるのは 、たいへんなものです。弟子の面々が何とか自分も演じることができるようになろうと 考えても不思議ではありません。自殺したあの枝雀さんも渾身の力をふりしぼり、前編 後編にわけて演じました(枝雀さんのは『枝雀落語大全』10巻におさめられています)。

 2つ目の理由は、これも勝手な想像ですが、米朝一門が「いま落語を甦らせないと廃 れてしまう」という危機感を持っているからではないでしょうか。近年、吉本興業所属 タレントの面々が日本のマスメディアを占領している感があって、いかにも関西の落語 ・漫才・喜劇は「我が世の春」を謳歌していると錯覚している人もおられるかもしれま せんが、「彼らが活躍しているのは、落語がうまいわけでも、漫才がおもしろいわけで もなく、ただテレビという媒体にあった瞬間芸がうまいだけ。芸能の能力は皆無であっ て、漫才や落語はむしろ廃れつつある」と酷評する人もいます。

 実際、彼らが上方の古典落語を知っているとはとても思えませんし、上方落語と漫才 の面白さの源泉である大阪弁のやりとりの奥深さをわかっているとも思えません。近松 門左衛門や井原西鶴の作品を知っているとはとうてい思えませんし、文楽、義太夫、歌 舞伎をかじっているとも思えません。こんな浅薄なものは芸とは言えませんし、いまい くら人気があったところで長続きするわけがありません。

 テレビでもラジオでも落語・漫才が登場する番組は関西でも数えるほどしかなくなり ました。このままでは落語も漫才も廃ります。関係者ならずとも、危機感を持って当然 のことでしょう。落語・漫才が人気をとりもどすためには、演ずる側の力をつけなけれ ばなりません。そのためには原点にもどるしかない、古典を徹底的に究めることだ、と いうことになっているのではないでしょうか。

 茶道の世界に「守、破、離」という言葉があります。「守」は、基本のセオリーを学 び、どこまでもそれを守り続けることです。これが十二分にできるようになると、今度 は基本のセオリーを破る努力をする、自分なりに変化させてみること、これが「破」で す。そしてさらに、もとのセオリーとはまったく違う自分の形をつくる、言うならばオ リジナリティーを創造することです。これが「離」です。

 落語の世界でも、おそらく同じでしょう。声の出し方、話し方、所作、動作、振る舞 いといった演じる際の基本のワザは古典落語を徹底的に究めることで、自分の血となり 肉になるのでしょう。言葉の意味、しゃれ、オチ、かけあい、間なども身につけていく のでしょう。三味線や太鼓を習ったり、小唄、端唄、清元、義太夫、民謡、浪曲なども 勉強して芸域を広げる努力もしなければならないでしょう。

 しかし、いずれにしても基本の技術・技能を習得し、必要な知識が身についていなけ れば、ギャグやコント、あるいはダジャレがうまいくらいでは素人芸の域を出ないもの でしょう。そういう意味において、落語家として一回りも二回りも大きくなるためには 、米朝師匠の弟子の面々は必死になってチャレンジしているのではないでしょうか。 三途の川の渡り方、六文銭の使い方、奪衣婆のあしらい方。

 さて、この『地獄八景亡者戯』は、魚の好きな男が鯖にあたってあの世に行き、少し 前に行っていたご隠居と六道の辻でばったり出会い、いっしょに地獄めぐりをするとい う噺であります。登場人物はこの二人だけではなく、生きるのが嫌になり、芸者・幇間 らを引き連れてやってきた大金持ちの若旦那などいろいろいて、娑婆同様にぎやかです。

 昔は、家で最期を看取り、通夜も葬式も家で行いましたから、死水の取り方、湯灌( 死者の身体の洗い方)、化粧の仕方、遺体の寝かせ方、納棺の仕方、装束の着せ方、頭 陀袋のかけ方、六文銭から通夜の持ち方、葬式の進行の仕方、日にち毎の法事の意味と 持ち方など、それなりにおぼえました。家の者が知らなかったら、町内の物知り、世話 役が教えてくれたものです。仏式は仏式、神式は神式、それぞれに精通していた人物が いましたし、近所のお寺の坊さん、神社の神主さんが来てくれたものです。

 不幸があると、家の入り口にすだれを裏返しにして下げ、「忌中札」を貼りましたが 、いまや都市ではまず家で葬式をしなくなりましたからでしょうか、あまり見かけなく なりました。通夜と葬式の持ち方を知らなくなっただけではなく、亡くなるのもほとん どが病院になりましたから、おろおろするだけで看取り方さえも知らなくなりました。 何とも哀しいことです。

 現代を生きる私たちは、昔に比べればはるかに学歴は高くなり、たくさんの知識を詰 め込んだはずです。ですが、肝心の人生最後の看取り方も知らなければ、見送り方も知 らない、こんな大事なことをも他人まかせにするようになってしまいました。『地獄八 景亡者戯』では、三途の川の渡り方、六文銭の使い方、奪衣婆(三途の川のほとりで亡 者の身ぐるみをひっぱがす老婆)のあしらい方などが、実におもしろおかしくやりとり されていき、死出の旅路のあれこれを教えてくれます。

 地獄の詳細については、『往生要集』などに描かれた八大地獄を基本にしながら、そ れを簡略化して「八景」とし、テンポよく場面展開していきます。一同が閻魔大王の前 に引き出され、殺生・偸盗・貪欲・飲酒・邪淫・妄語などの罪状調べが行われ、それぞ れが堕ちゆく地獄が決まるということで、いよいよ噺は面白くなっていきます。

 医者、軽業師、山伏、歯技師が地獄行きと決まります。医者は助かる患者も死なせて しまった罪、軽業師はみんなをハラハラさせ命を縮めた罪、山伏は怪しげな祈祷を行い 多額の金銭をむしりとった罪、歯技師は虫歯でもない歯を抜いて多額の金銭を貪った罪 です。それで熱湯の釜に入れらたり、人貪鬼に飲み込まれたり、八大地獄の責めをうま くデフォルメしています。

 もちろん、この連中は娑婆の修羅場を海千山千でくぐり抜けてきていますから、閻魔 大王や手下の鬼たちの懲らしめや罰にそう簡単には負けません。知恵を働かせ、連係プ レーでうまくしのいでいき、ついに鬼のほうがネを上げてしまいます。これがオチにな っています。

 こんな下手な要約では、せっかくの大作をつぶしてしまいますので、ぜひ本物を聞い ていただきたいとしか言いようがありません。誰もが恐れ怖がる閻魔大王や鬼たちを手 玉にとり、八大地獄さえも笑いにしてしまう、まさに落語の真骨頂だと思います。しか し、それでいて地獄の教訓が伝わってきます。思い切り笑わせてくれながら、「ただ笑 わせたらいい」というところに止まっていないのは、「さすが」と言わざるをえません 。どうか、米朝一門の地獄噺に足をお運びくださいますよう、かわってお願い申し上げ ます。

 以上をもちまして、「エッセイにならないエッセイ 地獄にはまっています。」を終 わらせていただきます。下手な文章に最後までおつきあいいただきまして、こころから お礼申し上げます。私の下手な地獄めぐりにおつきあいくださいましたみなさま方は極 楽往生まちがいありません。では。