月〜金曜日 20時54分〜21時00分


JR大阪環状線トリップ 

 大阪市内をグルッと循環している全長21.7kmのJR大阪環状線。この環状線を起点にJRや私鉄が大阪郊外や他府県へ延びており、いわば大坂市内の鉄道の動脈。この環状線沿線には大阪の歴史を物語る神社や寺院、史跡、名勝などが多い。今回はその一部を旅した。


 
大正・三軒家  放送 3月11日(月)
 JR大阪環状線大正駅は、その北側の大阪ドームへの最寄り駅としてポピュラーだが、以前の人の流れはもっぱら南へと向かっていた。大正区の地が人びとの生活の場となったのは江戸時代初期。この地の三軒家は中村勘助、泉尾は北村六右衛門、千島、恩加島は岡島嘉平次らが新田の開発に乗り出してからだ。
 大正駅のすぐ南、三軒家は慶長15年(1610)豊臣家が現在の三軒家北岸に軍船碇繋(いかりつなぎ)所を建設した。その際に木津村在住の中村勘助が、沿岸の堤防を建設、内側に田畑を開きこれを勘助島と言った。当時、ここに三軒の漁師の家が建っていたことから「三軒家」の地名がつけられたと言う。勘助は寛永7年(1630)木津川をしゅんせつするなど、大阪の水利の確保に尽力した。晩年、重税と飢饉に苦しむ人びとをわが身を犠牲にして救った。勘助が京都・八坂神社の分霊を勧進した八坂神社の裏手に、勘助の功績を賛えた彰徳碑が大正6年(1917)に建てられた。

中村勘助之碑(八坂神社)

(写真は 中村勘助之碑(八坂神社))

三軒家公園(近代紡績工業発祥の地)

 八坂神社の南にある三軒家公園内に「近代紡績発祥の地」の石碑が立っている。明治15年(1882)ここに大阪紡績会社(現東洋紡績)が三軒家工場の建設に着手した。
英国から紡績機を輸入、動力に蒸気を使ったレンガ造りの最新の近代設備工場として操業を始め“東洋のマンチェスター”と呼ばれたほどだった。工場跡地は今、公園や小学校となり、女工寮の跡地には市営住宅が建ち並んでいる。
 区民から募集した大正区の名称は、大正橋にちなんで「大正橋区」が多かったが、長すぎるので「大正区」となった。その大正橋は当時、島とも言える大正区を都心につなぐ市電と通すため大正4年(1915)に架けられた。船の航行を妨げないようアーチ型だった橋は、昭和43年(1968)に架け替えられ現在の橋になった。橋の欄干のデザインは五線譜で、ベートーベンの「第九」の音符が書かれ、歩道にはメトロノームとピアノの鍵盤が刻まれている。

(写真は 三軒家公園(近代紡績工業発祥の地))


 
弁天町・市岡  放送 3月12日(火)
 現在のJR大阪環状線弁天町駅は、遠くからでも見えるオーク200の超高層ビルが目印。江戸時代までのこのあたりは淀川や大和川の水が運んできた土砂が堆積してできた土地で、干潟や洲にアシが茂っていた。このためびたびの洪水に悩まされ、江戸時代初めから治水工事が始まった。これと併せて新田の開発が盛んに行われ、開発ブームと言った様相を呈していた。
 40カ所にのぼる新田開発の中でも元禄11年(1698)市岡与左衛門が開発した市岡新田は、これらの新田の中で最大の規模だった。新田を管理する事務所の会所があった弁天駅北の波除公園北西隅に「市岡新田会所跡」の石碑が立っている。

市岡新旧会所跡(波除公園)

(写真は 市岡新旧会所跡(波除公園))

三社神社

 江戸時代初期の新田開発によってできた新田では米や野菜、桑などが栽培されたが、特に市岡スイカが味の良さで評判になった。
 古代の大阪は難波と呼ばれ海上交通の要衝で、外国からの使者や文化を迎え入れる国際港だった。江戸時代からの新田開発で新しい土地が生まれ、明治時代から大正時代には埋め立て工事が始まり、海岸線はどんどん海へと延びた。今も大阪湾では埋め立て工事が進められており、大阪の海岸線はさらに海へと延びている。
 弁天町駅の西にある三社神社は新田開発の成功を祈り、守護神として市岡与左衛門が社殿を造営し、天照大神、豊受皇大神、住吉大神の三柱を祭った。三神を祭ったことから三社神社の名称になった。神社の所在地は数回変わり、昭和35年(1960)に現在地に移った。

(写真は 三社神社)


 
福島の社寺  放送 3月13日(水)
 JR大阪環状線福島駅周辺は庶民的な親しみやすい街だが、古い歴史を有する土地であることは案外知られていない。
 平安時代中ごろの延喜元年(901)太宰府へ左遷された菅原道真が赴任の途中、船の風待ちのために福島に立ち寄った。その時、土地の人びとが道真を丁重にもてなした。讒言(ざんげん)で左遷されることになり、失意の底にあった道真はこれをいたく喜び、里人の織った布に自分自身の姿を描いて与えた。この像が福島天満宮の御神体となっている。また福島の地名も村人たちが幸せになることを願って、道真がこの時につけたと伝えられている。道真が太宰府で死去した後の延喜7年(907)、村人たちが小さな社を建てて道真を祭ったのが福島天満宮の始まりとされている。

福島天満宮

(写真は 福島天満宮)

了徳院(聖天さん)

 福島駅の西はかつては浦江と呼び海だった。浦江の聖天さんと呼び親しまれ、庶民の信仰の場となっているのが了徳院。本尊の十一面観音像は、漁師の網にかかって海から上がってきたと伝えられている。
 江戸時代、浦江の湿地帯はカキツバタの名所として知られ、花の咲くころは聖天さんの参詣と併せてカキツバタ見物の人たちでにぎわった。芭蕉もこの地を訪れ「かきつばた 語るも旅の ひとつ哉」と詠み、その句碑が了徳院の境内にある。
 福島駅から聖天さんに通じる聖天通の商店街は、気軽に食事などができる店が軒を並べており、その日の疲れを癒すサラリーマンらでにぎわっている。

(写真は 了徳院(聖天さん))


 
桜宮・造幣局  放送 3月14日(木)
 JR大阪環状線桜宮駅に近いサクラの通り抜けで有名な造幣局は、近代国家建設を急ぐ明治新政府が幕末の乱れた貨幣制度を立て直し、先進国に劣らない貨幣を製造するために設立した。明治4年(1871)に創業、当時としては画期的な西洋式設備によって貨幣の製造がスタート、現在に至っている。
 創業式には右大臣(現在の総理大臣)・三条実美、参議・大隈重信、大蔵卿・伊達宗城ら政府高官のほか、各国公使らも来賓として出席した。大阪城内からは21発の祝砲、天保山沖の軍艦「富士」や外国軍艦からも祝砲が轟いた。
 明治政府が定めた貨幣条例では、通貨の単位は「円」で、円以下は「銭」「厘」とした。
旧1両は新1円。金本位制で1円の価値は金1.5グラムとなり、20円、10円、5円、2円、1円の貨幣が発行された。補助貨幣として銀貨、銅貨が作られた。銀貨は50銭、20銭、10銭、5銭、銅貨は2銭、1銭、半銭、1厘。

創業当時の正門

(写真は 創業当時の正門)

天正菱大判(秀吉の作った最初の大判)

 現在使用されている500円、100円、50円、10円、1円の貨幣もこの造幣局で製造されている。貨幣の製造は銅、ニッケルなどの貨幣材料を電気炉で溶解し金属の塊を造り、これを貨幣の厚みまでに圧延する。さらにこの金属板を貨幣の大きさに打ち抜き、貨幣の模様をプレスする。造幣局は通常貨幣のほか記念貨幣、勲章、褒章などの金属工芸品の製造、貴金属製品の品位証明をしたり、一般からの注文に応じてメダル、銀杯などの金属工芸品を製造している。
 造幣局構内の造幣博物館には、多数の古銭や外国貨幣など珍しい貨幣が展示されている。
豊臣秀吉が作った大判「天正菱大判」は貨幣史上最も豪華なもので、日本の歴史上初めて登場した定量、定型の金貨だった。だが恩賜用、贈答用に用いられ、通貨としての貨幣ではなかった。わが国で初めての幣制は徳川幕府が定めた「慶長の幣制」で貨幣単位は両、分、朱による4進法で1両=4分=16朱となる。

(写真は 天正菱大判(秀吉の作った最初の大判))


 
森ノ宮から玉造  放送 3月15日(金)
 JR大阪環状線森ノ宮駅の西向かいの森之宮神社は、崇峻天皇2年(589)に聖徳太子が四天王寺を建立した時、父・用明天皇を追慕して造営したと言う古社で初めは「難波の社」と呼ばれていた。推古天皇の時代に新羅から献上されたカササギを飼ったことから「鵲(かささぎ)の森の宮」と呼ばれ、それが略されて森之宮となった。
 境内の亀井水は聖徳太子が社殿を建立した時に湧き出でていた泉だという。病を治す霊験があると太子が亀井水と名づけたと伝えられている。森之宮神社は市街地にある神社の常で境内が狭いが、古い神社らしい風格と雰囲気は消えていない。

森之宮神社(鵲森宮)

(写真は 森之宮神社(鵲森宮))

勾玉(古墳時代・中期)

 森ノ宮駅の隣、玉造駅の付近は古代、その一帯が勾玉などを作る玉造部が居住していたことから「玉作岡」と呼ばれ、それが後の地名となった。。その玉作岡に神話時代の垂仁天皇のころに創建されたと伝えられているのが玉造稲荷神社。聖徳太子が仏教を日本に受け入れるか否かで物部守屋と争った時、玉作稲荷神社に戦勝を祈願し、玉作岡に陣を張ったととの伝えもある。
 昔から多くの人びとの信仰を集めた神社だったが、すぐそばに大坂城を築いた豊臣秀吉や秀頼ら豊臣家の崇敬も篤く、現在の石鳥居は秀頼が寄進したものだ。
 玉作稲荷神社創建2000年の記念事業として「難波・玉作資料館」が、昭和61年(1986)に境内にオープンした。館内には古墳時代の勾玉などの玉類や首飾り、韓国の新羅の首飾りのほか、玉作りの製作工程などがわかりやすく展示されている。

(写真は 勾玉(古墳時代・中期))


◇あ    し◇
八坂神社・中村勘助彰徳碑
JR大阪環状線大正駅下車徒歩9分。
地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅下車徒歩9分。
近代紡績工業発祥の地(三軒家公園内)
JR大阪環状線大正駅下車徒歩10分。
地下鉄長堀鶴見緑地線大正駅下車徒歩10分。
市岡新田会所跡(波除公園内)
JR大阪環状線弁天駅下車徒歩10分。
地下鉄中央線弁天駅下車徒歩10分。
三社神社JR大阪環状線弁天駅下車徒歩5分。 
地下鉄中央線弁天駅下車徒歩5分。
福島天満宮JR大阪環状線福島駅下車徒歩3分。 
JR東西線新福島駅下車徒歩1分。
阪神電鉄福島駅下車徒歩1分。
福島聖天了徳院JR大阪環状線福島駅下車徒歩5分。 
JR東西線新福島駅下車徒歩7分。
阪神電鉄福島駅下車徒歩7分。
造幣局・造幣博物館JR大阪環状線桜ノ宮駅下車徒歩15分。 
JR東西線大阪天満宮駅下車徒歩10分。
京阪電鉄、地下鉄谷町線天満橋駅下車徒歩15分。
地下鉄堺筋線南森町駅下車徒歩15分。
森之宮神社JR大阪環状線森ノ宮駅下車。 
地下鉄中央線、長堀鶴見緑地線森ノ宮駅下車。
玉造稲荷神社JR大阪環状線、地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車徒歩12分。 
◇問い合わせ先◇
大阪市大正区役所06−4394−9684 
八坂神社06−6551−5175 
東洋紡績06−6348−3111 
大阪市港区役所06−6572−5251 
三社神社06−6571−1058 
福島天満宮06−6451−5907 
福島聖天了徳院06−6451−7193 
造幣局06−6351−6150 
造幣博物館06−6351−8509 
森之宮神社06−6941−9294 
玉造稲荷神社06−6941−3821 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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