月〜金曜日 18時54分〜19時00分


上野市 

 交通の要衝だった伊賀上野は、津藩主・藤堂氏の支配下にあった上野城の城下町として栄えた。また、伊賀流忍者の町、俳聖・松尾芭蕉の生誕地、日本三大仇討ちの鍵屋ノ辻などで知られ、市内には一日では回りきれないほどの文化財や遺跡、史跡、名所、旧跡などが数多い。


 
伊賀流忍者博物館  放送 3月24日(月)
 戦国時代の大忍者・服部半蔵は伊賀忍家の出で、伊賀上野は今や世界に知られるニンジャのふるさとである。近鉄伊賀線を走る電車の車両には女忍者「くノ一」の顔を描かれ、手裏剣模様がちりばめられている。この絵を描いたのは「銀河鉄道999」でお馴染みの漫画家・松本零士氏で、2両連結の電車2編成が伊賀線を走っている。
 この忍者のふるさとに「忍者屋敷」「忍者体験館」「忍者伝承館」から成っている伊賀流忍者博物館がある。ガイドをしてくれる「くノ一」姿の女性スタッフが、忍者の住まいの「忍者屋敷」でどんでん返しや抜け道、隠し戸、刀隠しなどの仕掛けを使い次々に忍者の動きを演じてくれる。その機敏な動きに驚かされながら忍者の術やそのからくりを知ることができる。

忍者屋敷

(写真は 忍者屋敷)

水蜘蛛(忍術体験館)

 「忍者体験館」では潜入から脱出までの数々の忍びの道具にふれながら忍者の仕事が体験できる。館内には忍者が使った本物の手裏剣など忍具約400点が展示されている。
「忍者伝承館」では人相学や暗号の解読、古文書の翻訳など忍術のトリックを科学的に解明したり、謎に包まれた忍者の素顔を垣間見ることもできる。
 伊賀流忍者の根本は「気を見て虚を突け。恐れるな、侮るな、考えすぎるな」で、天の運、地の利、人の和を生かし、臨機応変に神出鬼没するのが極意とされる。食・香・薬・気・体の「忍者五道」は、ストレス社会を生き抜くヒントであり、メンタルヘルスにも役立つと言う。忍びの不文律「治にいて乱を忘れず」も現代に通じる教訓である。

(写真は 水蜘蛛(忍術体験館))


 
上野城と忍びの町  放送 3月25日(火)
 天正10年(1582)本能寺の変の後、忍者で知られる服部半蔵は、堺にいた徳川家康を伊賀、甲賀の忍者に護らせて伊賀越えの道を選び、無事に三河に帰城させたと伝えられる。家康はその功績を高く評価し、のちに8000石を与えたという。
 上野城は関ヶ原の戦いの後、天下をほぼ手中にした家康が大阪と伊勢の中間点、交通の要衝である伊賀上野を重視し、豊臣方への抑え、戦いの要として城造りの名人と言われた津藩主・藤堂高虎に上野城を築かせた。藤堂は慶長16年(1611)すでにこの地にあった城の大修築に着手し、高さ日本一と言われた30mの石垣を築き、その上に5層の天守閣を築こうとしていた。だが、翌年に大暴風雨に見舞われ完成間近の天守閣は倒壊してしまった。その後、豊臣家の滅亡、徳川幕府の武家諸法度による城普請の禁止などで、上野城の天守閣は建築されなかった。

藤堂高虎

(写真は 藤堂高虎)

高石垣(伊賀上野城)

 現在の上野城の白亜三層の天守閣は、昭和10年(1935)上野市の政治家・故川崎克氏が私財を投じて再建したもの。天守閣の1、2階は上野市の民俗、産業、文化資料の展示場、3階は展望場で上野市の眺めを楽しむ人が多い。高さ30mの高石垣は創建時のまま残りその技術の高さを伝えている。広大な上野城跡は上野公園として市民の憩いの場となっているほか、伊賀流忍者博物館や芭蕉翁記念館などの施設がある。
 上野市には城下町らしい町名が多く、その中に「忍町」と言う町がある。藤堂高虎が上野城を築き、城下町の建設を進めた折、いざという時に備え忍者を集めて住まわせたのが忍町であった。当時、忍者を住まわせていることを明らかにするのは珍しいことだった。

(写真は 高石垣(伊賀上野城))


 
鍵屋ノ辻  放送 3月26日(水)
 「ひだりならへ みぎいせみち」の道標が立つ大和街道と伊勢街道の分岐点が、かつて鍵屋と言う茶屋があったことから鍵屋ノ辻と呼ばれ、寛永11年(1634)に起きた伊賀越え仇討ちの舞台となった有名な所。今はその周辺が鍵屋ノ辻公園として整備され、伊賀越資料館や数馬茶屋などがあり、観光客らがこの有名な仇討ちの場所を訪れ、周辺を散策したり資料館を見学して当時に思いを巡らせている。
 事件は弟を河合又五郎に殺された渡辺数馬が、義兄の柳生新陰流の剣豪・荒木又右衛門の助太刀を得て11月6日の早暁、江戸へ向かう又五郎一行を鍵屋ノ辻の茶屋「万屋」で待ち伏せ、大立ち回りの末に又五郎を討ち取った。この事件は「伊賀越鍵屋ノ辻の決闘」として、曽我兄弟、赤穂浪士の仇討ちと並ぶ日本三大仇討ちのひとつとして浄瑠璃、芝居、映画、講談、小説などに取り上げられ、義を賛美する日本人の心を騒がせ大変な人気を博した。

伊賀越仇討之図(伊賀越資料館)

(写真は 伊賀越仇討之図(伊賀越資料館))

数馬祝膳(数馬茶屋)

 鍵屋ノ辻公園の一角にある伊賀越資料館には、この仇討ち描いた錦絵や脚本、又五郎の遺品の鎧(よろい)など約100点が展示されている。資料館の中庭には数馬が討ち取った又五郎の首を洗ったとされる「首洗池」が復元されている。鍵屋ノ辻付近で当時の面影を残すのは辻の道標とわずかに残る松並木ぐらい。
 数馬、又右衛門が待ち伏せした茶屋「万屋」は、今は「数馬茶屋」に名を変えている。
柱に刀傷が残っている茶屋は観光客の休息の場となっている。又右衛門は仇討ちの朝に「万屋」の主人にそばと目刺しのイワシを注文したという。これは数馬が首尾よく仇討ちを果たすことを祈り、「傍」(そば)で「ゆわす」(イワシ)はめでたいことだと語ったと伝えられ、数馬茶屋ではこのメニューを定食祝膳として提供している。

(写真は 数馬祝膳(数馬茶屋))


 
俳聖のふるさと  放送 3月27日(木)
 “芭蕉は忍者だった”と真面目に唱える人がいるほど、俳聖・松尾芭蕉(1644〜94)は日本各地の動静を探るがごとき漂泊の後半生を送った。芭蕉忍者説の真偽はともかく、芭蕉が正保元年(1644)に忍者の町・伊賀上野で生まれたのは事実で、29歳までこの地で過ごし四季、自然を観照して俳人としての感性を養ったと言えよう。
 上野市赤坂町に芭蕉の生家が残っており、生家の裏には芭蕉が処女句集「貝おほひ」を執筆した庵の「釣月軒」がある。この庵は芭蕉が上野に帰省した時には起居していた場所でもある。一般公開されてる生家には句碑の拓本や生活用品などが展示されている。生家近くの松尾家の菩提寺・愛染院には芭蕉の遺髪を納めた故郷塚がある。

釣月軒

(写真は 釣月軒)

俳聖殿

 芭蕉は「貝おほひ」を伊賀上野の産土神である上野天神宮に奉納して文運を祈願、江戸へ赴いた。この時29歳だった。江戸で俳諧の修業を重ね、門人から芭蕉の株を贈られことにちなんで「はせを」の俳号を名乗るようになった。死去した母の墓参を兼ねての故郷・上野への旅を「野ざらし紀行」にまとめた。その後「笈の小文」「更級紀行」「奥の細道」と漂泊の旅の紀行を著し、大坂・南御堂近くの花屋の離座敷で51歳の生涯を終えた。
 芭蕉の旅姿を象った俳聖殿が芭蕉生誕300年を記念して、昭和17年(1942)上野城そばの上野公園に建てられた。丸い屋根は旅笠、下の屋根の八角のひさしは袈裟、それを支える柱は行脚する翁の杖、俳聖殿と書かれた木額は顔をアレンジしたものである。
堂内には等身大の伊賀焼の芭蕉像がまつられている。俳聖殿の近くには芭蕉に関する資料が展示されている芭蕉翁記念館もある。
 上野市街地の南には芭蕉翁五庵のひとつ蓑虫(みのむし)庵がある。芭蕉翁五庵で現存しているのはこの庵だけで、芭蕉が庵開きに贈った「みの虫の 音を聞きにこよ 草の庵」の句にちなんで名づけられた。

(写真は 俳聖殿)


 
忍者の食  放送 3月28日(金)
 伊賀地方には牛肉をはじめうまいものが多いが、忍者の町ならではの名物食品がいくつもある。敵地に何日も潜入する忍者の携帯食と言われた「かたやき」もそのひとつ。小麦粉と砂糖を練り合わせ、風味を出すために山芋をおろして混ぜたり、青のり、黒ゴマを乗せて円形にしながら完全に水分がなくなるまで、約25分かけてじっくり焼きあげる。
こうして焼いたかたやきは半年間も保存が利き、歯では割れないほど堅い。
 忍者は刀のつばや石などに打ちつけたり、別のかたやきでたたいて割ったと言う。小さく割って口に含むと柔らかくなり香ばしい味が口いっぱいに広がる。かたやきを焼いている店に行って「柔らかいかたやきをください」と言えば、半焼きでふわふわした香ばしいかたやきが賞味できる。このかたやきは店でしか食べられない“内緒のかたやき”と言える。

養肝漬(宮崎屋)

(写真は 養肝漬(宮崎屋))

豆腐田楽(田楽座わかや)

 伊賀地方特産の白瓜の芯を抜き、刻んだシソ、ショウガ、ダイゴン、キュウリなどを詰め、たまり醤油に2年間漬けたのが「養肝漬(ようかんづけ)」。津藩主・藤堂高虎が陣中の食料として常備し、武士の肝玉を養おうとこの名を命名したと伝えられ、忍者の携帯食にも使われたようだ。現代では輪切りにして温かいご飯の上に乗せ、熱いお茶を注ぐと帯養肝漬茶漬けとなる。細かく刻んでキュウリもみに入れればカッパ漬けになり、おにぎりや弁当にも使えるなど食べ方はいろいろある。
 蛋白質の豊富な豆腐を味噌だれで香ばしく焼くのが豆腐田楽。魚介類の乏しかった伊賀地方では古くから栄養豊富な豆腐作りが盛んで、この豆腐を利用した豆腐田楽の味が楽しまれていた。ほかにコンニャク、サトイモ、ナスなども同じように味噌だれで焼いた。伊賀地方には古くから田楽法師の田楽能が流行していたが、その田楽芸の中に一本足の竹馬のようなものに乗って芸をする高足と言う曲芸があった。一本の竹につかまる白装束の田楽法師のイメージから串に刺された豆腐を豆腐田楽と呼ぶようになった。

(写真は 豆腐田楽(田楽座わかや))


◇あ    し◇
伊賀流忍者博物館、伊賀上野城近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。
鍵屋ノ辻、伊賀越資料館、数馬茶屋近鉄伊賀線西大手駅下車徒歩5分。
芭蕉翁生家、愛染院近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩10分。 
俳聖殿、芭蕉翁記念館近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。 
蓑虫庵近鉄伊賀線茅町駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
上野市役所観光課0595−21−4111 
伊賀上野観光協会0595−26−7788 
伊賀流忍者博物館0595−23−0311 
伊賀上野城0595−21−3148 
伊賀越資料館0595−23−5370 
数馬茶屋0595−23−9103 
芭蕉翁生家0595−24−2711 
芭蕉翁記念館0595−21−2219 
蓑虫庵0595−23−8921 
鎌田製菓(かたやき)0595−21−1345 
宮崎屋(養肝漬)0595−21−5544 
わかや(豆腐田楽)0595−21−4068 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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