月〜金曜日 21時48分〜21時54分


京都国立博物館 

 京都、奈良、東京の国立博物館の前身は旧帝国博物館で、それぞれ古都の京都や奈良、全国各地の社寺などに伝えられ、後世に引き継がれた日本の伝統的な文化、芸術や文化財の保護、収蔵を目的に明治時代に設立された。今回はその中でも、平安時代の美術品に優れたものが多い京都国立博物館を紹介する。


 
赤レンガの陳列館  放送 7月23日(月)
本館(重文) 京都国立博物館は明治30年(1897)に開館し、京都の社寺などに伝えらた美術品や文化財の保護に当たってきた。赤レンガ造りの本館(重文)は、明治28年(1895)竣工したフレンチ・ルネッサンス様式の洋風建築で、背景の東山の自然ともよく調和して美しい景観を形成している。
 この建物は当時の宮内省の技官だった片山東熊(かたやまとうぐま)が設計、建築した代表作のひとつ。片山は当時の洋風建築家の第一人者で、奈良国立博物館、赤坂離宮迎賓館、東京国立博物館表慶館なども設計している。
 旧帝国京都博物館は大正13年(1924)に京都市に下賜され「恩賜京都博物館」と改称されたが、昭和27年(1952)に再び国に移管され「京都国立博物館」となった。
(写真は 本館(重文))

中央ホール 本館の内部は高い天井まで漆喰で白く塗りあげられ、中央ホールの周囲は頭注飾りを持つ円柱に囲まれた鑑賞空間を作りだしている。また、天上中央を採光のためガラス張りしており、当時としては画期的な設計だったようで、明治時代中期を代表する洋風建築として価値が高いと評価されている。本館と同じ赤レンガ造りの正門、袖塀、札売場も創建当時のものがよく残っている。本館前の広い庭には噴水とロダンの「考える人」の彫像があり、ゆっくりと憩う人も多い。
 床面積3000平方mの本館は主に特別展などに使用されている。常設展など通常の展示は、昭和41年(1966)建築の地上2階、地下1階の新館(床面積8600平方m)で行われている。全収蔵品は約1万点で、館有品が約4000点、社寺などからの寄託品約6000点。このうち国宝、重文は館有品が約150点、寄託品が約600点にのぼり、特に平安時代の美術品に優れたものが多い。収蔵品を展示している常設展示品は原則として毎月、すべての展示品を替えている。また、年に数回、特別テーマを設けた特別展も開催している。
(写真は 中央ホール)


 
方広寺石垣  放送 7月24日(火)
方広寺石垣 京都は延暦13年(794)の平安遷都以来、日本の都として人々の営みがあった。その証として地下には多くの遺跡が埋もれている。京都国立博物館周辺も後白河法皇の院の御所・法住寺殿があったところで、博物館南側の三十三間堂(蓮華王院)も法住寺殿の一部に建立されている。
 博物館の新館建て替え工事に際し、事前の発掘調査が平成10、11年に行われた。その時に東西方向に並ぶ2〜3mの巨石の列が発見された。この巨石は博物館の北側にある方広寺の石垣の一部であることがわかった。石垣に必要以上の巨石を使っているのは、方広寺を建立した豊臣秀吉が自分の権力を誇示しようとしたもので、これらの巨石は全国の大名に命じて寄進させ、秀吉に逆らえない大名たちは莫大な費用と労力を費やして巨石を運んできたようだ。新館の建設が行われていた昭和38年(1963)にも、方広寺南門跡の礎石が発見されているがそのまま埋め戻されている。
(写真は 方広寺石垣)

国家安康の鐘 方広寺は豊臣秀吉ゆかりの寺で、梵鐘の銘文が大坂冬の陣の発端となり、豊臣氏滅亡のきっかけとなった寺としても有名である。
 秀吉は天正14年(1586)奈良・東大寺にならって大仏を造立しようと方広寺の造営を始め、文禄4年(1595)にほぼ大仏殿が完成し、高さ約19mの木製金漆塗座像の大仏を安置した。翌年、近畿地方を襲った大地震のため大仏は大破、慶長3年(1598)秀吉は大仏開眼を待たずに死去、秀頼がその遺志を継いで大仏復興を命じ慶長17年(1612)金銅製大仏が完成した。大仏殿、大仏とも奈良・東大寺の大仏殿と大仏をしのぐ大きさで、ここにも秀吉の権力誇示があらわになっている。大仏殿は豊臣氏滅亡後も残り「京都の大仏さん」と呼び親しまれていたが、寛政10年(1798)の落雷で焼失、天保年間に旧大仏の10分の1の木造が寄進されたが、それも昭和48年(1973)の火災で焼失した。
 方広寺の梵鐘(重文)は、高さ4.5m、口径2.8m、厚さ3cm、重量82.7トンの大鐘。この鐘の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」の字句があり、徳川家康は「家康の名を分断して引き裂けば国安し」「豊臣を君として、豊臣の繁栄を楽しむ」ことを祈願したものだと豊臣家に言いがかりをつけ、大阪冬の陣の発端となり、続く大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡した。この大鐘は現在も鐘楼にかけられ、大坂冬の陣と発端となった銘文を見ることができる。
(写真は 国家安康の鐘)


 
書画  放送 7月25日(水)
餓鬼草紙(国宝) 京都国立博物館の常設館では約1万点にのぼる館有品と寺院からの寄託品を定期的に展示替えして陳列している。今回は館有品の中の書画から特に優れた作品を紹介する。
 「水天像(すいてんぞう)」(国宝・平安時代後期)は、暗い背景からほの白く浮かびあがる姿が水の精のように優美で、着衣の彩色も柔らかく華やかで、仏画の最盛期を代表する作品のひとつである。
 「釈迦金棺出現図(しゃかきんかんしゅつげんず)」(国宝・平安時代後期)は、釈迦の入滅を聞いてかけつけた釈迦の母・摩耶夫人が、釈迦の鉢と錫杖を抱いて泣いた。その時、釈迦は大神通力をもって棺のふたを開けて身を起こし、母のためにこの世の無情の理を説き、説き終わると再び棺のふたを閉じたと言う、摩訶摩耶経(まかまにきょう)の釈迦再生説法の場面を描いた壮大な仏画。
 「餓鬼草子(がきぞうし)」(国宝・平安時代後期)は、墓に手向けられた水のしたたりをなめて命を保つ食水餓鬼を描いたもの。手足はやせこけて細いが、腹だけが異常に肥大した飢えに苦しむ餓鬼の姿を柔軟な線と淡彩で描き出している。平安時代後期に流行した六道絵巻のひとつである。
(写真は 餓鬼草紙(国宝))

天橋立図(国宝) 「古今和歌集巻第十二残巻(本阿弥切本)」(国宝・平安時代後期)は、丸みを帯びた個性あふれる書風と雲母で文様をすり出した料紙が美しい。巻第十二の料紙は白唐紙にキョウチクトウの雲母型文様がすり出されており、その美しさが素晴らしい。本阿弥光悦が愛蔵していたので「本阿弥切本」と名付けられた。
 手鑑(てかがみ)「藻塩草(もしおぐさ)」(国宝・奈良〜室町時代)は、筆跡鑑賞のために経巻や歌書、消息(手紙文)などの巻物や和綴じ本からその一部を切り取って厚手の台紙に貼って蒐集したもを手鑑と言い、古筆の筆跡鑑定と鑑賞の宗家・古筆家に代々伝わっていたものである。
 「天橋立図(雪舟筆)」(国宝・室町時代)は、日本三景のひとつ、天橋立を東側から見下ろすように描いた図で、絵の中に智恩寺の多宝塔と成相寺の伽藍が同時に描かれて入ることから、制作年代は明応10年(1501)から永正3年(1506)の間と見られ、雪舟が80歳を越してから現地に出向き写生した作品と言える。雄大に組み立てられた構図には雪舟の画風がいかんなく発揮されている。
(写真は 天橋立図(国宝))


 
京焼  放送 7月26日(木)
色絵釘隠 伝・仁清作(重文) 京都国立博物館は日本の日本の陶磁器を地域別、窯の系統別に展示している。その中で京都で制作された陶磁器の京焼にスポットを当て、代表作を紹介する。京焼は初期(17〜18世紀)には陶器の仁清窯、乾山窯、古清水様式が主流を占め、中期(18〜19世紀)以降は、陶器と磁器が併存し、時代の好みや流行を端的に表現して陶芸界をリードしていた。
 「色絵石垣文角皿(いろえいしがきもんかくざら)乾山銘」(江戸時代)は、5枚のうちの1枚に「日本元禄年製乾山陶隠」の銘があり、乾山焼の中で最も古いもののひとつとされている。色絵を得意とした乾山の特徴がよく現れている。
 「色絵釘隠(いろえくぎかくし)伝・仁清作」(重文)は、桃山時代から江戸時代にかけて流行した七宝製釘隠を陶器で作っているのがこの作品。扇面を二つ合わせたものと菊の折枝の2種がある。
(写真は 色絵釘隠 伝・仁清作(重文))

古清水色絵松竹梅文高杯 「古清水色絵松竹梅文高杯(こきよみずいろえしょうちくばいもんたかつき)」(江戸時代)は、天板いっぱいに描かれた松竹梅文に金彩(きんだみ)をふんだに用いている。
皿部がへたらないように焼きあげた技術が高く評価されている。
 「古清水色絵松竹市松文平向付(こきよみずいろえまつたけいちまつもんひらむこうづけ)」は、型刷りの技法を活用した絵付けの作品と見られ、一節の竹、若松、市松文を緑と青釉で描いた単純で洒落た意匠の作品。
 「古清水銹絵染付幔幕文筒向付(こきよみずさびえそめつけまんまくもんつつむこうづけ)」は、銹絵と染付だけを用いて幔幕文を描いた筒型の向付で、洒落た感覚の作品と評されている。
  「古清水銹絵染付芦雁文帆掛舟向付(こきよみずさびえそめつけあしかりもんほかけぶねむこうづけ)」は、和舟の帆の形の器に銹絵で絵付け、染付に白絵薬を用い、芦に落雁を描いている。
(写真は 古清水色絵松竹梅文高杯)


 
龍馬の遺品  放送 7月27日(金)
龍馬書簡”霧島山登山図”(重文) 京都に都が移された平安遷都以来、京都を舞台に活躍した人々は多いが、その中で人気のトップは幕末に登場した坂本龍馬(1835〜67)と言えそうだ。土佐高知城下の郷士の家に生まれた龍馬は、12歳の時に実母を亡くし、乳母「おやべ」や姉の「乙女」に育てられた。幕末に日本国内を東奔西走し、薩摩の西郷吉之助と長州の桂小五郎の間で薩長同盟を締結させ、倒幕、維新への流れを決定的なものにしている。
 慶応3年(1867)12月京都・四条河原町の潜伏先で刺客の凶刃に倒れ、維新の実現を見ずに32歳で波乱の生涯を閉じた。京都には龍馬の墓地や実家同様に親しんだ伏見の船宿・寺田屋や海援隊の事務所になったいた河原町の材木商・酢屋などゆかりの場所が多い。
 京都国立博物館には龍馬の関係者から書状、記録類、遺品など10点が寄贈されていたが、平成11年(1999)に国の重要文化財に指定された。その中から主なものを紹介する。
(写真は 龍馬書簡”霧島山登山図”(重文))

血染めの掛軸(重文) 「坂本八平訓戒書」(重文)は、龍馬が19歳の時、江戸へ剣術修行に行った時、父・八平が龍馬に与えた訓戒書。龍馬は江戸滞在中に多くに人たちと交わりを深めている。
また、米国のペリー艦隊、いわゆる黒船が浦賀沖に来航したのを近くで見ており、この事件はその後の龍馬に大きな影響を与えた。
 「龍馬書簡(慶応2年12月4日・乙女あて)」(重文)は、薩長同盟を成立させたこと、寺田屋で幕府方の襲撃を受けたが難を逃れたこと、この襲撃をいち早く知らせた寺田屋の娘・お龍と傷の養生のため、霧島山麓の温泉へ行き、霧島山へ登った図を添えて知らせている。この旅行はお龍との新婚旅行として有名である。このほか、手紙にはその年に起きた出来事を知らせている。早くに母親を亡くした龍馬が慕っていた姉への思いが込めらた手紙と言える。
 「龍馬書簡(慶応3年6月24日・乙女とおやべあて)」(重文)は、京都の海援隊事務所で書いた長文の手紙で、海援隊の活動の様子や京都の龍馬の所へ来ていた姪の夫のことのほか、姉が京都へ出てきたいとの望みを丁重に断っている。
 「板倉机槐堂筆・梅椿図(血染めの掛軸)」(重文)は、龍馬が襲われた部屋にあった掛け軸に飛び散った血の跡があるもので、幕末の京都の生々しさを今に伝えている。「三徳(紙入れ)」(重文)は、龍馬が愛用していたもの。
 京都国立博物館は、これら坂本龍馬関係資料の特別陳列展「坂本龍馬〜龍馬をとりまく人びと〜」を平成13年8月1日から9月2日まで行う。
(写真は 血染めの掛軸(重文)) (写真は 血染めの掛軸(重文))


◇あ    し◇
京都国立博物館、
方広寺
京都市バス、京都バス東山七条下車又は
 博物館前三十三間堂前下車 すぐ。
京阪電鉄京阪七条駅下車 徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
京都国立博物館075−541−1151 
方広寺075−531−4928 

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