月〜金曜日 18時54分〜19時00分


和歌山・高野山 

 和歌山の高野山は滋賀の比叡山と並ぶ日本仏教の一大聖地である。国家の安泰を願い一般大衆の現世での浄土を説いた弘法大師・空海は、日本各地にその足跡を残している。
四国八十八カ所巡礼に代表される弘法大師信仰は、庶民の間に根強いものがある。天皇、皇族から武士、商人、一般庶民まで幅広い信仰を集めた弘法大師の魅力を高野山で探ってみた。


 
空海の導き  放送 8月19日(月)
 高野山は空海(774〜835)によって、弘仁7年(816)に開かれた日本仏教・真言密教の一大聖地である。30歳で中国・唐へ留学して密教の奥義を極めた空海が大同元年(806)帰朝の途中、明州の浜から「伽藍(がららん)建立の地を示し給え」と仏具の三鈷を空中へ投げた。
 帰朝後、空海は高野山の松に留まる三鈷を見つけ、ここに伽藍を建立した。まず大塔、講堂(金堂)をはじめ諸堂、僧坊を建立し、この一山を金剛峰寺と名づけ、新しい真言密教の立教と開宗を宣言した。現在もこの壇上伽藍の地には「三鈷の松」が植わっており、その松葉は3本に分かれた珍しいものである。
 現在の広大な高野山内は、一山の総門である大門から入り、根本大塔、金堂、西塔、東塔、御影堂、総本山の金剛峰寺、奥の院の弘法大師御廟、灯籠堂などの数多くの諸堂塔が建ち並んでいる。このほか山内には117寺院があり、このうち53カ寺が宿坊寺院として、一般参詣者の宿泊などに利用されている。

大門

(写真は 大門)

根本大塔

 弘法大師は奈良時代末の宝亀5年(774)に讃岐国・現在の香川県善通寺市に生まれ、幼名は真魚(まお)といった。15歳の時に京にのぼり、18歳で当時の官吏養成の大学に入ったが、苦しみ悩む人を救いたいという志を持つ大師には満足感が得られなかった。そのような時、奈良の学僧・勤操大徳(ごんそうだいとく)から仏教を学び、さらに虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)も学んだ。19歳で出家得度し、教海と名乗り後に如空と改めた。22歳の時、東大寺で受戒、空海と改名、各地の寺院で修行を重ねた。
橿原市の久米寺で大日経7巻を感得し、これが空海に大きな影響を与えた。あらゆる経典をひも解いたとき、梵語の研究をしなければ仏教の奥義を極められないと入唐を決意し、長安で青龍寺の恵果阿闍梨の門に入り、密教の奥義を学んだ。恵果阿闍梨から「もう教えることは何もない」といわれ帰国した空海は、恵果阿闍梨から学んだ密教に基づき、今日の高野山真言宗を広め、日本仏教の傑出した僧となった。

(写真は 根本大塔)


 
金剛峰寺  放送 8月20日(火)
 高野山を開創した空海は、この一山全体の総称として金剛峰寺と命名した。現在の金剛峰寺は、山上のほぼ中央に位置する真言宗3600カ寺の総本山だが、豊臣秀吉が文禄2年(1593)亡母の菩提を弔うため寄進した青巖寺がもとになっている。
 弘法大師の遺志を継いだ第2世座主・真然(しんぜん)大徳が、苦節20年をかけて大伽藍を整備し、高野山が現世の浄土であるとの真言密教の教えを世に広めた。その後、落雷などによる火災で堂塔が焼失したり、宗派内での争いなどで盛衰を重ねてきたが、天下の総菩提寺として弘法大師・空海の教えを慕う多くの信者の大師信仰の聖地として今も参詣者が絶えない。

大広間・襖絵

(写真は 大広間・襖絵)

書院・上壇の門

 金剛峰寺の本殿は江戸時代末の文久2年(1862)の再建で、大広間の群鶴図、梅の間の梅月流水の絵、豊臣秀次自刃の間ともいわれている柳の間の四季の柳など、各室のふすま絵は金剛峰寺の代表的な文化財として多くの人たちに深い感銘を与えている。天皇、上皇を迎える際の応接の間に当てられた上壇の間は、金箔押しの壁、格天井はすべて花の彫刻が施され、欄間は透かし彫りになっているなど、その意匠の豪華さには目を見張らされる。
 金剛峰寺の台所は和歌山県指定文化財になっており、大勢の僧侶の食事を賄ってきた3つの大きな釜が今もかまどの上に乗っている。柱や梁は薪を燃料にしていたころのススで真っ黒になっていおり、その歴史を物語っている。現在、日ごろは使っていない大きな2石釜も、毎年12月28日のもちつきの時には大役を果たしている。
 奥殿の前にある蟠龍(ばんりゅう)庭は、石庭としてわが国最大で2340平方mもある。白砂で現された雲海の中に雌雄一対で向かいあう多くの龍が奥殿を守っている。龍は四国産の青花崗岩140個、雲海の白砂は京都の白川砂が使われている。

(写真は 書院・上壇の門)


 
奥の院  放送 8月21日(水)
 奥の院の入り口の一の橋からいちばん奥の弘法大師の御廟まで1.9kmの石畳の参道の両側には、老杉が高くそびえている。その木々のもとに20万基を超える各時代のさまざまな人びとの供養塔が並ぶ浄域が奥の院である。高野山は日本第一の死者供養の霊場であり、宗派を超えた日本の総菩提所であることを、奥の院の墓原が示している。
 奥の院参道の有名な墓石、供養塔、石碑群をあげると親鸞上人、曽我兄弟、平敦盛、熊谷直実、上杉謙信、武田信玄・勝頼、柴田勝家、織田信長、豊臣家、明智光秀、石田三成、千姫、前田家、毛利家、小早川家、大岡越前守、徳川吉宗、伊達政宗、薩摩島津家、秋田佐竹家、井伊直弼、安芸浅野家、浅野内匠頭、赤穂四十七士のほかに高麗陣敵味方戦死者供養費、江戸安政震災供養碑、関東大震災死者供養塔、阪神淡路大震災物故者慰霊碑があり、第二次世界大戦戦死者供養英霊殿も建っている。また松尾芭蕉の「父母のしきりにこいし雉子(きじ)の声」の句碑も墓石群の一角にある
上杉謙信霊屋

(写真は 上杉謙信霊屋)

灯籠堂

 弘法大師は庶民救済や教育、温泉の発見、石炭、石油の使い方、満濃池の造築をはじめとする各地での橋、道の土木工事など、日本人の生活と文化の向上に尽くしたが、その足跡が日本各地に残っている。こうした活動に終始した大師は、死期の迫った承和2年(835)3月15日、高弟たちを集め「3月21日が自分が入定する日である」と予言し、真言宗が守らなくてはならない25カ条の遺告(ゆいこく)示し、予告通り入定した。
 大師御廟は入定前に大師自らが入定の地として定めた所に建っている。大師は手に大日如来の定印を結び、口に真言を唱え、結跏趺坐(けっかふざ)で生身のまま62歳で仏となった。この即身成仏した大師のために今日も生前と同じように、一日も欠かさず食事の給仕が続けられている。この大師御廟を中心とした奥の院は、文字通り弘法大師信仰の聖地であり、いつも厳かな雰囲気が漂っている。
 御廟の手前にある灯籠堂には1000年近く燃え続けている“消えずの火”がある。そのひとつである貧しい女性が父母の菩提のため自らの髪を売った金で献じた「貧者の一燈」は有名である。堂内は先祖供養、家内安全などを祈願して奉納された灯籠でいっぱいになっている。

(写真は 灯籠堂)


 
心の修行  放送 8月22日(木)
 高野山の117寺院のうち53カ所の宿坊寺院に宿泊しながら朝の勤行、写経などさまざまな修行が体験できる。高野山は弘法大師の教えの通り大衆の苦悩を救済してくれるところで、誰でも気軽にお参りができ、宿泊、修行ができる雰囲気に包まれている。
 そんな修行のひとつに「阿字観(あじかん)」がある。阿字観は真言密教の根本経典「大日経」をもとにしたにした座禅瞑想法。真言宗ではすべての言葉の始まりを「阿」とし、阿の梵字は本尊・大日如来そのもので大宇宙を表す。結跏趺坐(けっかふざ)し、手で法界定印を結び半眼でゆっくりと呼吸をし、心にこの「阿」を描き、瞑想することで、仏と自分を含めた大自然とが一体であることを体感できるのが阿字観である。

阿字観道場

(写真は 阿字観道場)

胎蔵界曼荼羅

 金剛峰寺第401世座主・中井龍瑞大僧正の発願と多くの人たちの寄進で昭和42年(1967)に阿字観道場が建てられた。金剛峰寺では一般の人たちにも気軽に阿字観道場で「阿字観」「月輪観」の修行が体験できるということで体験修行に誘っている。約3時間の座禅瞑想のコースや1泊のコースが準備されており、初めての人でも無理なく修行にはいれる。
雑念がふっ切れない人、心の安定と心の大きさを養いたいと思っている人は、一度体験してみるのもよいかもしれない。
 このほか高野山では信者たちが一年中、いろいろな修行をしている。阿字観の座禅瞑想のほかに各宿坊での写経などは最も一般的だが、特に寒い高野山での寒中水行の修行に挑戦する信者もおり、その意志の強さに見守る人も身が引き締まる思いがする。

(写真は 胎蔵界曼荼羅)


 
高野山の楽しみ  放送 8月23日(金)
 高野山の53カ所の宿坊寺院では、それぞれ独自の工夫がなされた精進料理がいただける。地元の旬の野菜、山菜を中心にした懐石料理で、鍋物、精進揚げ、炊き合わせ、和え物などのほか、必ず登場するのが名物のごま豆腐。
 ていねいに皮をむいたゴマと本葛、きれいな地下水を原料としたトロリとなめらかな舌ざわりが、このごま豆腐の真髄である。ゴマは不老不死の食材といわれ、高野山の各寺院では古くからごま豆腐を振る舞いのご馳走としてきた。食事には般若湯と呼ばれる酒、ビールも自由に飲める。

総持院

(写真は 総持院)

精進料理

 高野山の宿坊は旅行者も気軽に泊まれ、テレビ、トイレ付きの部屋、槙風呂や家族風呂を備えた部屋もあり、高級旅館なみの設備を整え、寺院に泊まっていることを忘れてしまいそうだ。配膳や寝具の上げ下ろしは若い修行僧がしてくれ、旅館とは違う雰囲気も味わえる。希望すれば朝の勤行にも参加でき、宿坊で迎えた朝のすがすがしさを体験し、本尊を拝み、宿坊内の庭園を眺めるなど、都会の喧騒や人間関係での葛藤に傷ついた心に安らぎを求めるよい機会であるかも知れない。高野山が一番にぎわうのは夏。避暑を兼ねた参詣者や林間学校の子供たちが夏の高野山を満喫している。
 高野山の南、高野町相ノ浦には高野槙の湯温泉がある。平家落人伝説のある山奥の温泉地で、女性の肌を美しくするとの評判で女性に人気が高い温泉地だ。旅館は1軒で渓谷沿いに槙風呂と岩風呂があり、男女日替わりで両方の温泉が楽しめ、高野山参詣や阿字観の修行でさっぱりした心を温泉に浸って再度確かめるのには最適な静かな場所といえる。

(写真は 精進料理)


◇あ    し◇
高野山各寺院、奥の院南海電鉄高野線極楽橋で高野山ケーブルに乗り換え高野山駅下車、山内を回る南海りんかんバスで、それぞれの目的地近くのバス停で下車。山内一日フリー乗車券が便利でお得。 
高野槙の湯温泉(槙の湯荘)南海電鉄高野線極楽橋で高野山ケーブルに乗り換え高野山駅下車、南海りんかんバスで千手院橋で有田鉄道バスに乗り換え相ノ浦下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
高野山観光協会0736−56−2616 
高野山町役場産業観光課0736−56−2931 
高野山真言宗宗務庁・総本山金剛峰寺0736−56−2011 
高野山宿坊組合0736−56−2816 
高野槙の湯温泉(槙の湯荘)0736−56−5050 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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