月〜金曜日 21時48分〜21時54分


大坂の陣 

 大坂の陣は豊臣氏が滅亡した戦い。徳川家康は関ヶ原の戦い後、徳川幕府の安定 をはかるためには、豊臣氏を壊滅させることが最大の課題であった。慶長19年(1 614)の大坂冬の陣では滅亡までは追い込めず講和を結んだ。だが、徳川方は講和 の条件を無視して大阪城の内堀を埋めた。翌年の元和元年(1615)の大坂夏の陣で大阪城は落城し、天守閣は炎上、豊臣秀頼、淀君は自刃し豊臣氏は滅亡した。この夏の陣で豊臣軍、徳川軍双方に多くの戦死者を出し、真田幸村ら名高い武将も戦死し た。 


 
大阪城天守閣  放送 9月4日(月)
大坂城天守閣 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡、この 時、大阪城は炎上した。この大阪城は天正11年(1583)、豊臣秀吉が石山本願 寺跡に築城を始め、30余国の大名が毎日数万人の人夫を動員、2年後の天正13年 に豪壮で難攻不落と言われた城を完成させた。  大坂夏の陣で炎上した大阪城は徳川幕府が元和6年(1620)から修築工事を 始め、10年の歳月をかけて寛永6年(1629)に完成した。しかし、36年後の 寛文5年(1665)に落雷で天守閣が焼失し、以後江戸時代には天守閣は再建され なかった。(大阪城3階に、豊臣・徳川時代の大坂城復元模型が展示されています)(写真は 大阪城天守閣)

天守閣からの眺望 昭和6年(1931)、大阪市民の熱意に動かされ鉄筋コンクリート造りの5層 8階、地上55mの天守閣が再建された。この天守閣は「大坂夏の陣図屏風」などを 参考に建設されたが、天守閣は徳川時代に築かれたものに近く、秀吉時代の天守閣と は規模は異なる。  平成9年(1997)に大改修が行われ、外壁の塗り替えや金箔が押し直され美しい姿がよみがえった。また、車イスでも8階の展望台まで登れるようになり、お年寄 りや体の不自由な人も大阪城天守閣からの眺望が楽しめるようになった。  天守閣博物館も新しいスタイルに生まれ変わり、大坂夏の陣図屏風や大坂夏の陣 をミニチュア人形を使って再現したり、ジオラマで秀吉の生涯を描くなど、大阪城に まつわる出来事や人物がわかりやすく紹介されている。 (写真は 天守閣からの眺望)


 
名将・真田幸村  放送 9月5日(火)
茶臼山 大坂城への最初の攻撃、慶長19年(1614)の大坂冬の陣は、徳川家康が天 王寺の茶臼山に本陣をおき、20万の大軍で大坂城を包囲した。11月26日、大坂 城の東北、今福、鴫野(しぎの)で両軍が激突した。難攻不落と言われた大坂城も南 側が唯一の弱点とされていた。豊臣方の武将・真田幸村は城の南側に出城・真田丸を 築き、徳川勢の攻撃に備えた。ここで徳川勢を一身に引きつけこれを撃退した。この 武勇をたたえ、今も大阪・天王寺区の環状線鶴橋〜玉造の中間に真田山の地名が残っている。 (写真は 茶臼山)

真田の抜け穴跡 真田幸村は父・昌幸と共に関ヶ原の戦いで西軍に味方して破れた。東軍についた 兄の信幸が自分の手柄にかえてもと、父と弟の助命を家康に嘆願し、処刑は免れ高野 山の麓の九度山(真田庵、正式には善名称院)に蟄居(ちっきょ)を命じられた。豊臣秀頼の挙兵に応じて真田十勇士らを引き連れて大坂城に入城し、獅子奮迅の働きをした。真田山の近くの三光神社境内に、大坂城へ地下道でつながっていると伝えられる「真田の抜け穴」の跡がある。この抜け穴の脇には幸村の陣中での指揮姿の銅像が建っている。
(写真は 真田の抜け穴跡)


 
真田幸村の奮戦  放送 9月6日(水)
六文銭軍旗 豊臣氏を滅亡へ追いやった豊臣・徳川最後の戦い大坂夏の陣は、慶長20年(1 615)5月6日道明寺方面で戦いの火ぶたが切られた。兵力の上からも不利な豊臣 方は、道明寺の戦い、八尾の戦い、若江の戦いに苦戦を強いられた。道明寺まで進ん だ真田幸村も、現在の大阪・平野区長吉あたりまで退却せざるをえなかった。  長吉まで退却しひと休みした幸村は、近くの志紀長吉神社に戦勝を祈願した。こ の時、幸村は神社に六文銭の紋章が描かれた軍旗と刀を奉納した。刀は第二次世界大 戦後に没収されたが、軍旗は今も神社に伝わっている。神社の参道、鳥居脇には真田幸 村休憩所の碑が建っている。
(写真は 六文銭軍旗)

岩突きの槍(願正寺蔵) 翌5月7日、大坂夏の陣の最後の戦いは天王寺から平野方面にかけて、徳川方1 5万5000人、豊臣方5万5000人の大軍が入り乱れての戦いとなった。幸村の 軍勢は天王寺口に陣をおいた家康の本陣めがけて正面から攻撃を繰り返し、家康軍を圧倒する奮闘で、さすがの家康も度肝を抜かれたという。しかし、兵力で圧倒的不利な豊臣方は徐々に武将が戦死し、真田幸村もこの戦いで討ち死にし、翌8日に大坂城は落城、豊臣秀頼、淀君は自刃した。秀頼23歳、淀君49歳だったという。
 幸村戦死跡の碑が茶臼山北の安居神社(天王寺区逢坂)に建っている。また平野 から天王寺にかけての戦場跡には徳川方の足跡や遺品もあちこちに残っている。樋尻 口地蔵の向かいには徳川方の武士・安藤正次の墓があり、願正寺(平野区平野東)に は安藤正次の「岩突きの槍」が伝えられている。 (写真は 岩突きの槍(願正寺蔵))


 
真田軍の奇策  放送 9月7日(木)
樋尻口地蔵 英雄的武将・真田幸村をめぐっては真偽の程はともかくとして、様々な武勇伝や 伝説などが伝わっている。幸村が討ち死にした大坂夏の陣で平野から退却する際、家 康が必ずこの道を進撃してくることを予測し、樋尻口地蔵堂の地中に地雷を仕掛け た。予想通り家康は地蔵堂で休息し、かまどで火を炊いた。しかし、家康は小用を催 し地蔵堂の外へ出ている時に地雷が爆発し家康は命拾いした。この爆発で吹き飛ばさ れた地蔵の首が、近くの全興寺(平野区平野東)まで飛んできたと言う。今も全興寺 に「首地蔵」としてまつられている。
(写真は 樋尻口地蔵)

首地蔵 甲賀流忍術の名人・猿飛佐助や伊賀流忍術の名人・霧隠才蔵をはじめ三好清海入 道ら真田十勇士の活躍は、講談や立川文庫で取り上げられ、明治末期から大正中ごろ にかけて庶民の爆発的な人気を得た。  これらは講釈師や立川文庫の創作と言われているが、大阪城天守閣所蔵の「新撰 実録泰平記」と言う古地図の中に猿飛佐助の名が記されている。この地図には文政8 年(1825)の記入がある。また天保4年(1833)に写本した「真田三代実 記」にも猿飛佐助の名が出ており、いずれも江戸時代末に作成された資料なので、あ ながち講釈師、立川文庫の創作として片付けられない面もある。
(写真は 首地蔵)


 
激突!八尾の戦い  放送 9月8日(金)
木村重成墓 大坂夏の陣は道明寺付近で戦端が切られ、退却する豊臣軍とともに八尾、若江方 面へと戦いの場は移った。豊臣方の若武者・木村重成は、八尾の戦いで引くことをし ない壮絶な戦いをして討ち死にした。東大阪市と境を接する八尾市幸町の児童公園の 一角に重成の墓がある。重成の墓所から川をひとつ隔てた東大阪市若江には重成の陣 所跡がある。近くの蓮城寺には重成の位牌堂があり、堂内には武者姿の重成像や重成 の位牌が安置されている。  一方、木村重成と相対した藤堂高虎軍兵士の墓所が八尾市本町の常光寺にあり、兵士の位牌71がまつられている。藤堂高虎が常光寺の方丈の縁側で敵方の首検分をした縁板が、血天井として今も方丈に残っている。 (写真は 木村重成墓)

常光寺 木村重成は、母が豊臣秀頼の乳母であったため、秀頼とは乳兄弟に当たる。早くから小姓として秀頼に仕え、大坂冬の陣で一軍の将として初陣を飾った。金瓢箪の馬印に、白具足・白羽織を着て兵を叱咤する武者振りであったという。冬の陣の後、講和(城の外堀を埋めるということで和議)の誓紙を受け取る使者を務め、徳川秀忠の陣に行った。この誓約が守られず、城の内堀が埋められてしまったために、講和の使者を務めた重成の憤りは、ひときわ強かったにちがいない。夏の陣では、髪に香をたき込め、帯びた刀の中心には、「道芝の露、木村長門」の銘が入れてあったというから、死を覚悟していたのであろう。
 重成を討ち取ったのは彦根の井伊直孝軍で、重成の首塚が彦根市の宗安寺にある。
また、重成の義烈で勇猛な戦いぶりを感じた井伊直孝が、重成の鮮血にまみれた堤のススキを掘り取って彦根城内に移植し「血染めのススキ」として残っていたが、今はない。
(写真は 常光寺)


◇あ    し◇
大阪城JR環状線森ノ宮、大阪城公園、東西線大阪城北詰各駅下車
          それぞれ徒歩10分。 
地下鉄中央線森ノ宮、谷町4丁目、谷町線天満橋、谷町4丁目、長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク各駅下車それぞれ徒歩10分。
京阪天満橋駅下車徒歩10分。
茶臼山JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄阿部野橋駅下車
          それぞれ徒歩10分。 
三光神社JR環状線玉造駅下車徒歩5分。 
地下鉄長堀鶴見緑地線玉造駅下車徒歩5分。
志紀長吉神社地下鉄谷町線長原駅下車徒歩3分。 
樋尻口地蔵堂、願正寺、全興寺JR大和路線加美駅下車、
地下鉄谷町線平野駅下車それぞれ徒歩8分。
安居神社JR天王寺駅、地下鉄天王寺駅、近鉄阿部野橋駅下車
           それぞれ徒歩15分。 
木村重成墓所近鉄大阪線八尾駅からバス西郡新町下車徒歩3分。 
蓮城寺近鉄奈良線若江岩田駅からバス若江南下車徒歩5分。 
常光寺近鉄大阪線八尾駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
大阪城天守閣06−6941−3044 
茶臼山
(天王寺動植物
         公園事務所)
06−6771−8401
三光神社06−6761−0372 
志紀長吉神社06−6709−1757 
願正寺06−6791−5392 
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安居神社06−6771−4932 
蓮城寺06−6721−6183 
常光寺0729−22−7749

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