月〜金曜日 18時54分〜19時00分


滋賀県・紅葉の湖東 

 朝夕はグッと冷え込む秋冷の季節の今週は、琵琶湖東の町々へ紅葉狩り。天台宗の古刹の百済寺、金剛輪寺、西明寺の湖東三山や禅寺の永源寺、多賀大社は紅葉の名所としても知られている。由緒ある堂塔や社殿と鮮やかな紅葉がマッチした美しさに紅葉狩りを兼ねた参詣者たちもうっとりと見とれていた。


 
永源寺(永源寺町)  放送 11月25日(月)
 湖東三山の南にあり、湖国随一の紅葉の名所と言われる永源寺は、南北朝時代の康安元年(1361)近江守護・佐々木氏頼が禅僧・寂室元光を招いて開山した臨済宗の禅寺。
 愛知川の静かな流れにかかる旦度橋から自然石で作られた120段の石段の参道を登る。
参道路沿いはすべてカエデの木々でおおわれ、晩秋の参道は落葉したカエデの葉でじゅうたんを敷き詰めたようになる。本堂に向かう参道の左側の岩山には、釈迦如来像、文殊菩薩像、普賢菩薩像とともにユーモラスな表情の十六羅漢の石仏が出迎えてくれる。総門、楼閣造りの山門をくぐりと本堂。明和2年(1765)に再建された本堂の葭(よし)ぶきの屋根と紅葉のコントラスが美しい。葭ぶき屋根は湖国には多かったが今はほとんど見られなくなった。永源寺の本堂はわが国でも屈指の葭ぶき屋根の建物である。

永源寺

(写真は 永源寺)

永源寺こんにゃく(永源寺茶所)

 永源寺を開山した寂室元光を慕って多くの学僧が集まり、多い時には2000人を超える学僧が修行したと言う。応仁の乱の折、京都の学僧が難を逃れて永源寺に滞在し「文教の地、近江へ移る」と言われたほどの隆盛ぶりだった。
 創建当時の建物はたび重なる火災や兵火で焼失し、現在の建物は江戸時代中期に再建されたものである。本尊の聖観音像は秘仏で、佐々木氏頼がこの観音像に祈願して長男を授かったことから俗に「世継ぎ観音」と呼ばれ、今も子授けの観音として信仰を集めている。
 参道の両側、境内の数多いカエデが鮮やかに色づき、諸堂塔の甍(いらか)とマッチして、紅葉の美しさがさらに映える。紅葉が見ごろの永源寺境内は紅葉見物を兼ねた参詣者でにぎわう。誰もが見事な紅葉に満足し、永源寺参道の名物・禅僧の精進料理であるこんにゃく料理を賞味して帰途につく。松尾芭蕉もこのこんにゃく料理を「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」と詠み、その句碑が境内に立っている。

(写真は 永源寺こんにゃく(永源寺茶所))


 
百済寺(愛東町)  放送 11月26日(火)
 湖東三山の中で最も歴史が古いのが百済寺(ひゃくさいじ)。境内の豊かな自然は早春から初秋にかけては緑、そして秋の紅葉の美しさはよく知られている。真西に霊峰・比叡山を望み、そのはるかかなたに朝鮮半島にかつて存在した国・百済がしのばれるような雄大な眺望も百済寺の自慢である。
 推古天皇14年(606)聖徳太子の発願で、百済の僧・恵聡、道欽のために創建されたと伝えられている。この地方は渡来人の秦氏一族が住み繁栄した土地で、創建当時は「くだらじ」と呼ばれていた。創建後、日本に暦を伝えた渡来人の僧・観勒や恵聡らがこの寺に住んでいたと言う。
 平安時代の永久年間(1113〜18)に天台宗の寺となり、300余の塔頭寺院を擁し、多くの僧兵もかかえ「湖東の小比叡」と呼ばれた。壮大な伽藍(がらん)が建ち並び、僧侶と一般人を合わせて1200人もの人たちが、寺域内に住んでいたと言う。このころに寺の呼び方が「くだらじ」から「ひゃくさいじ」に変わったようである。

本堂

(写真は 本堂)

喜見院

 創建当時の本尊の十一面観世音菩薩像は「植木観音」とも呼ばれ、聖徳太子自らが刻んだ像と伝えられているが、現在の本尊は、平安時代に造仏された十一面観世音菩薩像。
 天正元年(1573)織田信長の焼き討ちで堂塔はことごとく焼失した。江戸時代に入り天海僧正の高弟が住職になり、彦根藩主・井伊直孝らの援助を受けて再興に取り組んだ慶安3年(1650)本堂、仁王門、山門などが再建され、これが現在の建物である。信長の焼き討ちで炭のようになった直径80cmほどの菩提樹が、不死鳥のように芽を出してよみがえり、現在の直径1.5mの大樹に生長し「千年菩提樹」と呼ばれている。
 百済寺本坊の喜見院の百済寺庭園は鈴鹿山系を借景にした池泉回遊式庭園。変化に富んだ石組の閑雅な庭園で、この庭園からの湖東の眺望が素晴らしく、湖東三山随一と言われている。

(写真は 喜見院)


 
金剛輪寺(秦荘町)  放送 11月27日(水)
 春はヤマザクラ、ツツジ、サツキ、シャクナゲ、秋は紅葉が美しい金剛輪寺は、湖東三山の真ん中のお寺で一般には松尾寺の呼び名で親しまれている。
 天平13年(741)聖武天皇の勅願、行基の開山による寺で、秘仏の本尊・聖観世音菩薩像は行基が刻んだものと伝えられている。本尊のご開帳は住職一代に一度となっている。行基が一刀三礼で観音像を彫っていたが、ある日、木肌から一筋の赤い血が流れ出て、境内の紅葉はその血で染めたように鮮やかに紅かったことから“血染めの紅葉”と呼ばれている。
普段は落ち着いた雰囲気の境内も、木々が鮮やかに色づく紅葉の時期は華やかで美しい景色を現出する。
 鎌倉時代中期に近江国守護・佐々木頼綱によって本堂など諸堂の修、改築が行われた。
天正元年(1573)の織田信長の湖東進出で境内の建物の大半を焼失したが、僧侶の機転で本堂(国宝)、二天門(国・重文)、三重塔(国・重文)がこの兵火をまぬがれた。僧侶は百余の僧坊へ一斉に火を放ち、伽藍(がらん)は焼けたと見せかけ本堂の焼き討ちをまぬがれた。百坊と引き換えの本堂大悲閣である。

三重塔

(写真は 三重塔)

明寿院

 700年を超える歴史を持つ本堂は東京オリンピックの時、鎌倉時代の代表的純和様建造物の仏殿として、10分の1の模型が東京国立博物館に展示され、オリンピックで日本を訪れた世界の人びとの注目を集めた。
 同じく鎌倉時代に建立された三重塔は十分な管理、修理ができず、江戸時代末期以降は荒廃し、初層、二層を残すだけの姿になっていた。昭和45年(1970)ごろから復原の運動が起こり、国、滋賀県、秦荘町の補助金のほかに信者の浄財が集まり、1億7千万円をかけて昭和53年(1978)に創建当時の雄姿がよみがえった。
 金剛輪寺の本坊・明寿院の池泉回遊式庭園の落ち着いた雰囲気は訪れた人びとの心を和ませている。本坊の南、東、北の三方を囲むように庭園があり、心の字の形をした池が3つの庭を結んでいる。庭園内の木々も紅葉して池の水面に鮮やかな彩りを映している。春の庭園はカキツバタやシャクナゲが鮮やかな花をつけて咲き競う。境内の華楽坊では精進弁当も楽しめる。

(写真は 明寿院)


 
西明寺(甲良町)  放送 11月28日(木)
 湖東三山で最も北の西明寺は承和元年(834)仁明天皇の勅願寺として、三修上人が開山したと伝えられる寺で、境内の西側に大きな池があり池寺とも呼ばれている。朝廷の庇護を受け、室町時代には17の堂塔、300余の僧坊が建ち並ぶ大伽藍(がらん)の寺だったが、元亀2年(1571)の織田信長の焼き討ちで、堂塔の大半を焼失した。
 長いゆるやかな石段の参道は参詣する人たちが身と心を整えるための道でもある。参道の奥深くに並び建つ国宝の本堂と三重塔(国宝)は、織田信長の焼き討ちをまぬがれた鎌倉時代建立の特筆すべき建造物である。本堂は飛騨の匠の技が冴える鎌倉時代初期の純和風様建造物の秀作で、鎌倉時代の建築様式がよく残っている。本堂内は内陣と外陣に別れ、内陣の厨子には秘仏の本尊・薬師如来像(国・重文)が安置され、周りには重要文化財の7体の仏像を含む26体の諸仏像が安置され、荘厳な雰囲気が漂っている。

三重塔

(写真は 三重塔)

不断桜(蓬莱庭)

 三重塔の初層内部の須弥壇中央には金色の大日如来像が安置され、塔の中心柱の周りの四天柱には金剛界三十二菩薩が描かれている。天井や板戸、柱、扉など、塔内部のあらゆる部分に八天像、八大龍王、法華経の図解、極楽鳥、宝相華、ハスやボタンの花などが描かれ、極楽浄土の様子が流麗なタッチと鮮やかな色彩で表現されている。600年を経た今もその色合いは目を見張るばかりである。
 この寺には初秋から花をつけ、11月ごろに満開になる樹齢約200年、滋賀県指定天然記念物の「不断桜」がある。冬桜の一種で淡いピンク色の花が咲き、紅葉と桜を同時に愛でることができる他に例のない名所である。
 西明寺門前の名神高速道路脇にある一休庵は「西明寺そば」が名物の食事処である。西明寺参詣の人たちは一休庵のそばで腹ごしらえをして参詣するか、参詣後にすいた腹をそばで満たす。また、そば道場も開かれ、手打ちそばの作り方のコツを教えてくれる。

(写真は 不断桜(蓬莱庭))


 
多賀大社(多賀町)  放送 11月29日(金)
 広大な境内を持つ多賀大社は、11月15日には御神体が山へ還ると言う大宮祭の儀式が行われる。七五三参りの晴れ姿の子供たちでもにぎわい、境内や奥書院庭園の木々も鮮やかに色づき紅葉の多賀大社を演出する。社前を流れる渓流にかかる石橋を渡り、神門をくぐると玉砂利を敷き詰めた前庭の正面に拝殿、本殿がある。社殿は何度も倒壊や火災で失われ、現在の社殿はいずれも昭和7年(1932)に再建されたものである。
 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」と里歌に歌われている通り、多賀大社の祭神は日本国の生みの神で天照大神の両親である伊邪那岐(いざなぎ)伊邪那美(いざなみ)の二神。古くから縁結び、延命長寿の信仰を集め「お多賀さん」と呼び親しまれてきた。多賀大社の延命信仰を全国へ広めたのは、甲賀の薬売りが多賀大社の延命長寿の神徳を絵解きしながら薬を売り歩いたことによると言われている。

大宮祭

(写真は 大宮祭)

奥書院

 多賀大社の延命信仰を支えた延命伝説がふたつある。そのひとつは奈良時代、元正天皇の病気平癒祈願の時、お供えの飯にシデの杓子(しゃくし)をそえて献じたところ、たちまち病気が平癒したと伝えられている。名物の多賀杓子はこの伝説が起源。もうひとつは東大寺再建の勧進職を命じられた老齢の重源上人が、重任をまっとうするため自らの延命を祈願して多賀神社へ参篭した。満願の時に舞い落ちた柏の葉が莚の字の形に虫に食われていた。これを重源は廿と延の上下に分け「20年延命」と読み、東大寺再建を成し遂げたと言う伝承。上人が背中に背負って歩く笈(おい)を置いたと言う石が延命石と呼ばれ境内にある。豊臣秀吉も母・大政所の長寿を祈って参詣したことがあり、太閤橋やその奉納金で造られた庭園などが残っている。
 多賀大社門前の和菓子店「多賀や」は、多賀名物の糸切餅を作り続けている。鎌倉時代の蒙古襲来の危難をまぬがれたのを喜び、蒙古の軍旗の赤、青三筋の線を描いた餅を弓の弦で切って神前に供えたのが起こりと言う。刃物を使わないことから平和や長寿の願いも込められている。

(写真は 奥書院)


◇あ    し◇
永源寺近江鉄道八日市駅からバス永源寺下車。 
百済寺JR東海道線能登川駅からバス百済寺下車徒歩15分。
近江鉄道愛知川駅からバス百済寺下車徒歩15分。  
金剛輪寺JR東海道線稲枝駅からバス金剛輪寺口下車徒歩15分。
名神高速バス甲良下車徒歩15分。 
多賀大社、多賀や(糸切餅)近江鉄道多賀大社前駅下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
永源寺町観光協会0748−27−0444 
永源寺0748−27−0016  
愛東町観光協会0749−46−0211 
百済寺0749−46−1036 
秦荘町観光協会0749−37−2051 
金剛輪寺0749−37−3211 
甲良町観光協会0749−38−3311 
西明寺0749−38−4008 
一休庵本店0749−38−3848 
多賀町観光協会0749−48−0240 
多賀大社0749−48−1101 
多賀や0749−48−1430 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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