月〜金曜日 18時54分〜19時00分


滋賀・奥琵琶湖 

 琵琶湖は東西南北でそれぞれ異なった顔を持っている。また、その湖岸で生活する人びとも、
独特の生活様式と文化を有している。湖北で奥琵琶湖と呼ばれる地域は、神秘的な雰囲気を
漂わせ、訪れた人たちを魅了している。北陸へ通じる交通の要衝を占めたこの地域は古くから
栄えたが、同時に軍事的にも重要な拠点となり、戦国時代には幾多の戦いの舞台となった。 


 
奥琵琶湖残影
(木之本町・余呉町) 
放送 8月30日(月)
 琵琶湖北部の木之本町と余呉町の境界にある賤ヶ岳(標高422m)は、織田信長の死後、羽柴秀吉と柴田勝家の主導権争いが、武力で衝突した賤ヶ岳合戦の舞台となった所として名高い。対立していた秀吉、勝家の両雄は、天正11年(1583)賤ヶ岳で激突、秀吉方の勝利に終わり、勝家は越前北庄城に敗走した。城を包囲された勝家は妻・お市の方と共に自害、両者の対立は武力で決着をつける結果となった。
 この戦を勝利に導いたのが「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる若武者だった。勝家を破った秀吉は一気に勢力を拡大し、天下人への道を一気に突き進んだ。また七本槍の武者たちも後にそれぞれ大名に取り立てられ、豊臣時代の重臣となった。

武将の像

(写真は 武将の像)

天女羽衣伝説 衣掛柳

 賤ヶ岳戦跡碑や賤ヶ岳七本槍の武者像が立つ賤ヶ岳山頂からの眺めは素晴らしい。南に琵琶湖、竹生島、北に余呉湖、東に伊吹山、小谷山が望まれる景勝の地で、琵琶湖八景のひとつ「新雪・賤ヶ岳の大観」にも選ばれている。また賎ケ岳の周辺にはあえなく戦死した武者たちの墓や砦跡など、合戦の遺跡が数多く残っている。
 賤ヶ岳の眼下に広がる余呉湖の水は、湖底から湧き出る水で涸れることがなく、その美しい湖面から別名、鏡湖とも呼ばれる。水のきれいな余呉湖は魚や水鳥の楽園となっている。余呉湖と琵琶湖だけに生息するイワトコナマズやワカサギ、フナ、コイなど魚類、冬には渡り鳥のマガモ、コガモなどが訪れる。

(写真は 天女羽衣伝説 衣掛柳)

 この美しい神秘的な余呉湖には、天女伝説が残っており、天女が羽衣を掛けたと言う衣掛柳の大木がある。水のきれいな湖で8人の天女が水遊びをしていたところ、里の男に羽衣を取られた天女がいた。7人の天女は天に帰ったが、羽衣を取られた天女は天に帰ることができなかった。天女は、羽衣を返してくれるよう頼んだが聞き入れられず、仕方なくこの男と夫婦になって子供をもうけた。そのうちに隠されていた羽衣を見つけ、子供たちのことを心に残しながら天に帰った。一説には天女が生んだ男の子が菅原道真だとの伝えもある。
 天女伝説は余呉町だけでなく日本各地にあり、伝説の筋書きはほとんど同じだ。この天女伝説は渡来人が大陸文化を広めた地域と一致することから、渡来人が自分たちの存在価値を天女に託して表現したとも見られている。

銅鐘(北野神社)

(写真は 銅鐘(北野神社))


 
北国街道・木之本宿
(木之本町) 
放送 8月31日(火)
 木之本はもともと眼病に霊験あらたかと言われる木之本地蔵院・浄信寺の門前町であり、後に若狭・越前からの北国街道と美濃からの北国脇街道が交わる宿場町として発展した。
 JR北陸線木ノ本駅近くの繁華街にある浄信寺は、奈良時代に祚蓮(さくれん)の開基、空海の中興と伝えられる。秘仏になっている本尊・地蔵菩薩立像(国・重文)は、鎌倉時代中期の仁治3年(1242)の銘がある彩色像で、両脇には閻魔王(えんまおう)、倶生神(くしょうしん)が配されている。賤ヶ岳の合戦の時に本堂などを焼失、豊臣秀吉が再興したが再び江戸時代中期の大火で焼失し、その後に再建されたのが現在の堂宇。

北国街道

(写真は 北国街道)

飾り瓦

 昔、木之本の地藏さんの前で、ひとりの旅人が目を痛めうずくまっていた。地藏さんは目を何とか治してやりたいと思ったが、自分では動くことができないので、自分の足元にいたカエルに「お前の目を譲ってやって欲しい」と頼んだ。カエルから片目をもらった旅人は目が見えるようになった。今も木之本地蔵院の庭には片目のカエルがいると伝えられている。
 こうした言い伝えから眼病に霊験がある寺とされ、参詣者が絶えない。境内には明治27年(1894)に造立された、高さ5.5mの銅製地蔵立像が参詣者を迎えてくれる。

(写真は 飾り瓦)

 北国街道と北国脇街道の宿場町として栄えた木之本は、江戸時代には本陣と脇本陣が置かれ、行き交う旅人と浄信寺の地藏さんへの参拝客でにぎわった。今も木之本町の旧街道筋には、往時の面影をそこかしこに見ることができる。
 旧本陣だった建物の軒先には古い薬の看板が何枚もさがり、今は薬屋さんになっている。当主は日本で第1号の薬剤師だったと言う。街道筋の町家には、防火と装飾を兼ねた卯建(うだつ)や七福神などを形取った飾り瓦、紅殻格子、犬矢来などが今も残っており、宿場町らしい情趣を伝えている。また町内には奥琵琶湖ならではの食材を使った会席料理が味わえる店もある。

湖産地畑会席(想古亭源内)

(写真は 湖産地畑会席(想古亭源内))


 
糸を紡ぐ大音の里(木之本町)  放送 9月1日(水)
 木之本町は賤ヶ岳の古戦場があることから「戦国の里」と呼ばれると共に「糸引きの里」「琴糸の里」とも呼ばれている。大音(おおと)、西山の両地区では良質のマユと賎ケ岳の麓から湧き出る清らかな水から生まれた生糸で、三味線、琴、琵琶、胡弓、三線(さんしん)などの和楽器の糸が作られてきた。
 大音、西山地区では、湯に浸したマユから糸をとり出し、何本かを寄せ集めて同じ太さの糸にする糸取り作業が盛んだった。かつては何百人もの人びとがこの糸取りの仕事に従事していたが、今は二つの里でわずか4軒だけが昔ながらの製法で糸取りの作業をしている。

木之本町 大音

(写真は 木之本町 大音)

糸取り

 糸取り作業よって同じ太さにそろえられた糸をさらに集め、その先にたらしたコマを回転させ強い撚りをかけて和楽器の糸に仕上げる。
 木之本町で和楽器の糸を製作している丸三ハシモト会社の職人さんの話しでは、この撚りの掛け方も仕上げる糸の太さによって異なる。さらに楽器によっても作業が微妙に違い、同じ三味線でも津軽三味線、文楽の三味線、長唄の三味線など、それぞれ糸の性質が異なり三味線の糸だけでも350種類もあると言う。プロの演奏家が求める高級な三味線糸、琴糸などは、名職人の長年の経験による撚りの技から生み出され、妙なる和楽器の音色を醸し出す。

(写真は 糸取り)

 奥琵琶湖のほとりで生み出された高級和楽器糸は、一流演奏家に愛用されているが、値段が高いためテトロン糸など化学繊維の糸が幅を利かすようになってきた。同時に和楽器用の糸にする生糸の生産も少なくなり、原材料の確保も難しくなりつつある。こうした状況から琴糸はほとんど化繊糸になっている。最近、テレビなどでよく見かける津軽三味線の速弾きは、化繊糸でなければ耐久力の弱い絹糸では持たないとも言う。
 水上勉は琴糸をモチーフにした小説「湖の琴」で、戦前、戦中の木之本を舞台に、琴糸作りに携わった男女の悲しい純愛の物語を書き上げた。こうした情緒あふれる風景は見られなくなったが、糸作りの職人たちは「伝統の技は後世に伝えたい」と話している。

駒撚り作業

(写真は 駒撚り作業)


 
塩津海道(西浅井町)  放送 9月2日(木)
 琵琶湖の最北端、余呉町の西隣りの西浅井町には、越前・敦賀と琵琶湖の塩津港を結ぶ塩津海道が通っていた。
北陸の越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の6ヵ国から敦賀に集められた海の幸や米、鉄、銅などの物資は、この道を通って塩津港へ。そして湖上を船で大津まで輸送、さらに陸路を京の都へと運ばれた。反対に下りの荷には京都、大阪から綿、呉服、陶磁器、茶などが北陸の各地へ運ばれるなど、人、物が行き交う大動脈であった。
 当時、琵琶湖の水運を担っていたのが琵琶湖独特の帆船「丸子船」だった。最盛期には湖上に約1400隻の丸子船が往来していた。滑らかな曲線の船体、丸みを帯びた船底、船のバランスを保つために丸太を半分に割って船の側面に取り付け、帆に風を受けて進む姿は琵琶湖でしか見られない景色だった。

丸子船(丸子船の館)

(写真は 丸子船(丸子船の館))

塩津海道

 この丸子船は今ではすっかり姿を消した。西浅井町大浦の「北淡海(きたおうみ)・丸子船の館」には、実際に琵琶湖で活躍していた丸子船を保存、展示している。
ほかに丸子船の備品、当時の生活用具などが展示され、湖上輸送との深い関わりが理解できる。
 塩のない近江に「塩津」の地名が生まれたのは、日本海の敦賀などから塩津海道を通って都へ送られた塩の中継港であったことに由来する。都と北陸を結ぶ交通の要衝だった西浅井町は宿場町でもあり、当時をしのばせる町家や海道が栄えることを願って江戸時代後期の天保5年(1834)建立された常夜灯などが残っている。

(写真は 塩津海道)

 塩津海道で最大の難所が深坂峠。越前の国司に任じられた父・藤原為時と一緒に深坂峠を越えた紫式部や奈良時代の歌人・笠金村は、その険しさを歌に詠んでいる。
 この難所を解消しようと平清盛は、敦賀の日本海と琵琶湖を結ぶ運河の開削と言う壮大な事業を長男・重盛に命じたと伝えられている。塩津側から掘り進め深坂峠付近に差しかかった時、大岩にぶつかりその岩肌に地蔵尊の姿が現れたので運河の開削を断念、その地に地蔵尊像を安置した。これが今に残る深坂地蔵で別名・掘り止め地蔵とも呼ばれている。
深坂峠の東側に新道野越えが開通するまでは、塩津海道の往来を差配していた問屋のひとつ、沓掛問屋跡が深坂地蔵から南へ下った所にある。

深坂地蔵

(写真は 深坂地蔵)


 
隠れ里・菅浦(西浅井町)  放送 9月3日(金)
 琵琶湖の最北端から突き出た半島・葛籠尾崎(つづらおざき)にある菅浦地区は前は湖、背後を山に囲まれた地形から、かつては「陸の孤島」とか「隠れ里」などと呼ばれていた。
 こうした菅浦の集落には奈良時代、実権を握っていた孝謙上皇と弓削道鏡から、帝位を追われた淳仁天皇が隠れ住んだ所とも言われ、淳仁天皇ゆかりの場所が多く残っている。定説では淳仁天皇は淡路に流されて崩御したと伝えられているが、菅浦の地では淡路は淡海の誤りとしている。須賀神社は淳仁天皇を祀った神社で、拝殿の裏には舟型に石積した天皇の御陵が残っており、崇敬の念の強い住民たちは素足で参拝する。

菅浦文書(菅浦郷土資料館)

(写真は 菅浦文書(菅浦郷土資料館))

東四足門

 菅浦には鎌倉時代から明治時代までの集落の決まりなどを記した「菅浦文書(国・重文)」が残っており、その写しが菅浦郷土資料館に展示されている。現物の菅浦文書は滋賀大学に保管されている。
 この文書は村の年貢の催促状、行事の諸経費の村民への割り当てなどがこまかく記載されている。この中で注目されるのは、人を罰するには証拠を重視し、裁判を行うとされており、合理的な村の掟と言える。こうした古い歴史を持つ菅浦の文化財を保存、展示しているのが菅浦郷土資料館で、菅浦文書の写しのほかに須賀神社に伝わる室町時代末期に制作された能面などを展示している。

(写真は 東四足門)

 菅浦地区の住民の先祖は平安時代以前に天皇の食料を納めていた贄人(にえびと)たちで、琵琶湖の漁労と水運に従事し、平安時代には供御人として自立したようだ。中世には全国に先駆けて「惣」と呼ばれる住民による自治組織を作っていた。
 現在、集落の東西の入口に「四足門」と呼ばれる茅葺きの門が残っているが、かつては村の四方の出入り口にあって、外来者を監視したものと言う。早くから警察、軍事的な面でも要塞化され、四足門はその役目を果たしていた。菅浦文書などから中世後期にはこの四足門が存在していることが分かり、現存する東門は棟札から幕末の文政11年(1828)に再建されたことが分かっている。

西四足門

(写真は 西四足門)


◇あ    し◇
賤ヶ岳JR北陸線木ノ本駅からバスで大音下車
賤ヶ岳リフトで山頂へ。
余呉湖JR北陸線余呉駅下車徒歩3分。 
衣掛柳JR北陸線余呉駅下車徒歩5分。 
木之本地蔵院(浄信寺)JR北陸線木ノ本駅下車徒歩5分。 
深坂地蔵JR北陸線、湖西線近江塩津駅からバスで近
江鶴ヶ丘下車徒歩15分。
北淡海丸子船の館JR湖西線長原駅下車徒歩15分。 
須賀神社、四足門、
菅浦郷土資料館
JR湖西線長原駅、北陸線木ノ本駅から
バスで菅浦下車。
◇問い合わせ先◇
木之本町役場産業課・
木之本町観光協会
0749−82−4111
余呉町役場地域振興課0749−86−3221 
余呉町観光協会0749−86−3085 
西浅井町役場企画観光課・
西浅井町観光協会
0749−89−1121
木之本地蔵院(浄信寺)0749−82−2106 
想古亭源内(郷土料理)0749−82−4127 
丸三ハシモト(三味線糸・琴糸)0749−82−2167 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会