月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・妙心寺 

 臨済宗寺院の中で最大の伽藍(がらん)を誇る妙心寺派の大本山・妙心寺は、臨済宗の諸派の中で最大の門派である。今回は洛西に数多くある古刹の中で、厳しい禅宗の修行が続けられている妙心寺を訪ね、堂塔伽藍の紹介や禅僧の修行姿などを紹介する。


 
臨済宗妙心寺派大本山  放送 11月8日(月)
 洛西・花園の禅刹・妙心寺は全国に3500の末寺子院を持つ臨済宗妙心寺派の大本山。創建は南北朝時代の動乱期の建武4年(1337)禅に傾倒していた花園法皇が、自らの離宮・萩原殿を禅寺に改め、禅の師である大徳寺を開いた大燈国師・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に推薦してもらった高弟の関山慧玄(かんざんえげん)を美濃国から招いて開山とした。
 法皇自らも妙心寺のそばに建てた玉鳳院に居住し、関山のもとへ日夜参禅して修行を続けた。現在、玉鳳院は妙心寺の塔頭となって花園法皇の木像を祀っている。妙心寺は開山以来660年、花園法皇の「報恩謝徳 興隆仏法」の志を綿々と今日に伝える禅宗寺院として信仰され、優れた多くの禅僧を世に送り出しきた。

玉鳳院

(写真は 玉鳳院)

開山堂微笑庵

 慧玄は権勢に近づくことを嫌い、形式的な読経や規則にとらわれず、伽藍(がらん)の整備より学問、人材の育成に力を注ぎ、その指導は非常に厳しいものであった。慧玄の厳しさは定評だったが、一面ではやさしさも持ち合わせていた逸話が残っている。
 天龍寺を開いた夢窓国師が慧玄を訪ねた時、貧乏を恥じらいながらわずかな銭を硯箱から取り出し、小僧に焼きもちを買いにやらせてもてなした。来客を風呂に入れてもてなそうとしたが、燃料の薪がなく寺の縁の板をはがして風呂沸かさ、客を風呂に入れた。修行者が雨の中で作務の茶摘みをしていたのを見て「修行者を雨に濡らすとは何事ぞ」と、茶の木を切り取って家の中で茶摘みをさせた。これらのエピソードから他者を尊び、修行者をいたわる慧玄の慈悲の心の厚さの一端がうかがえる。

(写真は 開山堂微笑庵)

 広大な妙心寺の山内で関山慧玄の像を安置する開山堂「微笑庵(みしょうあん)」は、現在、山内に現存する建物で最古の堂宇。最も神聖なところとされ、塵ひとつなく、ひと時たりとも香煙の絶えることがない。慧玄は延文5年(1360)開山堂と玉鳳院とを結ぶ渡り廊下の北にある、庭園の風水泉脇の老樹の下で息を引き取ったが、その時も行脚の旅姿だったと言う。
 江戸時代、松の緑に覆われた広い寺域には、七堂伽藍と塔頭88院、僧坊70余棟を数えたと言い、今も40余の塔頭寺院があり、境内の通路はすべて花崗岩の石畳でつらなっている。境内は国の史跡に指定され、ほかに仏像、建築物、書画など国宝、重要文化財に指定されている寺宝が数多い。

風水泉

(写真は 風水泉)


 
諸堂伽藍  放送 11月9日(火)
 妙心寺は南側を正面として総門と勅使門が並び、総門をくぐると石畳の参道が真っすぐに方丈まで延びている。その左側の勅使門からは国の重要文化財の丹塗の三門、仏殿、法堂(はっとう)、寝堂と重要な建物が一直線に連なる。さらにその奥にも重要文化財の壮大な大庫裏、大方丈があり、これらは禅宗大寺院の典型的な伽藍(がらん)配置となっている。
 三門は禅宗三門の様式を踏襲した2階2重門で、2階中央の須弥壇には観音菩薩像、十六羅漢像などが安置され、柱には極彩色の雲龍、天人像が描かれている。

三門上層内部

(写真は 三門上層内部)

本尊釈迦如来像

 三門と仏殿の間には室町時代中期に妙心寺が排出した四傑と言われる景川宗隆(龍泉派)・悟渓宗頓(東海派)・特芳禅傑(霊雲派)・東陽英朝(聖澤派)の四派を表す「四派の松」が4つの石段に植わっている。
 仏殿の須弥壇には本尊・釈迦如来像をはさんで、釈迦十大弟子のうちの迦葉(かしょう)と阿難の二人の弟子が脇侍の役目を果たしている。仏殿は江戸時代後期の文政10年(1827)に建て替えられたもので、妙心寺の中心伽藍の中で最も新しい建物。
 大方丈の内部は6室からなっており、南側中央の室中(しつちゅう)は最も広く60畳敷、北側中央の間が本尊・阿弥陀三尊像を祀る仏間になっている。この阿弥陀三尊像は元は石清水八幡宮の奥の院に祀ってあったもので、鎌倉時代の傑作と言われている。

(写真は 本尊釈迦如来像)

 妙心寺の大庫裏は、他の大寺院の庫裏に比べても大きい。庫裏は寺の台所でこのような大庫裏は、寺で行われる大きな仏事や法要の時に、何百人もの食事を作る時などに使われ、平素の炊事は小庫裏で行われる。
 当初の大庫裏は享禄元年(1528)に建てられ、現在のものは江戸時代初期の承応2年(1653)に大改築された建物である。豪壮雄大な外観、内部の屋根裏には大きな梁や柱が縦横に組まれ、大きな屋根を支えている。土間には庫裏の守護神・韋駄天(いだてん)が祀られ、大きなかまどが並んでいる。かまどには煙突がなく、かまどから出る煙は土間の中央から上に向かって立ち昇り、屋上に作られた煙出しから屋外に出される。

大方丈

(写真は 大方丈)


 
法堂・雲龍図  放送 11月10日(水)
 法堂(はっとう)は多くの伽藍(がらん)や塔頭寺院が建つ妙心寺山内で最も大きな建物。妙心寺で拝観できる堂塔は少なく、法堂は常時内部を案内してもらえる伽藍のひとつ。新年を迎える時や開山忌などの重要な儀式が行われるところ。
 この法堂は明暦2年(1656)に完成した大建築で、建築用材の確保にも苦労したようだ。大梁の2本の松は日向国で得られ、44本の大柱のケヤキの用材は富士山山麓で入手した。いずれも大坂まで海上を船で運び、さらに淀川を淀まで運び、淀から車に乗せて牛に引かせ京都まで運んだ。

法堂

(写真は 法堂)

雲龍図(狩野探幽筆)

 日向国で手に入れた大梁は淀から1本ずつ車に乗せ、70頭の牛に引かせて京へ向かった。京の町に入って車の車輪が暗渠(あんきょ)の溝に落ち込んで動けなくなり、京都所司代に届け出てそこに一晩留め置いた。また京の町の辻では、民家を一部を壊さなければ回れず、住人の了承を得て住宅を壊し、何とか回ることができたなど、非常な苦労をともなって運ばれた。
 こうして建てられた大きな法堂の堂内で目を引くのが、仏法を守護する龍を狩野探幽が55歳の時、天井いっぱいに描いた雲龍図。探幽は依頼を受けてから禅の修行に入り、3年経った時、ある悟りを得て筆を取ったと言う。

(写真は 雲龍図(狩野探幽筆))

 法堂の天井は板が一面に張られた禅宗独特の平らな鏡天井で、禅宗寺院の法堂の天井には必ず丸い形の龍が描かれる。妙心寺では「東福寺の画龍は紙に書いて天井の板に貼ったもので、これは時が経つと剥落(はくらく)することもあるので、天井板に直接描いてほしい」と探幽に依頼した。
 探幽が描いた黒雲の中に出現する龍は、堂内のどの位置にいても龍がにらんでいるように見える八方にらみの龍。また、この龍の眼は二つのように見えるが、実は右眼ひとつしか描かれていない。妙心寺は謝礼に白銀200枚を出したところ、探幽は「謝礼なら白銀千枚から2千枚に値する」と言い、改めて白銀3千枚を贈ると「よろしかろう」と言って、その謝礼のすべてを妙心寺に喜捨したと言う逸話が残っている。

法要

(写真は 法要)


 
禅  放送 11月11日(木)
 妙心寺のような禅刹では、参拝者や観光客の目にはふれない僧堂と呼ばれる専門道場の中で、雲水たちが厳しい禅の修行をしている。この修行は文字通り生やさしいものではなく、昔は生死をかけたほどの厳しいものであったと言う。
 禅の修行で必要なものは不退転の求道心。自らをごまかさず人生の根本問題に対する疑問を持ち、どう生きるかを極める。どのような困難に遭遇しようとも不退の決意でやり抜く強い意志。信ずる心を持つ。この三つが禅の修行で最も大切なこととされている。本格的な禅の修行を積み、禅僧になるには中途半端な気持ちではできない。その厳しい修行の一端を紹介しよう。

粥座(朝食)

(写真は 粥座(朝食))

日天掃除

 雲水が入門を請うて禅寺を訪れても「現在、新しい修行者を受け入れる余裕がない」とにべもなく断られ、3日間、玄関で放っておかれる"庭詰め"に始まる。玄関で入門の許しが出るまで待っている間、立つことが許されるのは用便の時だけで、粗末な食事は寺から運んでくれるが、それ以外は誰も相手にしてくれない。
 夏であれば剃りたての頭や身体のあちこちを蚊に刺され、冬なら寒さで身体はガタガタふるえる。修行を終えた禅僧たちは、この"庭詰め"の時のつらさを「こんな修行に出した親をうらめしく思った」と述懐している。新しい入門者に対するこのような扱いは、不退転の求道心を持っているかどうかを見極め、軽率な入門希望者を排除するためである。

(写真は 日天掃除)

 ようやく入門の許可が出ても、それからが大変である。修行僧たちが修行や寝起きをする場所が僧堂。午前3時半(季節によって時間が異なる)の起床に始まり、質素な食事、読経、座禅、托鉢、作務、師との問答など、己ひとりならず、他を救う自利、利他の雲水の修行が続く。
 起床と同時に食事係は朝食の用意、その他は読経、朝食が終わると朝の座禅、そして諸堂や庭の掃除の日天作務、講座、読経と続き、昼食。午後にも掃除、畑仕事、庭木の手入れ、風呂焚きなどの作務がある。夕食後、午後九時半に就寝、これがおおまかな一日のスケジュール。このほか月に12日は托鉢に出る。
 食事は朝は粥(かゆ)に梅干か漬物、昼は麦の方が多い麦飯と一汁一菜、夕は昼食の残り物で、飽食の今日では考えられない粗末のものである。これらの修行に耐えて一人前の禅僧になれる。

托鉢

(写真は 托鉢)


 
塔頭・退蔵院  放送 11月12日(金)
 退蔵院は妙心寺山内の塔頭寺院のひとつで、妙心寺三世無因宗因に帰依していた越前の波多野重通が、応永11年(1404)千本通松原に創建、後に妙心寺境内に移された古刹。
 退蔵院には禅の悟りの不可思議を表した如拙の水墨画「瓢鮎図(ひょうねんず)」の絵が有名で、国宝に指定されている。この絵はつるつるした瓢箪(ひょうたん)で、ぬるぬるしてつかまえにくいナマズを捕らえることができるか、と問う禅の公案で、不可能の中に可能を探ると言うものである。公案とは禅の修行者が、悟りを開くために与えられる研究課題。

「瓢鮎図」如拙筆

(写真は 「瓢鮎図」如拙筆)

元信の庭

 鮎は日本では「アユ」と呼ぶが、中国では鮎を「ナマズ」のことを指す。「瓢箪鯰(ひょうたんなまず)」と言う言葉があるように、瓢箪でマナズを取り押さえることは至難の技で「とらえどころのないさま」「要領を得ない」ことの例えとされている。これを修行中の禅僧に問うたのであって、禅僧たちはどのように答えたのであろうか。
 瓢鮎図は室町幕府4代将軍・足利義持が室町時代の画僧・如拙に描かせたもので、図の上部に禅僧の序文と30人の禅僧のほめ言葉や所見が記されている。

(写真は 元信の庭)

 退蔵院方丈西側の枯山水「元信の庭」は国の史跡、名勝に指定されており、室町時代の画家・狩野元信の作庭。自然林と竹薮を背景に北西の枯滝の石組みから流れ落ちる水が、亀島の周囲をめぐって南西隅へ流れ去る有様を表したもので、庭の構成には絵画的な感じがみなぎっていると言われる。この庭は元信が絵筆に代えて石と砂で描いた水墨画とも言える。
 新庭の余香苑はまったく違った趣の庭で、山々の連なりを思わせる緑と花々、水の流れが目に優しい。余香苑の中央には、直径約50cmの蹲踞(つくばい)の下に陶製の甕(かめ)を伏せ、中に溜まった水に雫が落ちて「キーン、キーン」と澄んだ音が出る水琴窟がある。

余香苑

(写真は 余香苑)


◇あ    し◇
妙心寺JR山陰線花園駅下車徒歩10分。 
京福電鉄妙心寺駅下車徒歩5分。
京都市バス、JRバス、京都バス妙心寺前下車。
◇問い合わせ先◇
妙心寺075−461−5226 
退蔵院075−463−2855 

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