月〜金曜日 18時54分〜19時00分


高砂市、加古川市 

 戦後の高度経済成長期に高砂、加古川両市とも播磨臨海工業地帯の中核としてめざましい発展を遂げた。その見返りとして白砂青松の海岸は消え、浜辺は工場に占拠されてしまった。だが、こうした臨海工業地帯にも昔ながらの伝統文化が今なお息づいており、今回はこのようなスポットを中心に探訪した。 


 
白砂青松の地(高砂市)  放送 8月7日(月)
 加古川が播磨灘に流れ込む河口右岸に沿う高砂の地名の由来は、河口に堆積した砂の状態を「高砂子(たかいさご)」と言っていたのを、略して「たかさご」と呼ぶようになったと言われている。
 高砂は瀬戸内海の漁港、貿易港、交通の要所として栄えた。江戸時代初期に姫路藩主・池田輝政によって町作りが計画的に進められ、姫路藩の物資の集積地となった。加古川上流からの農産物、瀬戸内海の岡山方面からの産物を高砂に集め、さらに各地へ出荷していた。

今津町

(写真は 今津町)

松林(兵庫県立高砂海浜公園)

 高砂市内の堀川周辺に当時の面影を残す町家がある。このあたりには材木町、鍛冶屋町、魚町、船頭町などの町名が残っており、そのひとつ、今津町には外壁に船板を張った町家がある。ほかに木造の洋館「魚町倶楽部」やギリシャ風の円柱が印象的な高砂商工会議所などレトロな建物が点在している。
 高砂の浜は古くから白砂青松の地として名高く、和歌などにも詠まれてきたが、日本経済の高度成長期に臨海工業地帯に開発され、産業都市へと変貌し、いつしか風光明媚な海岸と松並木は消えてしまった。

(写真は 松林(兵庫県立高砂海浜公園))

 近年、白砂青松復活の声が高まり、自然環境の回復と海と親しむ場所の造成を掲げて行われた緑地整備事で、兵庫県立海浜公園が昭和58年(1983)に完成してオープンした。
 海浜公園は「松林」「島」「浜辺」の3ゾーンで構成された6haの公園。松林には高砂神社の「高砂の松」と同じ黒松1000本とクスノキなど2万3000本が植えられた。人口島は散策、魚釣りなどが楽しめる多目的島。浜辺は約3万立方メートルの砂で砂浜を作り、水辺での遊びができるようになっている。復活した松林、浜辺、さらに背後の高砂市の向島公園の青年の家や多目的球場、子供広場などと相まって市民の憩いの場となっている。

浜辺(兵庫県立高砂海浜公園)

(写真は 浜辺(兵庫県立高砂海浜公園))


 
高砂神社(高砂市)  放送 8月8日(火)
 縁結びの「相生の松」で有名な高砂神社は、その昔、神功皇后が朝鮮半島の新羅へ外征の時、大己貴命(おおなむちのみこと)の神助を得て勝利、凱旋の途中でこの地に寄って国家鎮護を祈り大己貴命を祀ったのが始まりとされる。その後、平安時代中期に疫病を鎮めるため、素戔嗚命(すさのおのみこと)と奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の二神を合祀した。
 神社創建から間もなく神殿の傍らに生えてきた松が、ひとつの根から海辺に生える黒松と山に生える赤松の2本の幹が伸びた珍しいものだった。

三代目 相生松

(写真は 三代目 相生松)

五代目 相生松

 ある日、尉(じょう)と姥(うば)が松のもとに現れ「われは伊弉諾(いざなぎ)伊弉冉(いざなみ)の神なり。今より神霊をこの松に宿し、世に夫婦の道を示さん」と言って姿を消したと伝わる。これよりこの松を「相生の霊松」と呼ぶようになり、生まれも育ちも異なる男女が縁あって出会い、結ばれることから夫婦愛の象徴として崇拝されてきた。
 この尉と姥を縁結び、和合、長寿の神として祀ったのが尉姥(じょううば)神社で、結婚式を挙げるのに最もふさわしい神社として人気があり、式のあと「相生の松」の前で記念撮影をするカップルが多い。

(写真は 五代目 相生松)

 「相生の松」は枯死して絶えないように植え継がれてきた。姫路城主の本多忠政が植えた三代目「相生の松」は、見事な枝ぶりで国の天然記念物に指定されていたが枯死し、その幹が今も神社に保存されている。現在の「相生の松」は五代目となり、緑の枝葉を茂らせすくすくと成長している。
 尉と姥の神像は戦国時代に行方不明になっていたが、江戸時代になって京都の寺院にあることがわかり、無事、尉姥神社に返された。神像が帰ってきた日の5月21日の尉姥祭には、社宝の翁(おきな)の面をつけて舞を奉納する「お面掛け神事」が毎年行われる。

尉姥神社

(写真は 尉姥神社)


 
石乃宝殿(高砂市)  放送 8月9日(水)
 崇神天皇の時代に日本中に疫病が流行した時、天皇の夢枕に大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)の二神が現れ「わが霊を祀れば天下は泰平になる」とのお告げがあった。宝殿山中腹に生石(おおしこ)神社を創建して二神を祀ったところ疫病は鎮まった。以来、無病息災、病気平癒の神として信仰を集めてきた。
 生石神社の神霊を分霊した神社として山形県酒田市生石の生石神社、和歌山県生石高原の生石神社があり、いずれも巨岩を御神体としている。

生石神社

(写真は 生石神社)

石乃宝殿

 生石神社の御神体「石乃宝殿」は高さ5.7m、横幅6.4m、奥行7.2m、推定重量500トンもある巨岩で、三方を岩壁に囲まれ、裏側が屋根の形で神殿が横倒しになったような状態で横たわり、池の中に浮いているかのように見える。 大己貴命、少彦名命の二神が、国土を鎮めるために一夜のうちに石の宮殿を造ろうとした。
その作業中に他の神の反乱にあい、それを鎮めているうちに夜が明けて、造りかけの宮殿を起こすことができなかったと伝えられ、石乃宝殿とか鎮の石室(しずめのいわや)と呼ばれている。

(写真は 石乃宝殿)

 この石乃宝殿は宮城県の塩竈神社の塩釜、宮崎県霧島神宮の高千穂峰の天の逆鉾と共に日本三奇と言われ、播磨風土記や万葉集にもその名が見える。
 石乃宝殿を作るためにできた大量の石屑は、人や動物に踏ませてはならないと約4km北の高御位山の山頂に整然と置かれていると言う。また、石乃宝殿の周囲の池の水は、どのような干ばつにも枯れたことがないと言う。また石乃宝殿の分岩と言われる霊石が近くにあり、力を込めて押すと偉大な力を授かると言われている。生石神社近くの岩山を登ると眺望が素晴らしい観涛処(かんとしょ)がある。

霊岩

(写真は 霊岩)


 
あかがね御殿(加古川市)  放送 8月10日(木)
 加古川市の別府港近くに、建物全体が銅板で葺かれている「あかがね御殿」と呼ばれ、異彩を放っている4階建ての多木浜洋館がある。
 この建物は肥料製造の多木化学の創業者・多木久米次郎氏が、賓客を迎えるために建築したもので、大正7年(1918)から昭和8年(1933)まで、途中で中断した時期があったものの足かけ16年をかけて完成させた。多木久米次郎氏は醸造と魚肥の販売を業とする家に生まれ、昭和時代初めに日本で初めて化学肥料の開発に成功して大きな富を築いた人物である。

多木浜洋館

(写真は 多木浜洋館)

桃山風の格天井

 「あかがね御殿」の特異な外装もさることながら、凝った内装には目を見張るものがある。玄関は大理石を敷き詰め、壁面は繰形や彫刻、ステンドグラスなどで装飾されている。木造の階段は国会議事堂を模しており、150平方mの大広間の桃山風格天井は、極彩色の果樹や野菜の彫刻がはめ込まれている。柱はマホガニーやチーク材が使われ、壁のクロスは別注の西陣織である。
 建物の壁や椅子の背もたれなどに描かれている紋章は、創業当時からの多木化学の社章で「神代鍬(じんだいくわ)」を図案化したものである。

(写真は 桃山風の格天井)

 4階の展望室からは間近の別府港はもとより、播磨灘の家島群島、淡路島が望める。周囲に高い建物が少なかった建設当時は、ここから見事な眺望が楽しめたことだろう。「あかがね御殿」は国の登録有形文化財に指定されており、多木家から幼稚園を経営する多木学園に寄贈され、園児の保育地のほか研修会、講演会などの文化活動に活用されているが、一般公開はしていない。
 この建物を検証した藤森照信・東大教授は「屋根だけでなく全体をすっぽり銅板で包む例は珍しい。内装も既成概念にとらわれない大胆なものだ」と多木氏の心意気に打たれたようだ。

展望室

(写真は 展望室)


 
播磨の古刹・鶴林寺(加古川市)  放送 8月11日(金)
 鶴林寺は崇峻天皇2年(589)聖徳太子によって創建された播州きっての古刹で、地元では「刀田(とた)の太子さん」と親しまれ、庶民の信仰も篤い。聖徳太子が排仏派の物部氏らの迫害を受け、この地に逃れていた朝鮮半島の高句麗の僧・恵便法師を訪ねて教えを請うたのが縁で、秦河勝に命じて創建した四天王寺聖霊院が鶴林寺の始まり。
 本堂(国宝)は室町時代の応永4年(1397)の建立で、その建築様式は和様に中国から入った禅宗様、大仏様が取り入れられたわが国の折衷様式の代表作である。

本堂

(写真は 本堂)

太子堂

 本堂の本尊・薬師如来像(国・重文)をはじめ5体(いずれも国・重文)の仏像は、宮殿(くうでん)と呼ばれるわが国最大の厨子に納められ、60年に一度だけ開帳される。
 「播磨の法隆寺」と呼ばれるように、鶴林寺には建物や仏像、画像、工芸品など数多くの文化財を所蔵しており、国宝や重要文化財も多い。平安時代後期の天永3年(1112)建立の太子堂(国宝)は兵庫県下最古の建物。堂内の板壁に描かれている壁画は、すすけて肉眼では見えなかったが、赤外線撮影で超一級壁画の「九品(くほん)来迎図」や「釈迦涅槃図」が描かれていることがわかった。

(写真は 太子堂)

 宝物館に納められている金銅聖観音立像(国・重文)は、白鳳時代の名作。切れ長の目、微笑みを浮かべた表情、のびやかな肢体、右に腰をややひねった立ち姿にはうっとりと見とれてしまう。この観音像を盗み出した泥棒が、像を壊そうと槌で腰をたたいたところ観音様が「あいたた」と声を発しので、驚いた泥棒は罪を悔いて腰が曲がったままで観音像を返したとの伝説があり「あいたた観音」の異名がある。
 宝物館にはこのほか十一面観音立像、釈迦三尊像、舞楽太鼓縁(いずれも国・重文)など多くの寺宝が収蔵、展示されており、手の届く位置で拝観できる鶴林寺の「名宝ギャラリー」と言える。

金銅聖観音立像(宝物館)

(写真は 金銅聖観音立像(宝物館))


◇あ    し◇
高砂海浜公園山陽電鉄高砂駅下車徒歩30分。 
JR山陽線加古川駅からバスでバスで永楽橋下車徒歩20分。
高砂神社、尉姥神社山陽電鉄高砂駅下車徒歩15分。 
生石神社JR山陽線宝殿駅下車徒歩20分。 
山陽電鉄伊保駅下車徒歩30分。
あかがね御殿(多木浜洋館)山陽電鉄別府駅下車徒歩20分。 
鶴林寺山陽電鉄尾上の松駅下車徒歩20分。 
JR山陽線加古川駅からバスで鶴林寺下車すぐ。
◇問い合わせ先◇
高砂市役所商工観光係079−443−9030 
高砂市観光協会079−443−0500 
高砂海浜公園079−443−9036 
高砂神社079−442−0160 
生石神社079−447−1006 
加古川観光協会079−427−9720 
多木学園
(あかがね御殿所有)
079−437−8176 
鶴林寺079−454−7053 

◆歴史街道とは

    関西は「歴史・文化の宝庫」として世界に誇れる地域です。歴史街道では、日本の歴史文化の魅力を楽しく体験し、実感できる旅のルートとエリアを設定しました。伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸といった主要歴史都市を時代の流れに沿ってたどる「メインルート」と各地域の特徴をテーマとして活かした3つの「ネットワーク」です。

 

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」

    の3つの目標を掲げ、その実現を目指しています。

 

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