月〜金曜日 21時48分〜21時54分


舞鶴市 

 舞鶴といえば戦前までの軍港、終戦直後は旧ソ連、中国などからの引揚者が日本への第一歩を踏みしめ、父母や妻、子供たちと再会を喜びあった土地として知られている。これら再会の喜びの裏には帰らぬわが子、わが夫を待つ「岸壁の母」「岸壁の妻」が話題になった。舞鶴は中世から丹後国の政治、経済の中心地として繁栄。戦中、戦後は日本の歴史と深い関わりを持ちながら発展してきた。


 
田辺城  放送 3月26日(月)
田辺城城門 織田信長の命で明智光秀と共に丹後国を攻めた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子は、天正8年(1580)丹後守護の一色氏を滅ぼした。細川父子は信長から丹後国を与えられ、舞鶴の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築いた。別名・舞鶴城と呼ばれた田辺城は以後、徳川幕府が滅びるまで細川、京極、牧野氏の居城として290年間続いたが、明治維新後の明治6年(1873)廃城となり取り壊された。
 城下町の名残として朝代神社の祭礼の時に「芸屋台」が出て、屋台の上で子供たちの歌舞伎が演じられた。今は舞鶴市内の各町に屋台が保存されているが、歌舞伎を演じる子供がいなくなって祭礼には出なくなって久しい。
 田辺城をしのぶものとしては当時の石垣がわずかに残っており、本丸跡付近は現在、舞鶴公園として整備され市民の憩いの場となっている。二層櫓が昭和17年(1942)に復元され、平成4年(1992)には城門が復元されて、2階は田辺城資料館として歴代藩主や田辺城の資料が展示されている。
(写真は 田辺城城門)

竹屋芸屋台(寛保3年作) 細川藤孝は本能寺の変で信長が亡くなると髪をおろして幽斎と名乗った。その後、豊臣秀吉に仕えていたが、関ヶ原の戦いでは細川父子は徳川方についた。石田三成は田辺城にろう城していた藤孝に対し、近隣の城主を動員して田辺城を攻めさせた。田辺城は約1万5000人の兵に囲まれ落城寸前にまで追い込まれた。
 藤孝は歌人・三条実枝から古今集に関する古事の秘伝を伝授された、古今伝授の唯一の継承者となっていた。古今伝授の絶えることを心配した後陽成天皇が和解を働きかけたが、藤孝は初めこの和解を拒絶した。だがようやく両軍の和解が成り立ち、古今伝授は後世へ伝わった。和解を拒絶した時に藤孝は、天皇の使者に古今伝授の秘伝書と「古へも 今もかはらぬ 世の中に こころのたねを 残す言の葉」の歌を添え、皇弟・智仁親王へ贈った。今、舞鶴公園にある庭園・心種園の名はこの歌に由来している。
(写真は 竹屋芸屋台(寛保3年作))


 
赤レンガの街  放送 3月27日(火)
赤レンガ倉庫群 舞鶴は明治34年(1901)に旧海軍舞鶴鎮守府が置かれてから、海軍が建設した建物を中心に赤レンガ造りの建物が次々と建設された。現在もその多くが保存されており、赤レンガ建造物の数では日本でも有数となっており、舞鶴の街に異国情緒を醸し出している。
 これらの赤レンガ建造物は、現在も赤れんが博物館、舞鶴市政記念館、倉庫、造船工場、トンネル、橋の橋脚などとして使用されている。ほかに日露戦争に備えた砲台、レンガを焼いたホフマン窯などが残っている。
(写真は 赤レンガ倉庫群)

神崎煉瓦・ホフマン式輪窯 レンガをテーマにした「赤れんが博物館」は、世界にもあまり例のない博物館で、旧海軍の魚形水雷庫として明治36年(1903)に建設されたものである。鉄骨レンガ造でわが国で最古級のレンガ建築物といえる。博物館内にはインダス文明の都市遺跡のレンガや、世界四大文明のレンガを中心に世界各国のレンガやレンガ建造物の模型などを展示している。
 舞鶴市政記念館は明治35年(1902)に建設された旧海軍の兵器庫(砲銃庫)で、戦後は市庁舎の一部として使われていたが、平成6年(1994)に芸術、文化の交流の場として生まれ変わった。
 レンガ窯として明治時代に造られたホフマン窯は現在、全国に4基だけ残っている。そのひとつが舞鶴市にあるが、融資の担保として競売にかけられなど存続が危ぶまれており、市民団体が保存を働きかけている。
(写真は 神崎煉瓦・ホフマン式輪窯)


 
再会を夢見て  放送 3月28日(水)
平引揚桟橋 天然の良港として古くから栄えた舞鶴港は、明治34年(1901)に旧海軍舞鶴鎮守府が置かれてから海軍の街としての色彩が強くなった。舞鶴市の通りには日露戦争前の連合艦隊など、旧海軍の軍艦名の富士、三笠、敷島などの名がつけられている。だが、中年以上の世代の人々の脳裏に焼きついているのは「引き揚げの街・舞鶴」だろう。
 わが息子、わが夫、兄、弟を戦地に送りだした人たちが、旧ソ連や中国に抑留された肉親の帰りを待ち受けた街・舞鶴。厳寒のシベリアに抑留され、辛い労働に耐えて日本に帰れる日を待ち望んだ抑留者たちが、その望みがかなえられ懐かしの祖国に第一歩を印した街・舞鶴。引揚船が入港するたびに抱きあって再会を喜ぶ家族たちの姿が新聞で報じられ、全国の人たちがわが事のように喜びを分かちあった街・舞鶴。だが、その裏には、今度もまた帰って来なかったわが子、わが夫に悲嘆の涙を流した人たちも多く、その姿が「岸壁の母」「岸壁の妻」として多くの人の同情を集めた街・舞鶴。
(写真は 平引揚桟橋)

舞鶴引揚記念館 昭和20年(1945)10月7日に引揚第1船「雲仙丸」が舞鶴港に入港して以来、13年間にわたり66万人の引揚者と1万6000柱の遺骨を舞鶴港に迎えた。
 終戦当時、海外に残された日本人は660万人にのぼった。これらの人々を短期間に帰国させるため、舞鶴港など全国10港が引揚港に指定され引揚者を迎え入れた。引揚が一段落した昭和25年(1950)以降は、舞鶴港が唯一の引揚港として残り、昭和33年(1958)9月7日の最終船までその役割を果たした。
 引揚者が懐かしの日本に第1歩を踏んだ、平桟橋があったところには引揚桟橋が復元されている。この引揚の地を見下ろす小高い丘には昭和45年(1970)引揚記念公園が整備された。再び繰り返してはならない戦争の悲劇、悲惨な抑留生活を後世に伝えようと、公園内に昭和63年(1988)引揚記念館がオープン、館内には辛い抑留生活を物語る品々や資料が展示されている。
(写真は 舞鶴引揚記念館)


 
松尾寺の仏舞(ほとけまい)  放送 3月29日(木)
松尾寺本堂 若狭富士と呼ばれている青葉山の中腹にある松尾寺は、中国から渡来した唐の僧・威光上人が青葉山の山中で馬頭観音を感得して、和銅元年(708)に草庵を結んで馬頭観音像を安置したのが起こりと伝えられている。今も西国三十三所29番札所として庶民の信仰を集めている名刹。
 威光上人が寺を開いてから歴代天皇や貴族、田辺藩主らの帰依を受け、本堂などの伽藍(がらん)が建立された。天正6年(1578)の織田信長の丹後攻めによる細川藤孝の兵火によって堂塔はことごとく焼失したが、田辺藩主となった藤孝の手によって復興され、後の田辺藩主・牧野英成らによって今日の姿に整えられた。国宝の仏画・絹本著色普賢延命像のほか、松尾寺には国の重要文化財指定の鎌倉時代の仏画、仏像が多い。
(写真は 松尾寺本堂)

仏舞の仏面 毎年5月8日の花祭に奉納される「仏舞」は、松尾寺の珍しい会式として有名だ。仏舞は奈良時代に唐から伝えられたもので、仏舞の由来や始まりは松尾寺の古い記録が焼失して不明だが、江戸初期に舞われていた記録は残っている。
 仏舞は本堂内の舞台で大日如来、釈迦如来、阿弥如来の光背のついた金色の仏面をそれぞれ2人ずつ6人の舞人がかぶり、越天楽の曲に合わせて典雅な舞を繰り返す。古くは松尾寺の寺坊の僧が舞っていたが、寺坊が消滅した後は門前町の松尾寺仏舞保存会の人たちが舞い伝えている。
 寺に伝わる松尾寺伽藍落慶式古図は、室町時代に平安時代末の鳥羽天皇松尾寺伽藍再興落慶式古図を写したものと見られ、参詣曼荼羅(さんけいまんだら)の一種と考えられている。市の天然記念物の樹齢800年の大イチョウは、鳥羽天皇、美福門院が伽藍落慶式に臨幸した時の手植えと伝えられ、幹回り6m、樹高21mの巨木。
(写真は 仏舞の仏面)


 
金剛院に見る快慶  放送 3月30日(金)
金剛院塔婆 松尾寺の南の鹿原(かはら)川沿いの静かな山ふところにある金剛院は、平安時代初めの天長6年(829)に平城天皇の第3皇子高丘(たかおか)親王が創建したと伝えられている。高丘親王は皇位継承争いで太子を廃され、この世の無情を感じ仏門に入り空海の弟子となり、法名を真如親王と称した。
 一時、荒廃した金剛院を白河天皇が中興し、その後、鳥羽天皇の皇后・美福門院も堂宇の修理や建立、仏像を勧請しているほか、多くの天皇らの帰依を受けていた。
 真如親王追善供養のための三重塔(国・重文)は白河天皇の時代の永保3年(1083)に建立されたが、現在の塔は室町時代に再建されたもので、この時代の特徴をよく伝えていると言われている。
(写真は 金剛院塔婆)

執金剛神立像(重文) 由緒ある古刹の金剛院には寺宝類が数多く、仏像類に貴重なものが多い。その中でも鎌倉時代の代表的な仏師・快慶作の「執金剛神(しつこんごうしん)立像」「深沙(しんじゃ)大将立像」(いずれも国・重文)は有名だ。 執金剛神は仏の守護神で、このように甲冑(かっちゅう)をつけたものは全国的にも少なく、東大寺三月堂の塑像執金剛神に例があるぐらい。この2体の像は快慶の初期の作として注目されており、神沙大将像は迫力ある写実的な表現をした鎌倉時代の彫刻を代表する名作として高く評価されている。
 全国に20体あまりしか認められていない快慶の作品が、この地に2体もあることは長く謎とされていたが、高野山から移された可能性が強いといわれている。
(写真は 執金剛神立像(重文))


◇あ    し◇
田辺城、朝代神社JR舞鶴線、北近畿タンゴ鉄道西舞鶴駅下車徒歩5分。 
赤れんが博物館JR舞鶴線東舞鶴駅下車徒歩5分。 
舞鶴引揚記念館JR舞鶴線東舞鶴駅からバス引揚記念公園前下車。 
松尾寺JR舞鶴線東舞鶴駅からバス松尾寺口下車徒歩40分。  
金剛院JR舞鶴線東舞鶴駅からバス鹿原下車徒歩10分。 
◇問い合わせ先◇
舞鶴市商工観光課0773−62−2300 
舞鶴観光協会0773−66−1024 
舞鶴観光案内所0773−65−2100 
田辺城資料館0773−76−7211 
朝代神社0773−75−0132 
赤れんが博物館0773−66−1095 
舞鶴市政記念館0773−66−1096 
舞鶴引揚記念館0773−68−0836 
松尾寺0773−62−2900 
金剛院0773−62−1180 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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