月〜金曜日 18時54分〜19時00分


歴史街道メインルート・伊勢〜明和〜松阪 

 今週から9週にわたり伊勢から神戸までの歴史街道メインルートを歩き、歴史街道の原点を探ってみる。まずは歴史街道の出発点で、日本人の心のふるさととも言われる伊勢から松阪までを訪ねた。


 
伊勢神宮(伊勢市)  放送 4月8日(月)
 伊勢神宮は正式には「神宮」と言い、外宮と内宮の両正宮からなっている。毎日、何台もの観光バスで老若男女、大勢の人びとが参拝している光景を目にすると、伊勢神宮が“日本人の心のふるさと”であることをつくづく実感させられる。伊勢神宮の神域には両宮のほかに別宮、摂社、末社合わせて123社の社殿があり、神さまのビッグファミリー。
伊勢神宮は先に外宮、次に内宮を参拝するのが昔からの習わしになっている。
 外宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)と言い、米作りをはじめ、衣、食、住や広く産業の守り神の豊受大御神(とようけおおみかみ)を祭っている。この神は約1500年前、内宮に祭られている天照大神(あまてらすおおみかみ)の食事を司る御饌津神(みけつかみ)として、京都・丹波国から迎えられ伊勢・高倉山の麓に祭られた。
 外宮では毎日、朝と夕方に天照大神をはじめ、伊勢神宮の神々に食事を供える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)が行われている。参拝した時、運が良ければ白装束の神官が、白木の箱に納められた神饌(しんせん)をうやうやしくかついで運ぶ姿を見られる。この神饌を準備するところが御饌殿(みけでん)で、外宮にだけある社殿。

日別朝夕大御饌祭(外宮)

(写真は 日別朝夕大御饌祭(外宮))

御手洗場(内宮)

 内宮は皇大神宮と言い神路山(かみじやま)の麓、五十鈴川のほとりに皇室の祖神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を祭っている。
 天照大神は初めは皇居内に祭られていたが、天照大神と御殿をひとつにするのはおそれ多いと、第10代崇神天皇の代に大和国・笠縫村に祭られたと伝えられている。その後、第11代垂仁天皇の時代に天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神を奉じて各地を巡幸の後、今から約2000年前、伊勢の地が天照大神を祭るにふさわしい地と定め鎮座したといわれている。
 伊勢神宮の内宮、外宮とも正殿は20年に1回、建て替えられ遷宮が行われる。これを式年遷宮と言う。飛鳥時代の持統天皇の時に第1回遷宮が行われ、最近は平成5年(1993)に61回目の遷宮があった。内宮の入り口の宇治橋の両側に建っている鳥居の柱は、遷宮の後に旧殿の棟持ち柱がそれぞれ使われ建て替えられる。橋の内側の鳥居が内宮、外側が外宮の棟持ち柱。冬至のころ、この両方の鳥居の間から太陽が昇り、伊勢神宮にふさわしい神々しさをかもし出す。

(写真は 御手洗場(内宮))


 
お伊勢参りの楽しみ(伊勢市)  放送 4月9日(火)
 「せめて一生に一度はお伊勢参りを!」と言うのが、昔からの庶民の願望だった。江戸時代に入って各地の街道が整備され、伊勢参りがブームになった。と言っても江戸から片道約15日、京、大阪から4、5日もかかり、道中に関所も多く旅費もかなりかかる大旅行だった。
 伊勢参りを盛んにしたひとつに「おかげ参り」と呼ばれたブームがある。「人さまのおかげや神さまのおかげで、つつがなく生活ができたので、お伊勢さんに感謝のお参りをしたい」と思った人たちが、仲間を集めてお伊勢参りをするようになった。おかげ参りのブームは最初、江戸時代の寛永15年(1638)ごろに起こり、慶安、宝永、明和、文政の各時代にそれぞれ大流行を繰り返した。宝永2年(1705)4月から5月にかけての50日間に、362万人が伊勢参りをしたとの記録がある。1日平均、実に7万2000人にものぼる人が伊勢神宮へ参った。また文政12年(1830)には500万人が伊勢参りをしており、当時の日本の総人口のうち5人に1人がこの年に伊勢参りをしたことになる。

手こね寿司

(写真は 手こね寿司)

赤福

 昔から伊勢は「美(うま)し国」と言われた。すなわち美しくて美味しい食べ物があるところだった。伊勢参りの楽しみは江戸時代の川柳に「伊勢参り大神宮へもちょっと寄り」とあるように、遊廓のあった歓楽街へ行くのが楽しみな人たちもいた。現代もその心理状態は同じで、旅の途中で美味しいものを食べるのが楽しみな人たちが多い。
 そんな伊勢参り客を迎えるのが、内宮の入り口にひろがる門前町。ここにはこれらの食通を満足させる料理店や土産物店が軒を連ねている。おかげ参りにあやかった「おかげ横丁」や「おはらい町」など名がついた通りがある。ここには伊勢の名物料理の伊勢うどん、手こね寿司、赤福餅などの老舗が店を並べているほか、伊勢の海産物の伊勢エビ、サザエを食べさせる料理店もある。また伊勢神宮の神さまが召し上がる美味しい地酒もあり左党の旅人にはこたえられない。これを全部味わっていたのでは胃袋の方が持たないかもしれない。

(写真は 赤福)


 
朝熊参り(伊勢市)  放送 4月10日(水)
 「お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ 朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の一節にあるように、伊勢神宮の外宮、内宮を参拝してさらに金剛證寺にお参りして、はじめて完全なお伊勢参りになるとされており、境内には参詣人が絶えない。金剛證寺の草創は古く欽明天皇のころ、曉台上人が草庵を結んだのが始まりで、天長2年(825)弘法大師が真言密教の大道場を開き、虚空蔵菩薩像を本尊として安置して金剛證寺と称するようになった。伊勢神宮の鬼門を守る寺で伊勢神宮の奥の院とも言われている。
 金剛證寺がある伊勢志摩で最も高い朝熊岳(555m)の山頂からは鳥羽、伊勢のリアス式海岸やよく晴れた日には日本アルプスや富士山の姿を望むことができる。

摩尼殿

(写真は 摩尼殿)

雨宝童子像

 摩尼殿と呼ばれる本堂(国・重文)は、内部の柱に金箔が張られたきらびやかな造り。本尊・福威智満(ふくいちまん)虚空蔵菩薩像が安置されている須弥壇の後ろには、天照大神がまつられ神仏習合思想を表している。本尊の福威智満虚空蔵菩薩像は日本三大虚空蔵菩薩像のひとつで、この秘仏は20年に一度の伊勢神宮の遷宮の翌年に御開帳される。
 境内にある連間の池にかかっている念珠の形をした朱塗りの太鼓橋は、俗界と聖地の境界にある。聖地には天照大神の化身、雨宝(うぼう)童子立像(国・重文、平安時代)が安置されている。雨宝童子立像は弘法大師が、天照大神の姿を感得して彫ったと伝えられ、ここにも神仏習合思想がある。本堂の後ろを登ると経ヶ峰経塚があり、ここから陶製経筒や銅鏡、銅製経筒、経巻などが出土した。

(写真は 雨宝童子像)


 
よみがえる幻の宮(三重・明和町)  放送 4月11日(木)
 伊勢神宮から北西10kmの明和町には、7世紀後半の天武天皇時代から南北朝時代まで約660年にわたって「斎宮(さいぐう)」と呼ばれる宮があった。斎宮は天皇の即位ごとに伊勢に派遣され、伊勢神宮に仕える斎王の御殿と官人の役所・斎宮寮があった。斎王には5歳から15歳ぐらいまでの未婚の内親王または女王が選ばれた。660年の間に64人の斎王が都から派遣され、伊勢神宮の天照大神に仕えた。斎宮には斎王に仕える女官が約70人、官人や事務を扱う人びとが約700人ほどがいたと推定され、その御殿は壮大、華麗で威容を誇っていた。
 明和町には斎宮と言う地名があったが、斎宮がどこにあったのか不明で「幻の宮」として語り継がれていた。昭和45年(1970)住宅団地造成をきっかけに事前発掘調査が行われた結果、掘立柱建物群跡や陶器などが多数出土し、斎宮の存在が明らかになった。
その後の調査で斎宮の範囲は東西2km、南北700m、約140haにおよぶ広大な地域におよぶことがわかった。

羊形硯

(写真は 羊形硯)

盤双六

 斎宮跡は国の史跡に指定され「斎宮歴史博物館」や「いつきのみや歴史体験館」などが建てられた。斎宮歴史博物館は斎宮跡に遺構を傷つけないように特殊な工法を用いられ建設され、十二単(じゅうにひとえ)の曲線と伊勢の海の波をデザインに取り入れた優美な外観で来館者を迎えている。館内には発掘調査で出土した緑釉(りょくゆう)陶器、土馬、陶硯(とうすずり)などが展示されて、マルチスクリーンによる映像では、当時の暮らしぶりや斎王制度などを紹介している。
 いつきのみや歴史体験館では、入館者の中から希望者に1日3人を抽選で選び、当時の衣装の十二単(じゅうにひとえ)や直衣(のうし)を身につけてもらい、平安貴族の気分にひたってもらう。このほか、盤すごろく遊び、貝合わせ遊びが楽しめるほか、予約で機織り、わら細工、草木染めなどが体験できる。

(写真は 盤双六)


 
城下町の春(松阪市)  放送 4月12日(金)
 松阪城は戦国時代の名将・蒲生氏郷が天正16年(1588)に四五百森(よいほのもり)と呼ばれる丘陵地に築城した。当時は天守閣がそびえ、二の丸、三の丸には高い石垣を築き、周囲には櫓(やぐら)を配した威容を誇る城郭だった。氏郷は3年後に会津へ42万石で移封された。江戸時代に入り松阪は紀州徳川家の領地となり、松坂城には紀州藩の城代が置かれるようになった。
 城跡の搦手(からめて)門から東へ続く石畳の両側に、よく手入れされた生け垣に囲まれた御城番(ごじょうばん)屋敷がある。松坂城の警備に当たっていた紀州藩士とその家族の住宅として、文久3年(1863)に2棟、20戸が建てられた。屋敷には現在も藩士の子孫が住み、12戸は借家として利用されている。松阪市が西棟北端の1戸を借り受け、当時の住宅に復元し一般公開しており、下級武士の質素な暮らしぶりがしのばれる。

松阪もめん

(写真は 松阪もめん)

万両箱(松阪商人の館)

 松阪城を築いた蒲生氏郷は、城下町に楽市楽座を設け商業の町としての繁栄をはかってきた。江戸時代前期には三井、小津、長谷川、長井、殿村らの松阪商人の豪商が誕生、江戸や京、大阪に店を構えるようになった。その中の筆頭格・小津清左衛門の旧邸が伊勢参宮街道沿いにある。江戸・日本橋を中心に紙問屋、木綿問屋を大々的に営んでいた小津家の松阪の邸宅で、松阪市がこの邸宅を購入、内部を当時の姿に復元し「松阪商人の館」として一般公開した。
 「松阪商人の館」は外観は質素に見えるが、邸内は広く豪商の邸宅にふさわしい豪壮な造りになっている。内部には見世の間、勘定場、お茶の間、表座敷、奥座敷など20余りの部屋、2つの蔵、4つの庭があり、最盛期には家族や使用人ら約60人もの人が住んでいた。邸内の重厚な蔵を利用した展示室には、小津家と松阪商人の資料が展示されている。
展示品の中には千両箱や千両箱を入れる万両箱などがあり、松阪商人の豪勢な暮らしぶりがうかがえる。

(写真は 万両箱(松阪商人の館))


◇あ    し◇
伊勢神宮外宮JR参宮線、近鉄山田線伊勢市駅下車徒歩10分。
伊勢神宮内宮JR参宮線、近鉄山田線伊勢市駅からバス内宮前下車。       
金剛證寺JR参宮線、近鉄山田線伊勢市駅からバス金剛證寺下車。     
斎宮跡・いつきのみや歴史体験館
近鉄山田線斎宮駅下車。
斎宮歴史博物館近鉄山田線斎宮駅下車徒歩10分。    
松阪城跡・御城番屋敷JR紀勢線・近鉄山田線松阪駅下車ら徒歩15分。 
JR紀勢線・近鉄山田線松阪駅からバス市民病院下車。
松阪商人の館JR紀勢線・近鉄山田線松阪駅下車徒歩10分。        
◇問い合わせ先◇
伊勢観光協会0596−28−3705 
神宮司庁(伊勢神宮)0596−24−1111 
金剛證寺0596−22−1710 
明和町観光協会0596−52−7112 
斎宮歴史博物館0596−52−3800 
いつきのみや歴史体験館0596−52−3890 
松阪市役所観光課0598−53−4406 
御城番屋敷0598−26−5174 
松阪商人の館0598−21−4331  

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会