月〜金曜日 21時48分〜21時54分


大阪・九条界隈 

 今、大阪市西部(西区、港区、此花区、大正区)あたりに熱い視線がそそがれている。ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)がオープン(2001年3月31日)し、日本はもとよりアジア各国からの観光客が予想される。これまでに築港の海遊館や天保山大観覧車(港区)、大阪ドーム(西区)がオープンしており、2008年の大阪オリンピック招致に向け、舞洲にスポーツ施設が建設されている。大阪市西部は“21世紀の新スポット”として大きな期待が寄せられており、今回はその中の九条界隈をクローズアップした。


 
安治川を渡る  放送 4月9日(月)
安治川トンネル(源兵衛渡し) JR大阪環状線西九条駅から南へ行くと安治川に突き当たる。戦前の昭和19年(1944)までは、ここに「源兵衛の渡し」があった。現在は渡しに代わってエレベーターで17mほど地下に降り、川底の長さ80mのトンネルを通って対岸へ進み、再びエレベーターで地上に出る仕組みになっている。いつもこのトンネルを利用している地元の人たちは、エレベーターの係員に「ありがとう」と声をかけていくのが習わしで、下町らしいさわやかさが感じられる。
 船舶の航行に支障をきたすと安治川には橋を架けることが認められなかった。安治川を渡る交通量が増え、渡し船ではさばききれなくなり、川底にトンネルを通す計画が持ち上がった。安治川の川底トンネルは昭和10年(1935)に着工したが、戦時中の資材不足などから工事が進まず、終戦間際の昭和19年(1944)9月にやっと完成、開通(安治川隧道)した。
(写真は 安治川トンネル(源兵衛渡し))

天保山渡船 トンネルの長さは80.6m、有効幅は11.4mで車道2車線と歩道がある。
大きなコンクリート製の管を沈めていく沈埋工法がとられ、総工費は当時の額で約260万円、現在に換算すると数十億円になる。車両用と歩行者用のエレベーターが両岸にあり利用者を上げ下げした。当時は威力を発揮したが、自動車のめざましい普及、大型化で1日1500台が限度のエレベーターではさばききれなくなった。周辺の高速道路やバイパスの建設によって昭和52年(1977)車両用トンネルは閉鎖され、エレベーターも歩行者用だけになった。
 水の都・大阪には川が縦横に流れ、川を渡る交通機関として渡し船が多かった。最盛期の昭和10年(1935)ごろには31ヶ所の渡船場があり、69隻の渡し船が運航していた。その後、橋が架けられてその姿が消えていったが、現在も大阪市内に8ヶ所(天保山渡船場=安治川、甚兵衛渡船場=尻無川、落合上渡船場、落合下渡船場、千本松渡船場、木津川渡船場=以上木津川、船町渡船場=木津川運河、千歳渡船場=大正内港)の渡船場が残っている。運賃は無料で貴重な交通機関として市民に利用されている。
(写真は 天保山渡船)


 
九条・にぎわいの街  放送 4月10日(火)
九条商店街 九条は安治川と木津川・尻無川にはさまれた島で、江戸時代初めの寛永年間(1624〜44)に、徳川幕府の役人だった香西晢雲(こうざいせきうん)とこの地の豪農・池山一吉がこの一帯を開発し、儒学者・林羅山が「衢壌(くじょう)島」と命名した。「衢」は「ちまた」とも読み、にぎやかに人の集まる市街地を意味し、「壌」は土地を意味し「にぎやかに栄える土地」を願って衢壌と名付けられた。林羅山の願い通り、今は“西の心斎橋”と言われるほど発展した。
 むずかしい衢壌から誰もが親しみをもって読める「九条」に改められた。九条の命名は、洪水の時に流れ着いた京都の九条家の木笏(もくしゃく)にちなむとか、九条の川が流れていたことに由来するとか言われているが定かではない。
(写真は 九条商店街)

屋台 明治30年(1897)ごろ安治川の源兵衛渡しと歓楽街の松島を一直線に結ぶ九条新道が開通、その周辺にいろいろな商品を売る店が建ち並び九条商店街が生まれた。下町の住民や工場労働者らに安い商品を提供する商店街として、朝早くから夜遅くまで商いを続けて発展した。商店街の近くには劇場、寄席、映画館も集まり活況を呈した。
 今はアーケードの整った近代的な商店街に変身しているが、昔の名残が残っており親しみのもてる商店街として遠方からの買い物客らでにぎわっている。安くておいしいのが売り物の飲食店も人気があり、キタやミナミの繁華街とは違う雰囲気に引かれ、仕事の疲れを九条でいやすサラリーマンも多い。
(写真は 屋台)


 
九島(きゅうとう)院  放送 4月11日(水)
山門 高架の地下鉄中央線と阪神高速が走る中央大通の西側に中国風の山門がある黄檗(おうばく)宗の禅寺・霊亀山九島院がある。江戸時代初めの寛永年間(1624〜44)にこの地の衢壌(くじょう)島を開発した徳川幕府役人・香西晢雲(こうざいせきうん)と豪農・池山一吉が、四海安全・五穀豊穣を祈願して寛永元年(1624)に創建、寛文10年(1670)龍渓(りゅうけい)禅師を招いて入仏開堂の法要を行い開山した。
 龍渓禅師が入仏法要を執り行っていた8月15日、大型の台風が襲来し、九島院も高潮の襲われた。禅師の弟子たちが避難を勧めたが禅師は「生死は天命でなり…」と言って聞き入れず、端然と座禅の姿勢で読経を続け水中に没して入寂したと伝えられている。
(写真は 山門)

準提観世音菩薩像(御念持仏) 龍渓禅師は京都の生まれで、8歳で仏門に入り京都・東寺で真言密教を学んだ。
その後、修行を重ね京都・妙心寺の住職などを勤めた。中国からの渡来僧・隠元禅師の弟子となり、日本仏教興隆のために中国に帰国しようとする隠元禅師を引き止め、徳川幕府と交渉して宇治市に隠元禅師を宗祖とする黄檗山万福寺を建立した。龍渓禅師は後水尾法皇から深い帰依を受け、九島院に法皇の念持仏・準提観世音菩薩像があるのもその現れのひとつ。
 九島院の山号・霊亀山は龍渓禅師が入仏開堂の法要を行っていた時、大亀が背中に花を載せて現れ祝福したことに由来している。当時は大阪湾にも海亀が回遊していたとの記録がある。また、台風による高潮にのまれて没した龍渓禅師を「九条の人柱」と土地の人たちは崇敬した。
(写真は 準提観世音菩薩像(御念持仏))


 
港の芸術家村  放送 4月12日(木)
住友倉庫 回遊館や天保山へ行く地下鉄中央線大阪港駅の南側、築港の岸壁に大正時代に建てられた赤レンガの倉庫群がある。物流の拠点が天保山の大阪港から南港に移ってから倉庫としての機能と価値が低くなったため、大阪市が平成11年(1999)に住友倉庫から2棟の倉庫を譲り受けた。大阪市は大阪港再開発の一環として、この倉庫を中心にした「国際芸術家村構想」を打ち出し、国内外の芸術家の活動拠点作りを進めている。ニューヨークの倉庫群に芸術家が移り住み、創作活動の発信地となっているソーホーにちなみ“なにわのソーホー”を目指し、アーチストや関係者は夢をふくらませている。
(写真は 住友倉庫)

海岸通ギャラリーCASO この動きに乗って赤レンガ倉庫の広い空間を活用した「海岸通ギャラリーCASO」が昨年9月オープンした。オープン直後は数々のイベントでかなりの来場者があった。倉庫の一角にはアトリエを構える芸術家もおり“なにわのソーホー”へ向け歩んでいる。
 一方では芸術家村構想を「安易な手法」と危ぶむ声もあるが、安治川を隔てた向かいにユニバーサル・スタジオ・ジャパンもオープンし、大阪の人の流れが大阪港方面を向くようになり、新しい発想で取り組めば必ず成功すると期待する人たちが多い。
(写真は 海岸通ギャラリーCASO)


 
茨住吉神社  放送 4月13日(金)
鳥居門 茨住吉神社は寛永元年(1624)に衢壌(くじょう)島を開発した徳川幕府の役人・香西晢雲(こうざいせきうん)とこの地の豪農・池山一吉が、住吉大社の四神を勧請して大阪港に出入りする船舶の安全を祈ったのが始まり。境内にあった大楠は沖を行く船の目印になっていたと言う。住吉の名に茨の文字を冠した由来は諸説あり定かでない。
(写真は 鳥居門)

社殿 大正時代から昭和初めにかけて九条は西大阪の中心街、歓楽街として繁栄した。
この発展に伴って茨住吉神社境内には常時映画館や出店があり、昼夜をとわず参拝者らでにぎわった。夏祭りには威勢よく神輿が練り歩き活気があった。
 昭和20年(1945)3月の空襲で神輿庫1棟を残し、社殿はことごとく焼失 した。昭和40年(1965)に現在の鉄筋コンクリート造2階建の社殿を再建し、続いて参集殿、鳥居などの付属建造物を完成させ、昭和46年(1971)に神社の姿が整った。
(写真は 社殿)


◇あ    し◇
安治川トンネルJR環状線、阪神電鉄西大阪線西九条駅下車徒歩5分。
地下鉄中央線九条駅下車徒歩10分。
天保山大観覧車地下鉄中央線大阪港駅下車徒歩5分。 
九条商店街地下鉄中央線九条駅下車。 
九島院地下鉄中央線九条駅下車徒歩5分。 
港の芸術家村、
      海岸通ギャラリー「CASO」
地下鉄中央線大阪港駅下車徒歩5分。
茨住吉神社地下鉄中央線九条駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
安治川トンネル(大阪市建設局)06−6576−0761 
天保山渡船場06−6571−5919 
天保山大観覧車(泉陽興業)06−6576ー6222 
九条商店街06−6581−8041 
九島院06−6583−2725 
住友倉庫(警備室)06−6571−5000 
海岸通ギャラリーCASO06−6576ー3633 
茨住吉神社06−6582−2211

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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