月〜金曜日 21時48分〜21時54分


大阪・船場界隈 

 大阪・船場と言えば“商いの町”として知られ、大小の店が軒を連ねて熱の入った客との取引が繰り広げられている活気あふれる町の印象が強い。
 船場は北は土佐堀川から南は長堀川(現・長堀通)、東は東横堀川(現・阪神高速南行線)から西は西横堀川(現・阪神高速北行線)まで南北約2km、東西約1kmの地域を言う。
昔は本町通を境に北組、南組に分かれていたが、今は大阪証券取引所、証券会社、銀行、各業種の会社、製薬会社などの集まる北船場、繊維品を扱う店が中心の中船場、若者をターゲットにした店が多い南船場に区分されて呼ばれている。今回はこの船場にスポットを当て、船場の歴史を探ってみた。


 
商いの町  放送 5月14日(月)
船場センタービル 豊臣秀吉が大坂城を築き、大勢の家臣団が集まり、武士たちの武器、武具、それに食料、生活用品が大量に必要になり、城下町の整備が急務となった。そこで秀吉は大阪城の西側を開発し、堺や京都・伏見から商工業者を強制的に大阪城下町へ移住させたのが商人の町・船場の始まり。
 船場の地名は大阪城の馬を洗う「洗馬」、海岸の波が打ち寄せていた「千波」「仙波」、この地がよく戦いの地になったことから「戦場」、諸国から物資を運んでくる船が着く「船場」などの諸説があるが、素直に船が着く「船場」を取るのが自然のようだ。
 江戸時代には徳川幕府が大阪城の城下町を発展させるため、税の免除、楽市楽座の設置、関所の廃止などの優遇策を取った。この方針に沿って両替商や諸国の産物を扱う商人、漢方薬を扱う薬種問屋などの店が次々に開店した。米を始め諸国の産物はほとんど大阪に集まり、天下の台所を取り仕切る経済の中心地へと発展していった。
(写真は 船場センタービル)

大阪舶来マート 第二次大戦後は繊維卸売業者が集中していた丼池繊維問屋街が活況を呈し、その商いは近畿地方はもとより西日本全域におよんでいた。その丼池筋の真ん中の地下鉄本町駅から堺筋本町駅にかけて東西にのびた「船場センタービル」が昭和45年(1970)に完成した。
地下2階、地上4階、延長930m、1号館から10号館までのビルには、約1000軒の卸店、ショッピング店、飲食店、事務所などが入り、船場の新しい顔になった。
 住宅と自動車以外なら何でもそろうと言われるセンタービルには、一般の人でも買い物ができる店もあり、市価より安い品を求める客で平日でもにぎわっている。1〜3号館地下1階には、舶来品の卸専門店が集まっている大阪舶来マートがある。世界各国の高級品や珍しい商品が華やかなショーウインドウに並べられている。一般客にも販売する店もあり、一ヵ所で世界各国の日用品やブランド品が手に入る。
(写真は 大阪舶来マート)


 
薬の道修町  放送 5月15日(火)
江戸時代に使われた唐薬種(くすりの道修町資料館) 北船場の道修町は製薬会社、薬品、薬種問屋が軒を連ねる日本一の“くすりの町”。江戸時代初めの寛永12年(1635)に堺の豪商・小西吉右衛門が道修町に薬種問屋を開いたのがくすりの町の始まりとされている。その後、中国から輸入される唐薬種(とうやくしゅ)を商う商人が道修町へ集まるようになり、くすりの町を形成していった。現在のようにくすりの町として知られるようになったのは八代将軍徳川吉宗時代以降で、このころから道修町の薬種業組織がすべての薬を検査して、適正な値段をつけて全国へ独占的に供給するようになった。
 江戸時代の薬は植物や動物、鉱物から薬として効能があるものを調製して用いた。薬の原料は中国から輸入される唐薬種と日本でとれる和薬種だった。明治に入って西洋医学が採り入れられ、薬も西洋薬に代わってきた。明治の終わりごろから道修町の薬種問屋が簡単な西洋薬の製造を始めるようになり、戦後になってから日本の製薬技術が飛躍的に向上し、世界に通用する新薬を開発するまでになった。
(写真は 江戸時代に使われた唐薬種(くすりの道修町資料館))

少彦名神社 道修町の東寄りにある少彦名(すくなひこな)神社は、日本の薬祖神・少彦名命(すくなひこなのみこと)と中国の薬祖神・神農氏を合わせて祭り、「神農さん」と呼ばれている神社。江戸時代の薬種問屋は中国から唐薬種を輸入して商売をしていたので、神農氏の像や掛け軸を床の間などに祭っていた。江戸時代中期の安永9年(1780)に京都・五条天神宮から少彦名命の分霊を勧請(かんじょう)し、神農氏と合わせて祭るようになった。
 毎年11月22、23日の例祭は「神農祭」と呼ばれ親しまれている。この神農祭のシンボルとして有名なのが「張り子の虎」。五葉笹につけられた張り子の虎を無病息災のお守りとして参拝者が買い求める。文政5年(1822)にコレラが大流行し、3日で死亡するので“3日コロリ”と言われ、大勢の死者が出て恐れられた。この時、虎の頭骨など10種類の和漢薬を配合した「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきうおうえん)」と言う丸薬が発売された。この丸薬にちなんで神前で祈願された張り子の虎がお守りとして授与されるようになった。
少彦名神社のすぐそばに「くすりの道修町資料館」がある。「ここにくれば道修町がわかる」と言われる所で、道修町に伝わっている薬に関する文書や道修町の発展の記録や道修町今昔など、薬に関する貴重な資料が展示されている。
(写真は 少彦名神社)


 
旧小西家住宅  放送 5月16日(水)
旧小西家住宅(重文) 第2次世界大戦の空襲で、木造の商店が並ぶ昔ながらの船場の町並みは姿を消し、今は近代的なビル街に変身してしまった。そんな現代の船場の中で往時のたたずまいをそのまま残しているのが旧小西家住宅で、昔の船場の雰囲気がしのばれる。この建物は明治7年(1874)創業の薬種商・小西儀助商店(現・コニシ株式会社)の旧店舗と居住棟、土蔵で、明治36年(1903)の建築で、2001年4月、国の重要文化財に指定された。
 戦争中の3回の空襲の被害を奇跡的にまぬがれて焼け残り、そのたたずまいを現代に伝えることができた。かつての船場の大店の風情を再現しなければならない「細雪」や「春琴抄」などの映画美術の資料にされるほどの貴重な存在となっている。
(写真は 旧小西家住宅(重文))

子供達の部屋 建築当時は道修町通に面した約1000平方m(約300坪)の土地に、店舗と居住部からなる主家と衣装蔵、2階蔵、3階蔵が建っていた。その後、敷地の一部が道路拡張で狭くなったり、関東大震災を教訓にして主家の3階部分を撤去するなどの改造が加えられたが、ほとんどが当時のままの姿で残っている。
 建築に3年を費やし、建築材も良材、銘木を使い、華美になるのを避けながらも各部屋や茶室などには凝った意匠や工夫の跡が見られる。居住部の台所の土間には、家族、従業員ら約50人の食事を賄った大きなかまどがある。新社屋へ引っ越す前は、座敷にジュウタンを敷き、机の上にはコンピューターが並ぶと言う事務所風景が見られ、今も関連会社が事務所として使っている。一般公開はしていない。
(写真は 子供達の部屋)


 
高麗橋  放送 5月17日(木)
高麗橋 東横堀川に架かっていた高麗橋は、江戸の日本橋、京都の三条大橋と並んで天下の三名橋とも言われていた。また、東海道五十三次の事実上の大阪の出発点でもあり、西日本の街道の起点にもなっていた。高麗橋の名称の由来は、昔、朝鮮からの使節を迎える迎賓館のような建物「高麗館(こまのむろつみ)」が橋の近くにあり、その建物に由来するとか、豊臣秀吉の時代にこの橋の周辺で高麗との貿易が盛んになり、商人らが集まっていたので高麗橋と呼ばれるようになったとも言われているが、いずれが定説かは定かでない。
 高麗橋は大阪城と船場を結ぶ最も重要な橋で、江戸時代には橋の西詰に役人が橋を渡る人を監視する櫓(やぐら)屋敷があった。また、家蔵屋敷の近くには高札場があり、幕府からの知らせが掲示されていた。
(写真は 高麗橋)

御城の口餅 高麗橋は明治3年(1870)木の橋から日本で2番目の鉄の橋に架け替えられた。
現在の貨幣価値に換算すると約10億円の費用がかかったと言われている。このような大金を出して架け替えられた高麗橋は「鉄橋(てつばし)」とか「くろがね橋」とか呼ばれ、60年間にわたって大阪の代表的な橋として利用されてきた。昭和4年(1929)現在の鉄筋コンクリート製の橋になり、今は高麗橋の上に阪神高速道路が走り、往時の橋の面影はなくなってしまった。
 高麗橋に通じる東西の高麗橋通には当時、三井越後屋をはじめ有名な呉服屋、両替屋などの大店が並んでいた。
越後屋は三越百貨店になり、高麗橋の周辺の北船場は、大坂証券取引所や銀行、証券会社などのビルが建ち並ぶ大阪のビジネス街の中心地となっている。
 高麗橋近くに天正年間(1573〜92)創業の和菓子の老舗・菊屋の店がある。豊臣秀吉の弟の秀長が城主だった大和郡山城の入り口に店があったことから、菊屋自慢のうぐいす餅を「城の入り口の餅」と呼び、それが「城の口餅」に変わり「御城の口餅」の商品名となった。
(写真は 御城の口餅)


 
大阪の味  放送 5月18日(金)
西船場の界隈 江戸時代に船場の西方一帯の海を埋め立てた造成地が、今は西船場と呼ばれている。
西船場に当時、雑喉場(ざこば) と呼ばれた生鮮魚介類の市場があり、活況を呈していた。
大阪湾や瀬戸内海でとれる海の幸がこの雑喉場に水揚げされ、食卓にのぼっていた。昭和6年(1931)中央卸売市場が開設されるまで、雑喉場は大阪の台所を賄っていた。今、大阪・西区江之子島1丁目に雑喉場魚市場跡と書かれた石碑が建っているだけで、往時の魚市場の面影は残っていない。
(写真は 西船場の界隈)

塩昆布(神宗) 雑喉場に活気があふれていたころ、雑喉場の百間堀川に架かっていた雑喉場橋橋柱が、大阪・中央区久太郎町の塩昆布の老舗・神宗(かんそう)の店先に立っている。神宗は雑喉場で天明元年(1781)に創業した海産物問屋で、雑喉場が姿を消した後、雑喉場商人の心意気を伝えるため橋柱を現在の店の前に移し、橋柱の上にガス灯を復元した。
 神宗は海産物問屋から塩昆布、佃煮、カツオでんぶなどを製造、販売するようになり、大阪の伝統の味を守り続けている老舗だ。塩昆布などの商品は本店と支店の2店と大阪と京都の高島屋、大阪・梅田の阪急、阪神の百貨店でしか販売していない。「東京でも販売して欲しい」との要望も強いが、原材料の天然真昆布の収穫量に限度があるほか、量産すれば味と品質が落ちると大量生産をしないのが神宗の創業以来の方針だそうだ。
(写真は 塩昆布(神宗))


◇あ    し◇
船場センタービル地下鉄御堂筋線本町駅、
堺筋線堺筋本町駅 下車。 
少彦名神社
くすりの道修町資料館
地下鉄堺筋線北浜駅、
京阪北浜駅 下車徒歩3分。 
コニシ株式会社
(旧小西儀助商店)
地下鉄堺筋線北浜駅、
京阪北浜駅 下車徒歩3分。 
高麗橋・和菓子の菊屋地下鉄堺筋線北浜駅、
京阪北浜駅 下車徒歩3分。 
雑喉場市場跡地下鉄中央線、千日前線
阿波座駅 下車。 
昆布・佃煮の神宗地下鉄堺筋線、中央線
堺筋本町駅 下車徒歩3分。 
◇問い合わせ先◇
船場センタービル
(大阪市開発公社)
06−6281−4546 
大阪舶来マート06−6271−8680 
少彦名神社
くすりの道修町資料館
06−6231−6958 
コニシ株式会社
(旧小西儀助商店)
06−6228−2877 
和菓子の菊屋06−6231−2001 
昆布・佃煮の神宗06−6261−2308 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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