月〜金曜日 18時54分〜19時00分


吹田市 

 江戸時代に京都、大阪、北摂を経て西国を結ぶ水陸の交通の要衝として発展した吹田市。北部の丘陵地帯には日本万国博会場跡地の万博記念公園や千里ニュータウンなどのマンモス団地が広がっている。南部の神崎川流域には江戸時代の面影をしのぶ古い民家の町並みや「吹田の渡し」跡が残っている。こうした新旧の文化を抱く吹田市を訪ねた。


 
旧仙洞御料庄屋屋敷  放送 5月26日(月)
 吹田の市街地に広大な屋敷を構える西尾家は、代々仙洞御料の庄屋を務めてきた旧家。仙洞御料とは天皇を譲位した上皇の所領地のことで、ここから皇室や伊勢神宮の新嘗祭(にいなめさい)などに、米や野菜のお供え物の神饌(しんせん)を献上してきた。西尾家はその仙洞御料を管理する庄屋だった。
 大正8年(1919)西尾家の水田が、この年の新嘗祭に献上する米を栽培する田に指定された。秋には収穫した米を主屋の計り部屋で量、品質などを検査した上で、新嘗祭まで隣接の献上蔵に格納した。当時、仙洞御料は消滅していたが、西尾家の田が指定されたのは、全国でも仙洞御料としては最大級の石高を誇る仙洞御料の庄屋を務めた歴史、伝統、格式によるものだった。

旧仙洞御料庄屋屋敷

(写真は 旧仙洞御料庄屋屋敷)

計り部屋

 仙洞御料があったころの献上品は、菊の紋がついた献上駕籠(けんじょうかご)に乗せ、駕籠の上に「仙洞御料御用」の木札をつけ行列を組んで進んだ。この行列に対しては、高禄の大名行列も道を譲ったと言う。この献納の行事は明治元年(1868)まで続いた。
 武家だった西尾家は、江戸時代初めに農家に転身、旧吹田村都呂須に住み仙洞御料の庄屋を務めた。現在の建物の主屋は、約400年前の江戸時代初めに建てられた旧宅を、約100年前の明治28年(1895)ごろに建て替えたものである。

(写真は 計り部屋)

 江戸時代の主屋の古図面と比べると基本的な間取りは引き継がれ、献納米を検査する計り部屋やこの米を保管する献上蔵も建てられた。江戸時代の仙洞御料庄屋を務めたころの建物を踏襲しており、当時の仙洞御料庄屋の格式を現在に伝えている。
 堂々たる重量感、重厚な建物の中には、接客空間を重視した70畳もの座敷がある。
この大広間は当時、いろいろな文化活動の場として提供され、この地方の文化の発展に貢献した。各室の照明器具、欄間など、細部の意匠にこだわり、江戸時代から継承された伝統と格式が随所にうかがわれる。

鞘の間の水屋袋戸棚

(写真は 鞘の間の水屋袋戸棚)


 
西尾邸・その粋と美  放送 5月27日(火)
 西尾邸は1400坪・4600平方mの屋敷の中に壮大な主屋、離れ、庭園、茶室、蔵が建っている。現在の主屋などの建物を明治28年(1895)ごろ建て替えた11代目当主・西尾歟右衛門は、書、漢学、詩の道に秀で、茶道・薮内流の奥義を極めた文化人であり、風流人であった。
 この11代当主の趣向が建物や庭など、いたる所に表れている。欄間(らんま)や長押(なげし)につけられた水仙の釘隠しは桂離宮と同じデザイン。他の釘隠しも家紋の桔梗や柏の葉をデザインしたものを使うなど、釘隠しひとつにも凝っている。茶室付きの広間、暖炉付きの部屋などいたる所に最新で斬新なアイデアが盛り込まれている。

離れ応接室

(写真は 離れ応接室)

積翠庵

 大正15年(1926)に当主・歟右衛門の隠居所として建てられた離れは、関西の近代建築界の第一人者だった武田五一の設計になる。和風の居室棟と洋室棟を渡り廊下でつなぎ、外観は主屋や茶室と調和させた和風のデザインにし、内部は洋室の様式を採用している。
 洋室棟にはビリヤード室とサンルーム付きの応接室があり、そのモダンさは昭和時代初めのサロンの華やかさをしのばせる。応接室の出窓やサンルームを隔てる間仕切りの欄間には花鳥をあしらったアールヌーボー風の質の高いデザインのステンドグラスが用いられている。

(写真は 積翠庵)

 武田五一は関西建築界の父と言われ、和洋折衷の技法を取り入れた建築家。その典型が西尾邸にある応接室に付属した数寄屋風のサンルームで、茶室の気分を取り入れた和洋折衷のデザインをここで試みている。
 庭内にある茶室「積翠庵」は、薮内流の皆伝を授かった者にのみ建てることが許される造りとなっている。この茶室は薮内流10代家元・休々斎の指導で造られ、大工も京都・薮内流出入りの者だった。また、庭も休々斎と薮内流9代家元の次男の合作によると言われ、庭のあちこちに茶人の趣向らしいデザインが見られる。このように風流な庭や茶室を備え、豪壮な主屋を今日に伝える西尾邸が地元住民らの保存運動の結果、2003年度国から吹田市に有償で貸与されることになった。
 吹田市では防火設備を整備したうえで、一般公開を検討しているという。

庭園・露地

(写真は 庭園・露地)


 
万博公園  放送 5月28日(水)
 昭和45年(1970)3月14日から半年間、世界77カ国が参加して千里丘陵で開かれた日本万国博覧会、いわゆる「万博」は日本中の大きな関心を集めた。
期間中に6421万人、最も多い日には83万5000人が見物に訪れると言う加熱ぶりだった。
 その万博のシンボルで高さ65mの「太陽の塔」がそびえる跡地は、総面積264万平方m、甲子園球場の65倍の広さの万国博記念公園となっている。文化、スポーツ、レジャー施設が整い、自然と人工美のバランスがとれた緑豊かな大公園で、大坂モノレールの開通で交通の便もよくなり、都心から近いとあって多くの人たちに親しまれている。

太陽の塔

(写真は 太陽の塔)

日本庭園

 日本万博が開催されてからすでに33年が過ぎたが、この万博を見学した人たちの記憶はまだ鮮明だ。戦後の日本で東京オリンピックに続く国際的なイベントとして、国民の関心は最高潮に達していた。
 全部で116館あったパビリオンの中でも人気のパビリオンには連日、長い行列が続いた。最も人気を集めたのがアメリカ館の「月の石」で、連日3〜4時間並ばなければ入館できなかった。それでも「月の石を一目見なければ万博に来た意味がない」と、夏の炎天下でも辛抱強く待つ人が絶えなかった。
 アメリカととも日本万博に力を入れていたのが旧ソ連。アメリカに対抗して宇宙ロケットなど宇宙開発関係の展示に重点を置き人気を集めていた。

(写真は 日本庭園)

 万博公園の中で太陽の塔がそびえるのが自然文化園。ほかに国立国際美術館、国立民族学博物館、日本民芸館、大坂府立国際児童文学館、日本庭園があり、一日では回りきれないほどの施設がそろっている。
 水の「流れ」をテーマにした日本庭園は国内最大。東西に細長い庭園を水の流れに沿って4つに分け、西側の上流から上代、中世、近世、現代の庭園を表現しており、日本の庭園史をここで見ることができる。
 自然文化園は四季を通じてさまざまな花が咲き乱れ、野鳥のさえずりが聞こえる。
開園当初は予想もしなかった生物が住みつき、新たな生態系を築きつつある。国立美術館は現代美術をさまざまな角度から取り上げ紹介している。美術館前には「平和のバラ園」が広がり、訪れる人たちをやさしく迎えている。

平和のバラ園

(写真は 平和のバラ園)


 
国立民族学博物館  放送 5月29日(木)
 日本万国博覧会、いわゆる万博は日本中の人たちをわかせたイベントだった。その万博会場跡地の万博公園内に昭和49年(1974)国立民族学博物館が創設された。
 地球上の約60億人の人間は、それぞれ民族ごとに先祖からの知恵を生かし、その土地ならではの文化を作りあげている。この博物館はこうした世界各地の文化を学び、お互いの理解を深めて行く民族学の調査・研究を進め、世界の諸民族の社会と文化に関する最新の情報と知識を提供するための施設である。民俗学に関する資料の収集、調査、研究とその成果の展示を一体的に行う研究博物館である。

アメリカ地域

(写真は アメリカ地域)

ヨーロッパ地域

 ここには世界中の民族の生活用具や習俗、芸能、楽器、信仰にまつわる像や用具、民族衣装などのおびただしい数の展示物、図書、映像、音響資料がそろえられている。
大人も子供も未知の世界へ目を開かされ、興味を持って豊富な知識を得ることができる。
 常設展示はオセアニア、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジア、南アジア、東南アジア、中央・北アジア、東アジアと世界を大きな地域にわけて展示している。
展示物からそれぞれの地域の人たちの生活がうかがわれ、その土地で発達した道具、色彩豊かな民族衣装を作り出した感性、強い信仰心に支えられた生活を知ることができる。

(写真は ヨーロッパ地域)

 物の展示とは違った感覚で知識が得られるのが映像。この博物館が開発したビデオテークは、自分で見たいプログラムを選び映像を通じて学習することができる。映像の広場に置かれたマルチビジョンの大画面でもいろいろな映像から知識が学び取れる。
 「物の広場」では、展示物を直接手に取り、手に触れてその感触を得ることができる。またその展示物を近くの表示装置(Dr.みんぱく)まで持って行くと、その呼び名や使い方、作った人たちの情報が画面に表れる。本を持って行けば現地語で読んでくれ、意味も教えてくれる。「みんぱく電子ガイド」を使って展示品を見学すると、約300種の展示物を音声と映像で解説してくれ、理解をいっそう深めることができる。

南アジア地域

(写真は 南アジア地域)


 
旧吹田の町並み  放送 5月30日(金)
 吹田は古く難波宮と京、北摂から西国をつなぐ街道が通り、神崎川を往く舟運の中継地として発展してきた。「吹田の渡し」跡近くの高浜地域には、古い民家の町並みが残り、当時をしのぶことができる。
 吹田の渡しは現在の上高浜橋付近にあった。江戸時代後期に出版された「摂津名所図会」にも、吹田の渡しが挿し絵入りで紹介されており、知名度の高い渡しであった。
江戸時代初期の渡し舟は1艘だったが、幕末には5艘になっていた。1艘の舟には30人、牛馬なら5頭を乗せることができた。明治9年(1876)に上高浜橋が架けられ、その役目を終えた。

吹田の渡し跡

(写真は 吹田の渡し跡)

摂津名所図会

 古い町並みの残る高浜町で庄屋を務めた豪農の屋敷が、吹田市に寄贈された。吹田市は歴史的、文化的価値の高い建物や町並み、景観の保存と活用を図る方針を打ち出し、寄贈された古い民家の活用を検討した。
 その結果、民家を改修、復元して「吹田歴史文化まちづくりセンター」とし、文化活動の拠点にすることにし、2003年6月1日にオープンする。改修にあたっては広く市民の意見を聞くため、地域の団体や歴史文化活動団体、商業団体などが参加する研究会や委員会を開いて検討された。

(写真は 摂津名所図会)

 寄贈された建物は主屋、蔵、だんじり庫からなっている。平屋建ての主屋東棟は座敷、土間などを昔のままに復元し、見学者が近世から近代までの暮らしを体感できるようにした。3つの和室は貸し室として市民らが利用できる。
 蔵は吹田の発展資料を展示する展示室、防音設備のある部屋は音楽演奏の場としたり、市民ギャラリーとしての空間となる。だんじり庫は地域の文化財でもあるだんじりを展示する。主屋西棟は事務所として使い、歴史文化のまちづくりにかかわる市民団体の活動の場としても活用もできる。

吹田歴史文化まちづくりセンター

(写真は 吹田歴史文化まちづくりセンター)


◇あ    し◇
旧仙洞御料庄屋屋敷西尾邸JR東海道線吹田駅、阪急電鉄千里線吹田駅下車
徒歩10分。
万博公園、日本庭園、国立民族学博物館大坂モノレール万博記念公園駅下車。
吹田歴史文化まちづくりセンターJR東海道線吹田駅、阪急電鉄千里線吹田駅下車
徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
吹田市役所文化のまちづくり室06−6384−1231 
旧庄屋屋敷保存活用会(西尾邸)06−6381−0001 
日本万国博覧会記念協会06−6877−3331 
国立民族学博物館06−6876−2151 
吹田歴史文化まちづくりセンター06−4860−9731 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会