月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・金閣寺(鹿苑寺) 

 日本を代表する寺院の一つが金閣寺。多くを語らなくとも日本国内はもとより、外国の観光客らにもよく知られている寺院。今週は京都の社寺巡りでは必ず組み込まれる必須の寺院である金閣寺を紹介する。


 
鹿苑寺 放送 6月2日(月)
 京都・北山の金閣寺は臨済宗相国寺派の禅寺。正式の名称は北山(ほくざん)鹿苑寺(ろくおんじ)と言うが、仏舎利をまつっている金閣があまりにも有名なため、金閣寺と呼ばれている。金閣寺のある衣笠山一帯が北山(きたやま)と呼ばれていたので、それを山号にした。
 鹿苑寺の寺域は、元は鎌倉時代の1220年ごろ、鎌倉幕府との強いつながりで権勢を誇っていた、西園寺公経の北山第と呼ぶ豪壮な山荘と氏寺があった所。西園寺の死後、次第に荒廃していたが、ここを室町幕府3代将軍だった足利義満が山荘を築いたのが始まりである。

船形石(一文字蹲踞)

(写真は 船形石(一文字蹲踞))

足利義満像

 義満は室町幕府に敵対する守護らを抑え、宿願の南北朝統一を果たし、祖父・尊氏以来の幕府の基礎を確立した。これを見定めた応永元年(1394)、37歳の若さで室町幕府3代将軍職を退き、元服したばかりのわずか9歳の義持に譲った。翌年、出家した足利義満が西園寺公経の山荘跡を譲り受け、金閣を中心とする山荘を応永4年(1397)に造営した。
 中国・明との国交を開いた義満は、この山荘に移り住んで北山殿と称された。明の使節をこの北山殿で迎えたり、後小松天皇を招いて20日間も連歌や舟遊び、白拍子舞などに興じる宴を連日催した。

(写真は 足利義満像)

 義満はこのように北山殿で和歌、管弦、猿楽などに興じ、北山文化と呼ばれる文化の花を開かせた。また中国との貿易で手に入れた書画、銅器、陶磁器などには、現在国宝、重要文化財に指定されている逸品が多く、北山殿は美術の名品の宝庫となった。
 義満は応永15年(1408)に51歳の若さで病没した。遺言により子の義持が山荘を夢窓国師を開祖として禅寺に改め、寺号を義満の法号「鹿苑院殿」から鹿苑寺とし、義満の菩提所とした。義満が住んでいたころの建物の大部分は等持院、建仁寺、南禅寺などへ移築され、残ったのは金閣の舎利殿とわずかな建物だけで、後に方丈や仏殿を建て寺院としての体裁を整えた。

金閣

(写真は 金閣)


 
方丈  放送 6月3日(火)
 金閣寺を訪れた拝観者の誰もが鏡湖池(きょうこち)と、その向こうの金閣の美しさに目を奪われ、記念撮影に夢中になる。ちょうどその背後にあって見過ごされがちな建物が鹿苑寺(ろくおんじ)の本堂である方丈。
 「鹿苑寺」の額がかかる方丈は江戸時代に再建された建物で、その室内のふすま絵は狩野派一門の筆になるもので、見ごたえのあるものばかりである。

方丈(本堂)

(写真は 方丈(本堂))

本尊聖観世音菩薩

 そのふすま絵に囲まれた仏間には本尊の聖観音菩薩像がが安置されている。また、方丈前にある庭園は周囲の建物と調和した美しさがある。
 この方丈庭園は江戸時代初期の作庭と見られ、後水尾天皇お手植えと言われるワビスケ椿がある。この方丈庭園越しに眺める金閣の姿はまた格別の美しさがあり、一見に値すると言われている。

(写真は 本尊聖観世音菩薩)

 方丈北側の庭園にある枝ぶりが帆掛け舟の形になっている「陸舟(りくしゅう)の松」は、足利義満の手植えとも言われ金閣寺名物のひとつで、京都三松のひとつに数えられている。この松は義満の盆栽から移植され、帆掛け舟の形に仕立てられたもので、その舳先が西の方向を向いているのはこの舟で西方浄土に向かうことを願ったものだと言われている。

陸舟の松

(写真は 陸舟の松)


 
舎利殿・金閣  放送 6月4日(水)
 足利義満が応永4年(1397)から造営を始めた山荘・北山殿で最も趣向を凝らしたのが、仏舎利をまつる舎利殿・金閣。極楽浄土の世界をこの世に再現しようとしたと言われている。昭和25年(1950)放火によってこの金閣は焼失、日本国内はもとより世界各国の人びとを驚かせ嘆かせた。昭和30年(1955)に復元され、再び燦然と輝く金閣の姿がよみがえった。その後、たびたびの修復を経て現在に至っている。
 金閣は東山の銀閣とともに庭園建築を代表するもので、修学旅行の児童、生徒から内外の観光客らが、京都を訪れれば必ず拝観する日本を代表する建築物となっている。

法水院

(写真は 法水院)

潮音洞

 金閣は高さ12.5mで第一層は白木、二層、三層が内外ともに黒い漆の上から純金が箔押されており、燦然たる輝きは拝観者の目を見張らせている。一層は平安時代の寝殿造で法水院と呼ばれ、義満像などが安置されている。二層は鎌倉時代の武家造で潮音洞(ちょうおんどう)と呼び、岩屋観音像と四天王像がまつられている。三層は禅宗仏殿風で究竟頂(くつきょうちょう)と呼ばれている。「究竟頂」の扁額は後小松天皇筆によるものとされているが、現在掲げられているものは昭和30年の復元時の写しで、創建当初のものは別に保存されている。
 屋根はサワラの薄い板を何枚も重ねた 葺(こけらぶき)で、屋根の最上部には金銅製の鳳凰が飾られている。この鳳凰は昭和30年の再建時のもの。創建時の鳳凰は明治時代の修理の際、老朽化して再び屋根には上げられないと寺に保存されていたので焼失をまぬがれた。

(写真は 潮音洞)

 金閣の北側には義満が金閣とともに趣向を凝らした天鏡閣あった。この天鏡閣2階と金閣2階を結ぶ橋が架けられていた珍しい写真が残っている。
 昭和の再建後の金閣にも傷みが目立ち始めたため、昭和62年(1987)に漆の塗り替え、金箔を5倍の厚さに張り替えるなどの大修理が行われた。さらにこの時、天井画と義満像の復元が行われ、再び光り輝く金閣の姿を人びとの前に現した。
 三層からは前に広がる鏡湖池(きょうこち)や池の中に浮かぶ大小の島々、点在する奇岩や名石の石組みが望める。また夕日に輝く金閣は西方浄土を思わせるような眺めである。

究意頂

(写真は 究意頂)


 
大書院  放送 6月5日(木)
 金閣寺方丈北側に建つ大書院(おおじょいん)の障壁画は普段は公開されておらず、その存在はあまり知られていない。その障壁画はもともとは独自の画風で知られる江戸時代中期の大画家・伊藤若冲の作品であった。「月夜の芭蕉図」「葡萄図」「鶏図」「松に鶴図」など、独創的な障壁画が200年以上にわたって大書院を飾っていた。
 国の重要文化財に指定されている貴重な文化財の障壁画を北山特有の湿気による傷みから守るため、昭和59年(1984)金閣寺の本山である相国寺の承天閣美術館に移された。

三之間

(写真は 三之間)

四之間

 若冲の障壁画が承天閣美術館へ移された後の大書院のふすまは真っ白だった。このふすまに若冲の障壁画を複製することや、模写をするなどの手法が検討された。しかし複製にはかなりの費用が必要、模写はとても若冲の筆致を模することはできないとのことで、この複製、模写案はいずれも断念された。
 そこで現代日本画家の重鎮・加藤東一画伯に「新たな水墨画を描いて欲しい」と依頼した。「若冲の絵に代わるものはとても…」と初めは躊躇していた加藤画伯も、ようやく決断してこの大仕事に挑んだ。加藤画伯はここに「表面的な表現でなく、その奥にある永遠のいのちを描きたい」と制作に取り組んだという。

(写真は 四之間)

 加藤画伯の故郷・岐阜の「淡墨(うすずみ)桜図」をはじめ「大杉図」「日輪」「月輪図」「鵜之図」「臥竜梅図」「千鳥図」「若竹図」など、動植物や大宇宙に永遠の生命を描いた力作が平成5年(1993)に完成した。加藤画伯の年来のテーマであった古木の淡墨桜を目にした人は「思わず息を飲む」と言うほどの大作で、この絵に吹き込まれた「いのち」を感じるそうだ。
 相国寺承天閣美術館に金閣寺大書院から移された若冲の障壁画のうち「月夜の芭蕉図」と「葡萄図」は常時公開されており鑑賞できる。ほかの作品は特別展の時などに公開されるのを待つ以外に鑑賞することはできない。

玉座之間

(写真は 玉座之間)


 
庭園逍遥  放送 6月6日(金)
 鹿苑寺庭園内の金閣の北側にある義満がお茶の水に使ったと伝わる「銀河泉(ぎんがせん)」からは、今も清水が湧き出ている。その横には義満が手を洗うのに用いたと言う「厳下水(がんかすい)」があって、室町時代のころから茶の湯が盛んになったことを物語っている。
 そこから石段を登り、小高い丘の上に出ると数寄屋造の茶席「夕佳亭(せっかてい)」が見られる。寛永年間(1624〜44)に建てられた茶室は焼失、現在のものは明治7年(1874)の再建。夕日に映える金閣の眺めが素晴らしいところからこの名がある。

金閣寺垣

(写真は 金閣寺垣)

龍門の滝

 夕佳亭をさらに有名にしたのが、茶室の真ん中にある金閣寺名物の「南天床柱」とその右の「萩の違棚」、違棚中央の古木の「鶯宿梅(おうしゅくばい)」である。
後水尾法皇を迎えるために作られたと言う茶室で、一段高い2畳大の室が法皇を迎えた時の御座所である。
 夕佳亭は3畳の茶室、奥に勝手、前に土間を取った草庵風で屋根は茅ぶきである。
土間にはかまどがあり、天井は竹とアシで作られている。茶室前の「富士型」と呼ばれ手水鉢や石灯籠は銀閣寺を建てた室町幕府8代将軍足利義政が愛用したものと伝えられている。

(写真は 龍門の滝)

 鹿苑寺庭園は境内約13万2000平方m(約4万坪)のうち9万2400平方m(約2万8000坪)を占め、国の特別史跡、特別名勝地に指定されている。庭園の中心は金閣を水面に映す鏡湖池(きょうこち)である。池の中には葦原島をはじめ鶴島、亀島など大小の島々、大名が競って寄進した奇岩、名石を配した畠山石、赤松石、丸山八海石などがある。
 金閣の北の安民沢(あんみんたく)は日照りが続いても枯れない池と言われている。雨ごいの場としても知られおり、池の中央に白蛇塚がある。鹿苑寺境内にはほかに方丈庭園、書院庭園があり、これらを一体にした庭園の雄大さ、その景観の美しさは筆舌につくしがたい。

夕佳亭

(写真は 夕佳亭)


◇あ    し◇
金閣寺京都市バス金閣寺道又は金閣寺前下車。  
承天閣美術館地下鉄烏丸線今出川駅下車徒歩5分。 
京阪出町柳駅下車徒歩15分。
京都市バス同志社前下車。
◇問い合わせ先◇
金閣寺075−461−0013 
承天閣美術館075−241−0423 

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