月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・吉野町 

 吉野山の桜で有名な吉野町は古い歴史を誇り、名所、旧跡のほか歌人たちにも愛された豊かな自然に恵まれている。修験道の根本道場・金峰山寺(きんぷせんじ)蔵王堂へ参詣する修験者の里でもあり、南北朝時代には南朝の皇居が置かれた。こうした歴史に彩られた吉野町を訪ねた。


 
蔵王堂  放送 6月10日(月)
 吉野山のシンボル、金峯山寺(きんぷせんじ)の本堂が蔵王堂(国宝)。飛鳥時代の天武天皇のころ修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたと伝えられる金峯山修験本宗の総本山。蔵王堂は創建以来、何度も火災で焼失し、現在の建物は天正16年(1588)に再建されたもので、入母屋造の檜皮ぶき高さ34m、36m四方の建物。木造建築としては東大寺の大仏殿につぐ大きさと言われている。堂内には大小68本の自然木を使った柱があり、中でもツツジの巨木の柱が目を引く。蔵王堂は元は大峰山系・山上ヶ岳にあったが、参詣が困難なため天平年間(729〜49)、大仏造営に協力した奈良時代の僧・行基が吉野山に金剛蔵王権現像をまつったのが吉野蔵王堂の始まり。
 蔵王堂は創建以来、多くの人びとの信仰を集め、上皇、法皇、貴族らの参詣があとを絶たなかった。平安時代から鎌倉時代にかけて隆盛を極め、吉野衆と呼ばれ多くの僧徒を擁し強大な勢力を持っていた。この僧徒の力を頼って源義経が吉野の地に逃れた。また後醍醐天皇が建武3年(1336)吉野に潜幸してから始まった4代57年間の南朝もこの吉野衆徒の力に支えられた。

蔵王堂(国宝)内部

(写真は 蔵王堂(国宝)内部)

金峯山寺仁王門(国宝)

 蔵王堂内にはわが国で最大と言われる厨子の中央に高さ7.3m、右に6.1m、左に5.9mの巨大な3体の金剛蔵王権現像(国・重文)が安置されている。役行者が修行中に感得したと言われる金剛蔵王権現像は、過去、現在、未来の救済を象徴している。右手に三鈷(さんこ)を握って肩をいからせ、左手に刀印を結び、頭髪は逆立ソ、目は怒りに燃え全身で悪魔降伏の姿を現している。
 吉野山を登っていくと金峯山寺の総門の黒門、さらに銅(かね)の鳥居(国・重文)を過ぎると急な石段の上に高さ20mの仁王門(国宝)がそびえている。仁王門も兵火で焼失、現在の門は康正2年(1456)に再建されたもので、室町時代の二重門の代表的建築とされている。門の両脇の仁王像は延元3年(1338)から翌年にかけて造立された。
 吉野山に夏を告げる祭と言われる蓮華会が毎年7月7日に行われ、珍しい蛙飛び行事がある。また子供の蛙みこしが山内を練り歩き、この日の山内は蛙一色になる。

(写真は 金峯山寺仁王門(国宝))


 
吉野水分神社  放送 6月11日(火)
 吉野山・上千本の奥、子守の里に水を司る天之水分(あめのみくまり)大神を主神とする吉野水分(よしのみくまり)神社がある。丹塗りの楼門をくぐり境内に入ると右に本殿、左に拝殿、奥に幣殿、そしてうしろの楼門に囲まれた中庭の空間がある。周囲の緑深い吉野山の自然と桧皮ぶきの風格ある古い社殿がマッチして、荘厳な神域の雰囲気を漂わせている。
 「水分(みくまり)」が御子守(みこもり)となまって、俗に子守さんと呼び親しまれ、子宝の神として信仰されている。すでに平安時代には子守明神として都にも聞こえており、枕草子などにその名が出てくる。また、いつのころからか農耕を司る神とされ、4月3日に牛と農夫に扮したふたりのユーモラスな仕草の御田植神事が行われる。

柴燈台(さいとうだい)

(写真は 柴燈台(さいとうだい))

芋の葉唐草燈籠

 吉野水分神社の創建の時期ははっきりしないが、延喜式にも記された格式の高い古社である。現在の社殿(国・重文)は慶長9年(1604)豊臣秀頼が再建したもので、本殿、拝殿、幣殿、楼門、回廊からなり、桃山時代の壮麗な建物である。三殿を1棟とした本殿には、玉依姫命(たまよりひめのみこと)像(国宝)が安置されている。正装の女神像は精巧な造りで、鎌倉時代の神像彫刻の代表作と高く評価されている。
 神社には秀頼寄進の灯籠や釜などが多く、社宝として保存されている。拝殿の芋の葉唐草釣灯籠は慶長9年(1604)の銘があり、毎年4月3日の御田植神事の日に公開される。境内の庭の枝垂れ桜は、10日近くも花をつけおり「散らない桜」として知られている。

(写真は 芋の葉唐草燈籠)


 
西行庵  放送 6月12日(水)
 「吉野山 こずゑの花を 見し日より 心は身にも そはずなりにき」と詠んでいるように西行は、吉野山の桜をこよなく愛していた。吉野山・上千本から山道を約1時間かけて登ると奥千本に出る。ここに西行が俗塵を避けて約3年間、隠棲した西行庵がある。
 西行は「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」「吉野山 やがて出でじと 思う身を 花散りなばと 人や待つらむ」と桜を詠んでいる。西行が詠んだ2000首以上の歌のうち230首が桜の歌であり、いかに桜を愛していたかを示している。
 西行は平安時代後期、朝廷の北面の武士だったが、23歳のとき武士を捨てて剃髪、僧・西行となり、漂泊の歌人として各地を遍歴、歌を作り続けた。

西行庵

(写真は 西行庵)

苔清水

 西行庵のある奥千本は桜のころはもちろん、新緑、紅葉と四季を通じて人里離れた自然の美しさが満喫できる。花見客でごった返す下千本や上千本などと違い、吉野の深い自然の中でサクラの美しさを味わうことができ「吉野山のサクラは奥千本が最高」と言う人が多い。
 「とくとくと 落つる岩間の苔(こけ)清水 汲みほすまでもなき すまいかな」と西行が詠んだ西行庵近くの苔清水は、今も清らかに澄んだ水が流れ出ている。西行を慕ってこの地を訪れた松尾芭蕉が「露とくとく 心みに浮き世 すすがばや」と詠んだ句碑もある。西行が隠棲した庵は主が去ってから朽ちてしまったが、そのつど地元の人びとが再建、修理をして今日に伝えている。この西行庵にあった西行像は、管理が行き届かないため吉野水分神社に移され安置されている。左ひざを立てやや上目づかいの表情は、吉野山のサクラを眺めているのだろうか。

(写真は 苔清水)


 
万葉びとの跡  放送 6月13日(木)
 万葉歌人らにとって吉野の自然は魅力的だったようだ。万葉集には吉野を詠んだ歌が約100首ある。だが吉野の桜を詠んだ歌はなく、吉野川流域の自然や水、川を詠んだものがほとんど。飛鳥ののどかな自然と比べ、吉野の山や川の険しさ、奥深さ、神秘さに万葉歌人らは心を揺さぶられたのであろう。
 象(さき)の小川は吉野町喜佐谷の杉木立の中を流れる渓流。吉野山の青根ヶ峰や吉野水分(よしのみくまり)神社近くの山あいを水源にした流れが、小川となって吉野川にそそいでいる。万葉歌人の大伴旅人は「昔見し 象の小川を いま見れば いよよさやけく なりにけるかも」とそのすがすがしさを詠んでいる。九州・大宰府に赴任した時にも「わが命 常にあらぬか 昔見し 象の小川を 行きて見むため」と象の小川を恋しく思って詠んだ歌がある。旅人は天平2年(730)に九州から帰ってきたが、その翌年に亡くなり再びこの小川を見ることはなかった。吉野山から吉野町喜佐谷の集落を抜け宮滝への象谷は「吉野宮滝万葉コース」として、ハイカーや万葉集の愛好者らに親しまれている。

桜木神社

(写真は 桜木神社)

宮滝

 喜佐谷と宮滝の中ほどにある桜木神社は、桜とカエデの木立の中に鮮やかな朱塗りの社殿が映えている。社殿のすぐ後ろに万葉の三船山、前に有名な象山(さきやま)が迫っている。境内に山辺赤人が詠み万葉の秀歌と言われている「み吉野の 象山の際(ま)の 木末(こぬれ)には ここだも騒ぐ 鳥の声かも」の歌碑が立っている。
 万葉びとがよく訪れたのが宮滝。このあたりの吉野川は両岸に巨岩、奇岩が連なり、水の流れはエメラルド色の風光明媚(ふうこうめいび)な景色が、万葉集や懐風藻の歌や詩に詠まれている。
 宮滝は縄文時代前期(約3000年前)から人が生活しており、縄文時代から奈良時代にかけての遺跡や土器などが出土している。また飛鳥時代には天武、持統天皇の吉野離宮がこの宮滝に置かれたとされており、発掘調査が進み離宮の全容が解明されつつある。持統天皇はこの宮滝がことのほか気に入ったのか、33回も訪れている。宮滝の吉野歴史資料館には、宮滝遺跡から出土した土器や遺物、映像、吉野離宮の復元模型などが展示され、その歴史をわかりやすく紹介している。

(写真は 宮滝)


 
金峯山寺の参道  放送 6月14日(金)
 吉野ロープウエイ吉野山駅から金峯山修験本宗総本山の金峯山寺(きんぷせんじ)本堂の蔵王堂(国宝)前までの参道には、土産物店、骨董品店、食堂、旅館、宿坊、漢方薬店など、さまざまは店が軒を連ねている。吉野雛や吉野和紙で作られた人形、谷崎潤一郎の小説「吉野葛」でも知られる吉野葛や吉野葛菓子などは吉野名産の土産品として人気が高い。
 吉野地方の郷土料理として知られる柿の葉寿司の店も多く、観光客はそれぞれの店の違った味を楽しんでいる。柿の葉寿司は塩でしめたサバを薄く切り、寿司ご飯に乗せて大和特産の柿の葉で包んだ押し寿司。塩のきいたサバと上品な甘さの寿司飯の味がほどよくマッチング、柿の葉の香りが移って独特の味を醸し出している。修験道の行者たちが保存食として携行したのが始まりと伝えられているが、今では各家庭でも作るようになり、それぞれの家庭ごとの独自の味が自慢になっている。

柿の葉寿司

(写真は 柿の葉寿司)

陀羅尼

 修験道の霊場・吉野山でもう一つの名産に修験者必携の万能薬「陀羅尼助」がある。
昔はこの陀羅尼助ひとつで何でも治療できたと言われ、今も胃腸薬としての人気は根強い。
江戸時代の古川柳に「陀羅尼助は腹よりはまず顔にきき」とある。苦さの強い薬で口に入れた途端に顔をしかめることを指しており、「良薬、口に苦し」のことわざは陀羅尼助のことだろうか。
 陀羅尼助は修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が作り出したと伝えられている。
オウバク、センブリ、ケンチアナ(リンドウの根)、エンメイソウ、ゲンノショウコなどの薬草だけを原料にした薬で、胃腸病なら何でも効くと言われる。かつては竹の皮に塗り固められた板状のものを折って服用していたが、今は丸薬になって服用しやすくなっている。
携帯に便利で殺菌効果もあり、かつては水に溶かしてけがの消毒やねんざなどにも使われていたと言われている。今は修験者たちだけでなく一般家庭薬として愛用している人も多い。

(写真は 陀羅尼)


◇あ    し◇
金峰山寺、蔵王堂近鉄吉野線吉野駅からロープウエイ吉野山駅下車徒歩10分。 
吉野水分神社近鉄吉野線吉野駅からロープウエイ吉野山駅下車徒歩約1時間10分。
西行庵近鉄吉野線吉野駅からロープウエイ吉野山駅下車徒歩約2時間。 
桜木神社近鉄吉野線大和上市駅駅からバス宮滝下車徒歩20分。 
宮滝遺跡、吉野歴史資料館近鉄吉野線大和上市駅駅からバス宮滝下車。 
◇問い合わせ先◇
吉野町役場文化観光商工課07463−2−3081 
金峯山寺07463−2−8371 
吉野水分神社07463−2−3012 
吉野歴史資料館07463−2−1349 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「テレホンサービス係」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会