月〜金曜日 18時54分〜19時00分


近江八幡市 

 豊臣秀次が築いた城下町の近江八幡は、湖東有数の商都として栄え、近江商人を生んだ。碁盤の目のように区割りされた古い町並みの通りには白壁の商家が立ち並び、江戸時代に栄えた当時の面影を伝えている。また水郷の町・近江八幡としても知られ、和船に揺られヨシの間を行く水郷巡りを楽しむ観光客が多い。


 
八幡堀散策  放送 7月1日(月)
 近江八幡は豊臣秀吉の姉の子・秀次が天正13年(1585)領主となり八幡城を築き、安土の住民を移住させて城下町を形成した。八幡城の防備と琵琶湖を往来する船を寄港させるため、琵琶湖に通じる全長6kmの運河・八幡堀を掘った。また、織田信長が安土城下で行った楽市楽座を取り入れた自由商業都市をめざした。こうした秀次の商業重点主義で商業が盛んになり、後の近江商人が生まれた。
 築城から10年後の文禄4年(1595)八幡城は廃城となったが、秀次が築いた運河は町を支える流通路として残り、町が栄える原動力としての一大動脈の役割を果たした。
昭和初期まで町の経済を支える流通路だったが、戦後の陸上交通の発達により八幡堀はすたれた。今は貴重な観光資源と甦り堀に沿って白壁の土蔵や旧家が建ち並び、活気があふれ華やかだった当時の様子を伝えている。近江八幡の人たちは秀次を開町の祖と親しんでおり八幡公園には秀次の銅像が立っている。

豊臣秀次像

(写真は 豊臣秀次像)

赤こんにゃくの田楽(茶寮浜ぐら)

 八幡堀は埋め立ての危機にさらされた時代があった。昭和40年(1965)ごろの八幡堀は、ヘドロがたまりカやハエの発生源となり、ごみの不法投棄の場所だった。そのため堀を埋め立てて駐車場などへの利用が計画され、国の埋め立て予算もついていた。このような時、近江八幡青年会議所が「堀を埋め立てた瞬間から後悔が始まる」「現在のわらわれがあるのは八幡堀があったからで、その原点を埋め立ててはならない」を合い言葉に市民にしゅんせつと復元を呼びかけた。埋め立て中止を当局に訴えながら、毎週日曜日にメンバーが八幡堀に入り清掃を続けた。当初、冷ややかな目で見ていた市民らもそのうち清掃作業に加わり、ダンプカーやパワーショベルを提供してくれる土建業者も出てきた。
昭和50年(1975)八幡堀の改修、埋め立て工事の中止が決まり、近江八幡市のシンボル・八幡堀が残った。
 季節感を伝える八幡堀沿いには遊歩道も整備され、全国から船で運ばれてきた物産を保管した土蔵は、地元の味を供する店となって観光客の人気を呼んでいる。

(写真は 赤こんにゃくの田楽(茶寮浜ぐら))


 
ヴォーリズ夫人・一柳満喜子  放送 7月2日(火)
 近江八幡の教育、文化の振興に尽くした功績で、昭和33年(1958)近江八幡市の名誉市民第1号となったのがウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)。
ヴォーリズは明治38年(1905)滋賀県立商業学校(現八幡商業高校)の英語教師として近江八幡にやって来た。教育者だけではなく、熱心なキリスト教伝道者、建築家としての足跡を近江八幡をはじめ日本各地に残している。
 教育者、キリスト教の伝道者として、神の愛に基づく理想の国づくりに志を燃やすヴォーリズは、大正8年(1919)クリスチャンの一柳満喜子と結婚した。満喜子は播磨国・小野藩の元大名で子爵の一柳末徳の娘で、アメリカへも留学していたことがある。ヴォーリズは子爵の長男の住宅の設計を引き受け、打ち合わせのためたびたび兄を訪ねていた。ヴォーリズと、留学先のアメリカから帰国した満喜子が出会い、結婚へ結びついた。

一柳満喜子

(写真は 一柳満喜子)

近江兄弟社学園幼稚園

 ヴォーリズは伝動活動の拠点として「近江ミッション」を設立し、これが後にメンソレタームで有名な近江兄弟社に発展した。近江ミッションの婦人たちは、宣教活動のほかに満喜子を中心に料理、英会話、ピアノ、手芸、体操、ろうあ教育などの教育活動に取り組み、今日の近江兄弟社学園の基礎となった。特に満喜子は専門の幼児教育に熱心に取り組み、滋賀県の認可を受けた「清友園幼稚園」を始めた。これが現在の近江兄弟社幼稚園につながっており、21世紀に入った今も園児たちは、満喜子の精神を受け継いだ幼稚園でのびのびと学んでいる。
 ヴォーリズは名前を「一柳米来留(めれる)」と日本名に改めて永住した。ヴォーリズ夫妻が住宅として使っていた木造の瀟洒な洋風の建物は一柳記念館(ヴォーリズ記念館)となり、ヴォーリズの83年間の生涯の記録や遺品などが展示されている。見学は事前の連絡が必要。

(写真は 近江兄弟社学園幼稚園)


 
伝統の味めぐり  放送 7月3日(水)
 商業都市として栄え、近江商人の町として発展した近江八幡は、昔から多様な美味に恵まれた土地柄でもある。幕末の文久3年(1863)創業の「和た与」のでっち羊羹(ようかん)は、こしあん、上白双糖、小麦粉をよく練って竹の皮に包み込み、せいろに入れ強火で約1時間蒸しあげる。蒸される間に竹の皮の香りとほろ苦さが溶け合い、ひなびた甘味に仕上がる。これが老舗「和た与」が140年間守り続けたきた伝統の味で、滋賀県内はもちろん県外にもファンが多い。
 でっち羊羹の名称は、丁稚(でっち)奉公に出ていた人がやぶいりで帰郷し、奉公先の主人や番頭さんに手土産として羊羹を買って帰った。丁稚でも買える羊羹をもじってでっち羊羹と呼ばれるようになったとか。また、菓子屋言葉にこねあわせることを「でっちる」と言い、「丁稚」と「でっちる」がかけ合わされてこの名が生まれたとも言われている。名称はともあれ、この羊羹の味を大正天皇の貞明皇后が、「顔かたち 田舎娘と思えども かみあじあえば するがやの姉」とほめたたえたとのエピソードが残っている。

でっち羊羹(和た与)

(写真は でっち羊羹(和た与))

ちょうじ麸のかろしあえ(麸の吉井)

 もう一つの老舗の味は、豊臣秀次が城主になったころからあったと伝えられる「麸(ふ)の吉井」の丁字麸(ちょうじふ)。麸は小麦粉から取り出したグルテンを主材料とする食品で、生麸と焼麸がある。
 焼麸は大体丸いのが常識。だが、豊臣秀次から「戦の兵糧に栄養のある麸は欠かせないが、丸い麸はかさばって携行に不便である。近江八幡の町並のように角形にせよ」と命じられ、吉井の麸は四角い角形の麸に変身したそうだ。碁盤の目のように区切られた城下町・近江八幡の丁(町)とその字(あざ)を表して「丁字麸」と名づけられた。麸の吉井では栄養価の高い麸を使い、伝統の麸の味をアレンジした「からしあえ」「ちょうじ最中」「よもぎ麸田楽」「あわ麸田楽」などを作り、食通を楽しませている。
 かわらミュージアム内の「喫茶・瓦亭」は地場産品に工夫を凝らしている。コーヒー、抹茶ミルクなどの飲み物のほかに、近江米と近江牛をぜいたくに使ったビーフカレーがなかなかの人気。近江八幡の土産物も取りそろえており、ここで近江八幡散策の疲れを癒す人たちも多い。

(写真は ちょうじ麸のかろしあえ(麸の吉井))


 
酒遊館  放送 7月4日(木)
 近江八幡市の仲屋(すや)町通りに面し、ゆったりとした前庭のスペースを持つ白壁の蔵が酒遊館(しゅゆうかん)である。江戸時代中期の享保2年(1717)創業以来、280年間続いている近江八幡で唯一の日本酒の蔵元・西勝酒造が、明治の酒蔵2棟を改装して平成4年(1992)にオープンした。
 酒蔵の太い梁組みをそもまま活かした白壁の空間は、江戸時代からの時間がゆっくりと流れていて、木造の建物に慣れ親しんだ日本人に安らぎの気分を与えてくれる。酒遊館は古い酒蔵を現代に甦らせ、町並みの景観にも配慮したデザインが評価され、平成8年(1996)滋賀県の「麗しの滋賀 建築賞」を受賞した。

酒袋加工品

(写真は 酒袋加工品)

ことぶき膳

 酒遊館内には酒造りに長年使い込まれ、木の温もりが感じられる酒造道具類や酒器、江戸時代の酒造絵図など、酒造りに関する資料が展示されている。多目的スペースでは“酒縁文化”をモットーにコンサート、芝居、映画などのイベントが催される。ギャラリーは陶芸、染色、絵画、書、写真、木工などの作家たちの作品発表の場に利用されたり、会合、パティーなどにも使われることも多い。
 酒の仕込み桶の底を使ったテーブル、酒槽の板を活用したカウンターなどがあるサロンでは、近江の郷土料理・ことぶき膳や自家製の珍しい酒や銘酒、酒の仕込み用水を使った抹茶、コーヒーなどが、落ち着いた空間の中で味わえる。

(写真は ことぶき膳)


 
西の湖  放送 7月5日(金)
 琵琶湖の湖岸には細い水路で琵琶湖とつながっている内湖がいくつかあるが、近江八幡市と安土町にまたがる西の湖はその中で最も大きな内湖。夏に入った今は青々としたヨシが群生しており、その中に網の目のように水路が通り、水郷めぐりの屋形船が行き交っている。豊臣秀次が掘った八幡堀と共に水郷・西の湖は近江八幡市のシンボルである。
 近江八幡観光の目玉のひとつとして人気が高い水郷めぐりは、織田信長や豊臣秀次が宮中の船遊びをまねたのが始まりと言われている。市内の豊年橋や丸山などから手漕ぎの和船の屋形船が出ている。和船の揺れにゆったりと身をまかせ群生するヨシの間を行くと、ヨシの葉陰からはカイツブリやヨシキリのさえずりが聞こえる。のどかな水郷の風情が楽しみながら、大名気分にひたることができる。

水郷めぐりの舟

(写真は 水郷めぐりの舟)

西の湖

 西の湖の恵みは地場産業も育てた。淡水真珠養殖のメッカとしても知られ、軽くて通気性が良い琵琶湖のヨシを育成した。ヨシは蒸し暑い日本の夏をしのぐ生活用品のヨシズやスダレなどに利用された。ヨシズが立てかけられた店先で食べたかき氷の味、スダレのさげられた縁側で風鈴の音を聞きながらの夕涼みは、冷房設備のなかった日本の夏の原風景として誰もが郷愁を感じる。最近は生活用品のほかにヨシの風情を活かして、菓子や食品のパッケージとして利用されるようになった。
 ヨシを刈る初秋の風景、初冬のヨシを焼く炎と煙や冬枯れのヨシの野原、白く雪化粧した景観は水郷・近江八幡の季節感を現す風物詩となっている。また、西の湖のヨシの風景は「安土・八幡の水郷」として琵琶湖八景のひとつになっている。

(写真は 西の湖)


◇あ    し◇
八幡堀、ヴォーリズ記念館、和た与、麸の吉井、喫茶・瓦亭、酒遊館いずれもJR東海道線近江八幡駅下車徒歩10〜20分以内。 
まるやま水郷めぐり観光、島真珠水郷観光船 JR東海道線近江八幡駅からバス丸山下車。 
近江八幡水郷巡り(近江八幡和船観光協同組合) JR東海道線近江八幡駅からバス豊年橋下車。 
びわ湖観光船JR東海道線近江八幡駅からバス中之庄町下車。 
◇問い合わせ先◇
近江八幡市役所商工観光課0748−36−5517 
近江八幡観光物産協会0748−32−7003 
ヴォーリズ記念館0748−32−2456 
和た与0748−32−2610 
麸の吉井0748−32−7735 
喫茶・瓦亭0748−36−6248 
酒遊館0748−32−2054 
近江八幡水郷巡り0748−32−2564 
まるやま水郷めぐり観光0748−32−2333 
びわ湖観光船0748−32−2131 
島真珠水郷観光船0748−32−3527 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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