月〜金曜日 21時48分〜21時54分


京街道 

 大坂と伏見に築城した豊臣秀吉は、この間を最短距離で結ぶため文禄3年(1594)淀川左岸に築いた堤が文禄堤で、この堤を道路にしたのが京街道。元和5年(1619)、大坂が徳川幕府直轄地になると幕府は、参勤交代の諸大名が京都で宿を取り朝廷と接触することを警戒してこの京街道を西国大名の参勤交代の道筋とした。江戸・京都間の東海道五十三次の大津宿から山科を通り、大坂京橋までの伏見、淀、枚方、守口の四宿を加えて東海道五十七次とも呼ばれた。


 
伏見宿(京都市)  放送 7月9日(月)
両替商・山本邸 伏見は豊臣秀吉が築いた伏見城の城下町として発展し、京都と大坂を結ぶ淀川水運の京都の船着場の伏見港もあり、京街道と船で往来する旅人や物資が集散する水陸交通の要衝となった。
 江戸時代に伏見宿が東海道五十四次の宿場になってからは、宿場町としてさらに発展をした。伏見宿は当時、東西1km、南北4.6kmで人口約24000人、大名らが泊まる本陣が4軒、身分の高い武士らが泊まる脇本陣が2軒、旅籠(はたご)が大小合わせて39軒もある東海道でも屈指の大宿場町だった。慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いで町はほとんど焼失してが、明治元年(1868)に明治天皇の大阪行幸に当たり、再建された本陣・福井与左衛門家が往時の、本陣の姿を今に伝えている。
(写真は 両替商・山本邸)

伏見港公園 徳川家康は貨幣を作る銀座を伏見に置いた。今も伏見には銀座町や両替町など町名が残っており、銀座跡には石碑が建っている。東京の銀座を始め全国各地に、にぎわう街の代名詞のように銀座の町名や商店街名が誕生したが、日本で最初の銀座は伏見である。今も銀座があった周辺には白壁造りの土蔵を持った両替商の商家が残っている。
 伏見は“伏水”と書かれたほど、良質のわき水が出ることでも知られていた。この名水を使った酒造りが秀吉が伏見城を築いたころから始まり、今では灘とともに関西の酒どころとして知られている。伏見の酒は淀川の三十石船を使って大坂に運ばれ、全国各地へ出荷された。
 旅人と物資が行き交い、大変なにぎわいを見せていた伏見港跡は公園として整備され、復元された三十石船が水辺に浮かんでいる。
(写真は 伏見港公園)


 
伏見から淀(京都市)  放送 7月10日(火)
寺田屋 伏見・中書島の堀割りに面して赤い土塀に囲まれ、唐風の竜宮門のある長建寺は「島の弁天さん」と呼ばれ親しまれている。江戸時代には伏見宿の遊女たちが弁財天を崇敬し、朝夕に参詣する姿が絶えなかったと伝えられている。元は深草大亀谷の即成院内にあった多門院を中書島を開拓した時にこの地に移したもので、本尊の八臂(はっぴ)弁財天像は当時のものと伝えれている。
 伏見で観光客に人気が高いのが、寺田屋騒動の舞台や幕末の坂本龍馬と女将のおとせのエピソードで有名な船宿・寺田屋。寺田屋には常に尊攘派の薩摩藩士が出入りしていた。幕末、寺田屋に終結していた尊攘派の藩士が、自重を説得に来た藩士と斬り合いになり尊攘派が斬殺されたのが寺田屋騒動。また、寺田屋を定宿にしていた坂本龍馬が幕府方に襲われた時、寺田屋の娘・おりょうの知らせで難を逃れた。龍馬はこの恩を忘れず、後におりょうを妻に迎えている。
(写真は 寺田屋)

淀城址 伏見から下ると次が東海道五十五次の淀宿。淀は豊臣秀吉の側室・淀君が住んでいた淀城で有名だ。江戸時代の淀城は、秀吉の淀城から約1km南に寛永2年(1625)に築城された。今はコケむす石垣と内堀の一部が残るだけになっている。また、城内に水を取り入れていた大水車があった所に「淀川瀬水車旧跡」の石碑がある。
 淀宿は本陣、脇本陣はなく人馬の中継を主業務にしていた宿場だった。一方、宇治川、桂川、木津川の三川が合流して淀川になる三川交流の地で、港町としても栄えた。淀川を上ってきた朝鮮通信使はここで下船し、陸路を江戸に向かっており、この船着場に「唐人雁木(がんき)旧址」の石碑がある。
(写真は 淀城址)


 
枚方から守口(枚方市・守口市)  放送 7月11日(水)
難宗寺 京都と大阪のちょうど中間にあるのが、東海道五十六次の枚方宿。今も京街道筋には古い町家が残り、宿場町の面影を伝えている。三十石船唄にも「ここはどこぞと船頭衆に問えば、ここは枚方鍵屋浦。鍵屋浦にはいかりはいらぬ、三味や太鼓で船とめる」と唄われたように、淀川を上り下りした三十石船の寄港地として栄えた。創業が天正年間(1573〜92)の船宿・鍵屋はつい最近まで料理旅館として営業していたが、廃業後は建物を枚方市に寄贈、市は解体修理して「枚方市立枚方宿資料館」として、2001年7月にオープンしたばかり。
 枚方宿に寄港する三十石船の客を目当てに「飯くらわんか!酒のまんか!ゴボウ汁くらわんか!」と口汚い河内弁で商売をしていたのが「くらわんか舟」だった。
(写真は 難宗寺)

文禄堤址 枚方宿をさらに下ると東海道五十七次最後の守口宿。守口宿の出入り口の上の見付に一里塚の記念碑が建っている。大名らが宿泊したときは、宿場役人が上の見付、下の見付まで送迎した。
 城郭を思わせるような高櫓(やぐら)があるのが、蓮如上人が文明9年(1477)に創建したと伝えられている難宗寺。難宗寺の角に「すぐ京」と刻まれたの道標があるが、本当は「すぐ京道」の道標で「道」の部分が埋もれている。
 豊臣秀吉が淀川左岸に築いた堤防・文禄堤が守口市内にも見られる。現在の市街地より一段高くなっている堤の上に宿場町があった。今も料亭、ちょうちん店やうだつのあがった商家などが残っており、宿場町の風情を見せている。
(写真は 文禄堤址)


 
旧白井邸(守口市) 放送 7月12日(木)
高札 各宿場町には本陣、脇本陣、旅籠(はたご)などのほかに問屋場が置かれていた。ここには人足100人、馬100頭を常備し、旅の荷を前の宿場から受け取り、次の宿場へと運ぶ仕事をしていた。守口の問屋場だった所には、旧白井邸が残っている。
(写真は 高札)

大塩平八郎 白井家は屋号を「古手屋三郎兵衛」と呼び、古着や古物を売買していたほか守口宿の村役人を務めた旧家だった。天保の頃、主人・孝右衛門が大坂町奉行所の与力で陽明学者の大塩平八郎に弟子入りし、息子・彦右衛門も内弟子となった関係で邸内には大塩が講義した書院も残っている。
(写真は 大塩平八郎)


 
八軒家(大阪市)  放送 7月13日(金)
天満橋 東海道五十七次の終着点、江戸へ向かう出発点でもあるのが大坂・京橋で大坂の市中への玄関口。淀川を下ってきた三十石船は、左手に大坂城を眺めながら、京橋より少し下流の天満橋と天神橋の間の南側、終点の船着場・八軒家に着く。ここは平安時代には熊野詣に向かう皇族や公家が京から船で淀川を下り、ここで船をおり陸路を熊野へ向かった所でもあった。
(写真は 天満橋)

八軒家船着場の跡 八軒家の名は、江戸時代に八軒の船宿があったことに由来していると言う。その後、船宿が軒を連ねるように増え昼夜を問わず大変なにぎわいになった。京都の伏見港を発った三十石船は翌早朝、八軒家に着く。三十石舟唄には「ねむたかろうけど ねた目をさませ ここは大坂八軒家」と唄われた。反対に京都へ向かう船は川を上るため約12時間かかった。
 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の弥次さん、喜多さんもこの八軒家で船をおりている。
また、清水次郎長に代わって金比羅さんへ代参した森ノ石松の「すし食いねぇ」の話も八軒家が舞台とか。周辺に近代的な高層ビルが建つ現代の八軒家にも、船着場へ下る石段が残っているほか「八軒家船着場の跡」の石碑が建っている。
(写真は 八軒家船着場の跡)


◇あ    し◇
伏見港公園京阪中書島駅下車。 
伏見銀座跡の碑京阪伏見桃山駅、
近鉄桃山御陵前駅下車。 
長建寺京阪中書島駅下車 徒歩3分。 
寺田屋京阪中書島駅下車 徒歩5分。 
淀城跡京阪淀駅下車。 
枚方宿資料館京阪枚方公園駅下車 徒歩5分。 
難宗寺、旧白井邸京阪守口駅下車 徒歩5分。 
八軒家船着場跡京阪天満橋駅下車。 
◇問い合わせ先◇
京都市観光協会075−752−0226 
長建寺075−611−1039 
寺田屋075−611−1223 
枚方市商工観光課072−841−1221 
守口市役所06−6992−1221 
大阪市観光協会06−6635−3110 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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