月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪市・天満の天神さん 

 浪速っ子が暑い夏に一番燃える大阪最大の祭・天神祭が今年も7月24、25日に大阪天満宮と大川一帯で繰り広げられる。非運のうちに死亡した菅原道真の霊を慰める祭として始まったが、今は大阪を活気のある町に盛り上げる役目も担い、不景気を吹き飛ばそうと祭を取り仕切る関係者も燃えている。


 
大阪天満宮  放送 7月14日(月)
 菅原道真(845〜903)は宇多天皇の信任厚く右大臣の地位にあったが、道真の権勢拡大を恐れた左大臣の藤原時平ら藤原一族の讒言(ざんげん)によって排斥され、昌泰4年(901)九州・太宰府に左遷された。
道真は太宰府へ向かう途中、難波での船待ちの間に大将軍社に参拝した。これが縁となり、道真の死後46年を経た天暦3年(949)村上天皇の勅願によって、この大将軍の森に道真を祭神として祭ったのが大阪天満宮の始まり。今はにぎやかな商店街、ビルの建ち並ぶ町の中にあって「天満の天神さん」と親しまれている。
 大将軍社は大化元年(645)孝徳天皇が造営した、難波長柄豊崎宮の守護のために建立した神社で、現在は大阪天満宮の境内に摂社として祭られている。

大将軍社

(写真は 大将軍社)

菅原道真

 左遷された道真は2年後、失意のうちに59歳で太宰府で没した。道真の死後、道真追い落としの中心人物の藤原時平が39歳の若さで死亡したほか、朝廷の要人が死亡したり御所の清涼殿への落雷、都での飢饉や疫病のまん延などさまざまな異変が起こった。これを道真の怨霊のたたりと都の人たちは恐れた。道真没後44年の天暦元年(947)に北野の地に、道真の霊を祭った北野天満宮が創建された。その2年後に大阪天満宮が創建され、天神信仰が盛んになった。
 全国の天満宮は今、学問の神として崇められ、受験シーズになると大阪天満宮でも、合格祈願の受験生や父母の参拝が後を絶たず、合格への願いを込めて奉納された絵馬が所狭しと掲げられている。

(写真は 菅原道真)

 創建後の天満宮の社殿は、南北朝時代の楠木正成と山名時氏の戦い、戦国時代の織田信長と石山本願寺が戦った石山合戦、大坂城が落城した大坂夏の陣、江戸時代後期の天保8年(1837)の大塩平八郎の乱など、幾多の兵火や大火によって焼失した。大坂夏の陣で被災した時には、天満宮の御神霊は吹田に避難し、再び、天満の地に御神霊を迎えたのは、約30年後の江戸時代初期の寛永年間末となった。
 このように度重なる兵火や大火による受難も、天神さんに篤い信仰心を寄せる難波商人らの心意気と、その財力によってそのつど社殿が再建された。現在の社殿は大塩平八郎の乱後の弘化2年(1845)再建されたものである。

社殿

(写真は 社殿)


 
天神祭  放送 7月15日(火)
 大阪天満宮鎮座の翌々年、天暦5年(951)菅原道真の霊を慰め、また罪汚れを祓うために社頭の浜で鉾流しの神事が行われて以来、天神祭は1000年以上連綿と続けられている。
 江戸時代に入って財力を持つ大町人たちが氏神である天神さんを大事にし、また自分たちの力を誇示しようと、祭を非常に盛んなものにしていった。
 幕末の動乱期や太平洋戦争時には中断もあったが、戦後の昭和24年(1949)に復活し、現在は天神さんの御神霊の陸渡御、船渡御に1万3000人以上が参加する大阪最大のイベントとなっている。最近はギャル神輿、ドラゴンボートレース、花娘も登場し、祭に彩りと活気を添えている。

鳳輦庫

(写真は 鳳輦庫)

「天神祭り夕景」歌川国貞筆(大阪城天守閣蔵)

 天神祭は宵宮の7月24日、夜が明けきらぬ午前4時に、一番太鼓が打ち鳴らされて祭がスタートする。中之島の大阪市中央公会堂前から堂島川にかかる鉾流橋北岸の石の鳥居前で御神霊を斎船に乗せ、大川の中へ漕ぎ出し神鉾を流して天神祭の安全と町の繁栄を祈願するのが鉾流神事。続いて御神霊の陸渡御、催太鼓、獅子舞が氏地町内を巡行して夕方、天満宮に宮入りして宵宮は終わる。
 本宮の7月25日は午後2時、本殿で渡御の安全を祈ったあと御神霊を御鳳輦(ごほうれん)へ移し、3000人の大行列を伴った陸渡御が行われる。続いて午後6時から祭のクライマックスの船渡御が始まり、花火、かがり火に彩られながら渡御船を供奉する約100隻の船が、大川を行く天神祭船渡御の一大絵巻が展開される。

(写真は 「天神祭り夕景」歌川国貞筆
(大阪城天守閣蔵))

 天神祭が現在のような渡御船の形態が整ったのは、豊臣秀吉の大坂城築城のころからと言われている。江戸時代に入って町人が台頭してきた元禄年間(1688〜1704)に祭は一層盛んになった。享保年間(1716〜36)には天満宮を崇敬し、奉仕するたくさんの講が結成され天神祭を支えた。安永9年(1780)には84基の地車(だんじり)があったと記録され、氏地町内を練り歩き祭を盛りあげて天満宮へ宮入りした。このころから天神祭は京都の祇園祭、江戸の山王祭と並んで日本三大祭のひとつにあげられた。
 この地車も現在は天満宮の奉納された「三ツ屋根地車」の1基となり、町内を練り歩く引き回しも廃止され、祭の間は境内で飾り付けら地車囃子が奉納されている。歌川芳瀧筆の「天満天神地車宮入」の絵で昔の地車宮入をしのぶことができる。

「天満天神地車宮入」歌川芳瀧筆(大阪城天守閣蔵)

(写真は 「天満天神地車宮入」歌川芳瀧筆
(大阪城天守閣蔵))


 
商いの町  放送 7月16日(水)
 大阪天満宮は南北2.6kmにおよぶ日本一長い商店街・天神橋筋商店街のすぐ脇に位置し、天神祭の陸渡御、船渡御、そして威勢の良い神輿が大阪の商業、経済の中心地を練る。7月24日の宵宮に続いて、25日の本宮の大川での船渡御は江戸時代から華やかだった。歌川国員筆による「天神祭り夕景」にその情景が描かれている。
 また、天満一帯が「天下の台所・大坂」と言われた時代の商いの中心地で、海産物問屋などの大問屋や青物市場、すぐ南には堂島の米市場や諸藩の蔵屋敷が建ち並び、日本経済を動かしていた。その経済の中心地の大川に架かる橋を描いたのが歌川国員筆の「三大橋」である。わずか1kmの間に大きな難波橋、天神橋、天満橋を架けたのは、当時の大坂の経済力を示したものである。

「三大橋」歌川国貞筆(大阪城天守閣蔵)

(写真は 「三大橋」歌川国貞筆
(大阪城天守閣蔵))

難波橋

 天神祭を支えているのが32ある「講」の氏子組織である。江戸時代中期の享保年間(1716〜36)に生まれた講社は、現代に続いている長い歴史を持つ講社から、その後に誕生した新しい講社もある。
 もともと職業講で米穀商人の御錦蓋講や一流料理店の御旗講、酒屋さんの御神酒講ほか、渡御の際に御神霊を乗せた御鳳輦(ごほうれん)を担ぐ御鳳輦講、鳳神輿(おおとりみこし)を出す鳳講、玉神輿を出す玉神輿奉賛会などがある。さまざまな商人の組合や氏子たちが、それぞれ異なる役割を担って祭りを盛り上げ、神様のお供をする。講社の中でユニークなのが木場の筏師で組織されたどんどこ船講である。船渡御の際に鉦(かね)や太鼓を打ち鳴らして水上を自由に往来する列外船で、かつては7隻あったが今は1隻となってしまった。

(写真は 難波橋)

 江戸時代には天満宮の氏地内にあった大阪の三大市場の氏子たちも天神祭を盛り上げた。三大市場とは天満の青物市場、堂島の米市場、雑喉場(ざこば)の魚市場で、当時、これらの地域はすべて天満宮の氏地で市場の人たちはみんな氏子だった。
 江戸時代の青物市場のにぎわいは歌川国員筆の「天満市場」でうかがい知ることができる。現在の大阪・北区天満2〜4丁目、天神橋1丁目、南天満公園付近一帯で営業していた大阪唯一の青物市場だった。近郷の農家が野菜や果物を持ち込み、毎日数万人の商人が集まって買い求めた。市場で野菜を売った農家の人たちは天満宮へ参拝したり、芝居を観たり歓楽街で遊ぶ人たちもいた。この青物市場も昭和6年(1931)に福島区の大阪市中央市場へ統合された。

「天満市場」歌川国貞筆(大阪城天守閣蔵)

(写真は 「天満市場」歌川国貞筆
(大阪城天守閣蔵))


 
天神さんの商店街で  放送 7月17日(木)
 大阪天満宮が建立された平安時代に生まれた門前町が、現在の天神橋筋商店街のもとになったと言われている。今なお天満宮と商店街とのつながりは強く、天満宮あっての神橋筋商店街であり、天満宮も天神祭やその他で商店街の協力を得ている。
 この商店街は長さが2.6kmある日本一長い商店街で、ありとあらゆる商品を扱う商店が軒を連ね、手に入らぬ商品はないのではないだろうか。また、大阪独特の開けっ広げで気さくな応対が、庶民的な雰囲気を商店街にあふれさせている。他府県から来た修学旅行生がたこ焼きの作り方を教えてもらうため、一日弟子入りしたとの話もある。

天神橋筋商店街

(写真は 天神橋筋商店街)

お迎え人形

 天満宮の参道を兼ねた形になっている長い商店街にはアーケードが架けられ、雨の日も気にせずに買い物ができる。天神橋筋2丁目商店街のアーケード入口は、船渡御をする御神霊を出迎えた「お迎え人形」をモチーフにした人形がにぎやかに飾られ、買い物客を出迎えてくれる。
 江戸時代元禄期のころから天神祭の時に、それぞれの町内が趣向をこらした風流人形を飾るようになった。船渡御の際に御神霊を乗せた船をお迎えする御迎船(おむかえぶね)に人形を飾り立てるようになり、お迎え人形と言われるようになった。人形も次第に大型化し2.5m近いものもある。その人形は物語や伝説にまつわる八幡太郎義家や羽柴秀吉、酒田公時、関羽などの人物をキャラクターにした人形師の労作が多い。

(写真は お迎え人形)

 天神祭が最も盛んだった江戸時代のころには約50体ほどのお迎え人形あったが、その後だんだん少なくなり、戦災で焼けるなどして現在は15体しか残っていない。そのうち14体が大阪府の有形民俗文化財に指定され、今は船に乗せることはせず、天神祭には天満宮の境内で飾り、参詣者に披露する。商店街の他のアーケードにも天神さんの鳥居や天神花と呼ばれる縁起物を飾ったりしている。
 天神橋筋3丁目商店街にある江戸時代末の元治元年(1864)創業の老舗の和菓子店「薫々堂」は、かつて天満宮門前に店を構えていた縁で、店先には梅の紋入りの立派な瓦が飾られている。天神橋筋商店街にはこのように天満宮と深いつながりのある老舗が多い。

薫々堂

(写真は 薫々堂)


 
川端康成生誕の地  放送 7月18日(金)
 大阪天満宮表門の東向かいに小粋な門構えの家と、その入口脇に小さな石碑が見える。この家は創業以来180年の歴史のある料亭「相生楼」で、石碑には「川端康成生誕之地」の文字が彫られている。
 昭和43年(1968)日本人初のノーベル文学賞を受けた康成は、明治32年(1899)現在の相生楼の敷地内の南端あたりにあった家で生まれた。誕生後間もない2歳で父を、3歳で母を失い、3歳年上の姉と二人っきりになってしまった。姉は叔母の嫁ぎ先へ、康成は現在の茨木市宿久庄の祖父母の家に引き取られ、二人の姉弟は幼くして離れ離れの生活をしなければならない非運に遭遇した。

相生楼

(写真は 相生楼)

川端康成生誕之地碑

 康成の父は医者であったようで「医 川端栄吉」の表札が残っている。相生楼のある天神橋へは明治31年(1898)に引っ越してきており、その翌年に康成が生まれた。
 広い屋敷での祖父母と康成の3人のわび住まいの生活が始まり、孤独な日々を送る境遇の康成には物事を深く見つめる素養が身についた。康成が16歳の時、死の床にいた祖父の様子を冷静に観察してそれをノートに記録していた。この記録に後年、筆を加えて発表したのが「十六歳の日記」である。幼、少年期を送った茨木市には茨木市立川端康成文学館があり、康成の人物や作品を知ることができる。

(写真は 川端康成生誕之地碑)

 相生楼は江戸時代末に創業した老舗の料亭で、昔から天神祭の季節には鱧(はも)ちり、鱧しゃぶ、鱧の落とし、鱧焼きなどの鱧料理を提供しており、夏の常連客の定番メニューとなっている。鱧料理は京都でも祇園祭のころの定番料理として知られており、関西の人たちは夏になると「鱧でも食べましょか」と言うのが、合い言葉になっているほどだ。
 天神祭のころになると相生楼の板場からは、鱧の骨を切る包丁のリズミカルな音が聞こえてくる。鱧料理の善し悪しは骨切りにあると言う。骨が細かく切られた鱧の白身は何の抵抗もなくのどを通る。

鱧料理

(写真は 鱧料理)


◇あ    し◇
大阪天満宮JR東西線大阪天満宮駅下車徒歩3分。 
地下鉄南森町駅下車徒歩3分。
京阪電鉄北浜駅下車徒歩15分。
天治橋筋商店街JR東西線大阪天満宮駅、環状線天満駅下車。 
地下鉄南森町駅、扇町駅、天神橋筋六丁目駅下車。
京阪電鉄北浜駅下車徒歩10分。
相生楼(川端康成生誕の地) JR東西線大阪天満宮駅下車徒歩5分。
地下鉄南森町駅下車徒歩5分。
京阪電鉄北浜駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
大阪天満宮06−6353−0025 
薫々堂06−6351−0375 
相生楼06−6356−0001 

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