月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪・近つ飛鳥 

 奈良の飛鳥は「遠つ飛鳥」と言い、大阪・羽曳野市、太子町の二上山西側の山麓一帯を「近つ飛鳥」と言う。古代の近つ飛鳥一帯では渡来人が持ち込んだ高い文化が栄えた。
また「王陵の谷」と呼ばれる地域には天皇陵などが集中し、古代社会の遺跡や文化財が数多く残っている。これらの歴史を秘めた近つ飛鳥を訪ね、古代への思いと夢を馳せた。


 
二上山(太子町)  放送 7月21日(月)
 大阪府と奈良県の境、標高515mの雄岳と474mの雌岳がラクダの背のように並ぶ二上山は、今日では「にじょうざん」と呼ばれるが、古くは「ふたかみやま」または「ふたかみ」と呼ばれ、和歌にも詠まれている。また河内の人たちは「日の出の山」、大和の人たちは「天の二上」「日没の山」などとも呼び、古来から尊い山として崇めていた。
 雄岳の頂上には大津皇子二上山墓がある。大津皇子は天武天皇の第三皇子で、天皇の死の直後、謀反の疑いをかけられ非業の死を遂げた。太子町側の二上山西麓には聖徳太子墓や推古、敏達、用明、孝徳陵があり「王陵の谷」とも言われている。

鹿谷寺跡

(写真は 鹿谷寺跡)

凝灰岩

 雌岳中腹にある奈良時代創建と見られる鹿谷寺(ろくたにじ)跡(国指定史跡)は、凝灰岩の山腹を削って開いた平地に造られた石窟寺院。山の凝灰岩を削って造られた高さ5.2mの十三重石塔が現存している。境内東側の石窟内の奥の壁には、如来座像3体が線刻されているが、風化が進んで左端の像は顔と胸の部分が確認できない状態になっている。
境内西側の岩壁に沿う小岩塊にも仏の立像が浮き彫りされているが、今では確認しにくい。
ほかにも石を削った高さ1.5mの小塔と思われるものも造られている。
 鹿谷寺跡の近くに同じように凝灰岩を削って三重塔を造ったり、三尊像を彫った岩屋(二上山廃寺跡=国指定史跡)がある。

(写真は 凝灰岩)

 これらの石窟寺院は中国の竜門石窟に見られる石窟寺院を模したものと見られ、遣唐使か留学僧が伝えた手法によって細工のしやすい二上山の凝灰岩に彫られたのではないかと推測されている。
 二上山は火山活動によって生成されたサヌカイト、凝灰岩、金剛砂の3種の岩石を産する。黒みがかったサヌカイトは割ると鋭利な刃物のようになり、石器時代から弥生時代までいろいろな石器に使われた。凝灰岩は古墳の石室や石棺に使用されており、高松塚古墳の石槨もこの山の石が使われている。古墳時代以降は宮殿や寺院の基壇や石塔などに利用されるようになった。金剛砂は「大坂砂」と呼ばれ、古くから玉石を磨くために利用されていたことが続日本書紀にも記されている。凝灰岩を切り出してできた石切場跡に、塔や仏像を造立して石窟寺院を造ったのであろう。

石切場跡

(写真は 石切場跡)


 
飛鳥の産土神(羽曳野市)  放送 7月22日(火)
 5世紀前半、反正天皇が皇子時代に難波から大和の石上(いそのかみ)神宮への参拝に向かう途中で2泊した。この時、難波に近い河内の方を近つ飛鳥、難波に遠い大和の方を遠つ飛鳥と呼んだと古事記に記載されている。近つ飛鳥は二上山の大阪側山麓、現在の羽曳野市から太子町あたりの地域で、羽曳野市には飛鳥の地名がある。
 この羽曳野市飛鳥の地域は、丘陵地を利用したブドウ栽培が盛んで、近鉄南大阪線上ノ太子駅を降りて丘陵地帯のブドウ畑の中を登って行くと、その一角に小さな社の飛鳥戸(あすかべ)神社が鎮座している。

竹内街道

(写真は 竹内街道)

飛鳥戸神社

 この飛鳥戸神社は5世紀後半に百済から渡来したコンキ王を祭り、飛鳥戸一族の氏神として当初は「コンキ王神社」と称していたようだ。平安時代初期に編さんされた延喜式に記されている式内社で、その中でも格式の高い「明神大社」の扱いを受けていたこの地方の古社である。
 コンキ王は別名「飛鳥大神」とも言われ、羽曳野市の北隣・柏原市の国分神社にも祭られている。三代実録の清和天皇の条に「貞観元年(859)飛鳥戸神に正4位下を授ける」とあり、翌年、この神社を官社に列すとある。明治時代に国の新しい神社制度によって祭神が素戔嗚尊(すさのおのみこと)に替えられ、今はこの地域の産土神として地元の人たちに信仰されている。

(写真は 飛鳥戸神社)

 飛鳥戸一族はこの地方の文化の向上に貢献した渡来人で、飛鳥戸神社の周辺には一族のものと見られる多くの墳墓があり、飛鳥千塚と呼ばれている。中でも族長の墓と推測される観音塚古墳(国指定史跡)は、切石の石室と横口式家形石棺を有する貴重な遺跡である。
 飛鳥の地名は朝鮮・韓国語の「アンスク」が訛ったものと言われている。アンスクは「渡り鳥の安住の地」との意味で、日本文化の発展に寄与した渡来人が、この地を安住の地としたのであろう。この近つ飛鳥の地は今、ブドウがたわわに実り、もうすぐ観光ブドウ園ではブドウ狩りの行楽客でにぎわう。

羽曳野市飛鳥

(写真は 羽曳野市飛鳥)


 
竹内街道(太子町)  放送 7月23日(水)
 近つ飛鳥と遠つ飛鳥を結んだ竹内街道は日本最古の官道と言われている。日本書紀に「難波より京(みやこ)に至る大道を置く」と推古天皇21年(613)に設けられたことが記されている。このルートが後に堺市の三国ケ丘から松原市、羽曳野市、太子町を通り、堺と奈良・当麻町を結ぶ竹内街道となった。
 飛鳥時代、このルートを通って仏教が伝来し、中国、朝鮮半島からは大陸文化が入り、飛鳥文化が花開いた。また、中国、朝鮮半島からの使節や渡来人らが往来し、わが国から中国へ派遣された遣隋使、遣唐使らの外交団は、この街道を通り中国へ渡った。この街道は奈良へ都が遷るまで、飛鳥・藤原京時代のシルクロードの終着点としてのにぎわいを見せが、都が奈良・平城京へ遷ってからはその使命を終え、主役の座から降りた。

しもの地蔵

(写真は しもの地蔵)

旧山本住宅

 平城遷都(710)後は、盛んになった聖徳太子信仰の道、堺と大和を結ぶ経済の道、江戸時代は西国三十三ヶ所巡礼、伊勢詣、修験道の大峰詣など宗教の道ともなった。明治時代中ごろまで大和と河内の産物が行き交い、竹内峠で商いがあった。竹内峠は「鴬(うぐいす)の関」とも言われ、街道沿いには旅籠(はたご)や茶店が軒を連ね大変なにぎわいで、松尾芭蕉や吉田松陰らもこの街道を通っている。大阪〜奈良間に鉄道が開通するとともに茶店などが姿を消し始め、昭和時代初期にはその姿が完全に消えてしまった。
 今も街道筋には道しるべの道標や石仏、伊勢灯籠などが残っており、往時の街道のにぎわいをしのばせてくれる。また太子町の竹内街道周辺には聖徳太子廟のほか推古、敏達、用明、孝徳天皇陵など、30基ほどの古墳があり「王陵の谷」とも言われている。

(写真は 旧山本住宅)

 竹内街道沿いには古代からの歴史を刻んだ遺跡、寺院、旅籠、民家など文化的遺産が数多い。街道の大阪側の太子町、奈良側の当麻町には、茅ぶき屋根の両側と一段低いひさし部分を瓦屋根にした、独特の建築様式の「大和棟」の農家や商家が残っており、この伝統的な民家が、竹内街道の風情を現代に伝えている。
 この大和棟の伝統をよく残し、太子町が所有、管理しているのが旧山本家住宅。江戸時代末期に建てられたと見られ、後に改造されている部分があるものの、当初の形式をよく残した代表的な大和棟の建築物だが、内部は一般公開はされていない。この近くには竹内街道の移り変わりを資料と映像で紹介している太子町立竹内街道歴史資料館や二上山万葉の森があり、知識を深めたり、休憩するには絶好の場所である。

大和棟

(写真は 大和棟)


 
大阪府立近つ飛鳥博物館
(河南町) 
放送 7月24日(木)
 近つ飛鳥は4基の天皇陵や聖徳太子、小野妹子の墓をはじめ二百数十基の古墳が存在し、この古墳群の谷を「王陵の谷」と呼んばれるほど日本有数の古墳が多い地域である。渡来人がいち早く住み、大陸文化を伝えたこの地域は、古代文化の先進地で、その勢力と財力を示すのが数多い古墳である。
 古代文化が栄えたこの地に古墳・飛鳥時代をテーマにした近つ飛鳥博物館が、古墳群のある自然をそのまま見渡せる環境の中に、平成6年(1994)開館した。出土品を展示するだけの博物館ではなく、古墳群の谷を眺めるために博物館の屋根が段状になっている。演劇、音楽などの各種パフォーマンスにも活用できるこの段状屋根のユニークな博物館のデザイン・設計は建築家・安藤忠雄氏によるものだ。

大阪府立近つ飛鳥博物館

(写真は 大阪府立近つ飛鳥博物館)

埴輪

 近つ博物館は「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」をメインテーマに、4世紀の古墳時代から7世紀の飛鳥時代までのさまざまな資料と情報を収集、保存、研究し、その結果を展示している。常設展示室は「近つ飛鳥と国際交流」「古代国家の源流」「現代科学と文化遺産」の3ゾーンに分けられている。
 館内で最も目を引くのは「古代国家の源流」ゾーンのフロア中央に置かれた直径10mの仁徳陵古墳復原模型だろう。堺市にある仁徳陵古墳は墳丘の全長486m、3重の濠を巡らし濠を含む全体の長さは850mもある日本最大の前方後円墳。この仁徳陵古墳の150分の1の縮尺模型は、古墳を中心に古墳造りの作業の様子、埴輪製作、玉造り、鍛冶の工房や窯、古墳築造にかかわる人びとの生活の様子も再現している。

(写真は 埴輪)

 近つ飛鳥と国際交流ゾーンでは、古墳時代から飛鳥時代にかけて朝鮮半島、中国大陸からの渡来人によってもたらされた技術や文化を出土品などから検証して展示している。
仏教思想や律令制度による統治国家の基礎を築いた聖徳太子の墓は近つ飛鳥の太子町にある。この聖徳太子墓を記録をもとに復原したり、倭の五王と渡来文化かかわり、開花した仏教文化、文字の普及などを紹介している。
 現代科学と文化遺産ゾーンは、様々な現代科学技術が古代史の解明や資料の保存に応用され、成果をあげていることを紹介。その成果の一例として、藤井寺市の三ツ塚古墳から出土した長さ8.8mの大きな修羅(しゅら)とテコ棒が永久保存できるように処理されて展示されている。

修羅

(写真は 修羅)


 
大阪府立近つ飛鳥風土記の丘(河南町)  放送 7月25日(金)
 大阪府の東南端寄りの太子町の南に位置し、奈良県に隣接する河南町の丘陵地帯の稜線部に一須賀(いちすか)古墳群がある。和歌山・岩橋千塚、奈良・新沢千塚、大阪・平尾山千塚、高安千塚とともに全国でも有数の群集墳である。
 6〜7世紀にかけて造られた一須賀古墳群を整備、保存しているのが、史跡公園・大阪府立近つ飛鳥風土記の丘である。近つ飛鳥歴史博物館はこの近つ飛鳥風土記の丘の園内の施設である。約29hの園内には6世紀後半に造られた直径15m前後の円墳(一部方墳)が102基ある。そのうち40基を整備して公開しており、自由に見学することができる。

B−9号墳

(写真は B−9号墳)

金製飾付耳飾(一須賀古墳群出土)

 近つ飛鳥の南部、磯長谷地域には天皇陵や聖徳太子墓などの古墳が集中しており「王陵の谷」と呼ばれている。この地方には早くから朝鮮半島、中国からの渡来人が住み着き、高い文化と技術を持っていた。これらの権力者がその技術、財力によって築造したのがこの古墳群であろう。
 一須賀古墳群の古墳の石室は、死者を埋葬する玄室と玄室への通路の羨道(せんどう)に分かれている。古墳に手を加える特別な復原整備は行わず、あくまで自然のままの姿を極力残すように努めているため、ありのままの姿の石室が内部に入って見学できるのが最大の魅力である。

(写真は 金製飾付耳飾(一須賀古墳群出土))

 石室と石棺が見えるB9号墳、ぽっかり穴が開き、羨道を通って中の石室へ入れるD4号墳など、園内に点在している古墳を巡っていると、考古学ファンならずとも古墳時代へのロマンがわいてくる。
 この古墳群からは金製垂飾付耳飾や土師器などの土器類が数多く出土しており、これらの出土品は近つ飛鳥博物館の「近つ飛鳥と国際交流」ゾーンに展示されている。
 風土記の丘一帯は自然に恵まれ、古墳巡りの散策路が整備されており、園内の眺めの良い場所からは河内平野が一望できる。園内への入園は開園時間内なら無料で自由。特に春や秋には家族連れで楽しめる最適の半日コースとしてお勧めできる。

土師器(一須賀古墳群出土)

(写真は 土師器(一須賀古墳群出土))


◇あ    し◇
二上山大阪府側からは近鉄長野線喜志駅からバス六枚橋
下車徒歩。 
奈良県側からは近鉄南大阪線当麻寺駅下車徒歩。
飛鳥戸神社近鉄南大阪線上ノ太子駅下車徒歩10分。 
竹内街道大阪府側は近鉄長野線喜志駅からバス六枚橋下車。 
奈良県側は近鉄南大阪殿磐城駅下車徒歩。
竹内街道歴史資料館、
旧山本家住宅、二上山万葉の森
大阪府側は近鉄長野線喜志駅からバス六枚橋下車。
大阪府立近つ飛鳥博物館近鉄長野線喜志駅からバス阪南ネオポリス下車
徒歩10分。
大阪府立近つ飛鳥風土記の丘近鉄長野線喜志駅からバス阪南ネオポリス下車。 
◇問い合わせ先◇
太子町役場産業課0721−98−5525 
羽曳野市役所広報課0721−58−1111 
二上山万葉の森0721−98−1558 
竹内街道歴史資料館0721−98−3266 
大阪府立近つ飛鳥博物館0721−93−8321
大阪府立近つ飛鳥風土記の丘0721−93−4662

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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歴史街道推進協議会