月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・歴史秘めた山里 

 修験の山・大峰山をはじめ奈良県南部の吉野熊野国立公園内とその周辺の山々には、修験の道を究めようとした行者たちの足跡、追われた者をかくまってくれた吉野での義経・静御前の悲話、その義経ら源氏に滅ぼされた平家の落人の生活、南北朝時代の南朝の悲話など、山深い谷間の里にはこうした多くの歴史が秘められている。今回はこのような歴史を秘めた山里を訪ねてみた。


 
洞川・行者の聖地(天川村)  放送 7月28日(月)
 標高1719mの大峰山、正式には山上ヶ岳と言う。1300年前の白鳳年間に修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が、厳しい修行の末に金剛蔵王権現を感得して以来、修験道の聖地となり、今なお大勢の山伏姿の行者たちが入山して行に励んでいる。修験道の根本道場となっているこの山は、開山以来女人禁制を守り続けている。しかし21世紀となった今日、女性たちの間から「国立公園内の山に女性を登らせないのは差別であり、広く女性にも開放すべきである」との声が高まっており、今後の対応が注目されている。
 山上ヶ岳の頂上には修験道の寺・大峰山寺があり、毎年5月3日の戸開式から9月23日の戸閉式までの間、大勢の山伏姿の行者たちがこの大峰山寺を目指して登って行く。

洞川

(写真は 洞川)

役行者像(龍泉寺)

 山上ヶ岳の麓にある天川村洞川は、こうした行者たちの登山基地であり、行者たちが泊まる旅館が軒を並べている。また、この町に山上ヶ岳頂上の大峰山寺の護持院のひとつである龍泉寺がある。この寺は山上ヶ岳で修行していた役行者が洞川に下り、そこで見つけた泉のほとりに八大龍王尊をまつって修行したのが始まりと伝えられている。八大龍王の龍と役行者が見つけた泉に因んで龍泉寺の寺名が生まれた。
 龍泉寺は修験道中興の祖と言われる理源大師・聖宝(832〜909)によって再興された。真言宗醍醐派の別格本山となり、大峰山の登山口での根本道場として行者たちの修行の場となっている。

(写真は 役行者像(龍泉寺))

 役行者が見つけた泉がわき出ているところが竜の口。この水が流れ込む水行場では、行者たちが般若心経を唱えながら水行をして身を清め心を新たにし、八大龍王尊に道中の安全を祈願して山上ヶ岳へ入山する。
 龍泉寺本堂には本尊の弥勒菩薩像と修験道の開祖・役行者像、修験道中興の祖・理源大師像、龍泉寺で修行した弘法大師像がまつられている。寺の庫裏と便殿は彦根城にあった大正天皇の行在所を移築したもので、総桧造の便殿は修験の根本道場にふさわしい威容を見せている。
 龍泉寺境内裏の龍泉寺山は樹齢数百年の大木が茂る原生林で、吉野熊野国立公園洞川自然研究路になっており、高山植物などが楽しめる。

水行場(龍泉寺)

(写真は 水行場(龍泉寺))


 
名水の里(天川村)  放送 7月29日(火)
 天川村には大峰山に源を発する水の流れがいくつもあり、その渓流沿いには見事な景勝地がいくつもあるほか、豊かな名水がわき出ている。山上ヶ岳を源にする山上川にはは、他の川と合流して天の川となるまでの間にあるみたらい峡がある。沿岸の大岩壁、岩石に激しくぶつかって水しぶきをあげる渓流、川に流れ落ちる大小の滝などがあちこちにあり、見事な渓谷美を造り出している。
 初夏の新緑、夏には渓流と緑陰の涼しさが満喫でき、秋は燃えるような紅葉が楽しめる。澄みきった清流にはアマゴ、イワナなどの渓流魚が泳ぎ、渓流釣ファンを楽しませてくれる。

面不動鍾乳洞

(写真は 面不動鍾乳洞)

泉の森

 天川村洞川はカルスト台地(石灰岩台地)で、地下水によって浸食された洞穴が多い。そのひとつが龍泉寺のすぐそばにある面不動鍾乳洞で、地底で何千年もの時をかけて形造られた鍾乳石の不思議な造形が見られる。
 面不動鍾乳洞は昭和8年(1933)に地元民によった発見されたもので、奈良県の天然記念物に指定されている。長さ約150mの洞窟内には釣鐘状や乳房のような形をした鍾乳石が天井からぶら下がり、地表にはタケノコのような形の石筍(せきじゅん)が並び、幻想的な光景を作り出している。これらの鍾乳石は炭酸カルシウムを含んだ地下水が滴り落ちてできるもので、100年間に1cmほどしか大きくならないと言われている。洞川には他に五代松鍾乳洞もある。

(写真は 泉の森)

 修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が洞川でわき出る泉を見つけ、八大龍王尊をまつって修行したように、洞川ではあちこちできれいな泉がわき出ている。
地元民らが神の水と呼ぶ湧水群の中でも有名なのが「森の泉」「ごろごろ水」「神泉洞」で、病を治す霊水とも言われている。龍泉寺の北、徒歩で約15分ほどの所にある「泉の森」は公園風に整備され、わき出た水が小さな流れを作っている。名水百選に選定されている「ごろごろ水」は有名で、遠方から車で数時間かけてこの水を汲みに来る人が多い。水汲みの車で道路がふさがれ、通行に支障をきたすようになり、近くに有料駐車場を作り道路を駐車禁止にしたほどだ。
 この湧水のおいしい水で作った豆腐が「名水豆腐」として評判になり、こちらも遠くから車でこの豆腐を買い求めに来る人がいる。

名水豆腐(山口屋)

(写真は 名水豆腐(山口屋))


 
天河大弁財天社(天川村)  放送 7月30日(水)
 山上ヶ岳で修業中の役行者(えんのぎょうじゃ)が鎮護国家の祈願をした際、最初に出現したのが弁財天だった。しかし、山上ヶ岳は女人禁制だったので大峰山系の最高峰の弥山に大峰山の鎮守としてまつった。その後、天武天皇が弥山の弁財天を現在地に移したのが、天河大弁財天社の始まりと伝えられている。弥山神社は天河大弁財天社の奥宮として今なお信仰を集めている。
 弘法大師・空海が中国・唐から帰国後、高野山を開く前に大峰山で修行した。その主な修行の場が天河大弁財天社で、空海が唐から持ち帰った密教の法具「五鈷鈴(ごこれい)」や「ア字観碑」など空海の遺品が弁財天社に伝わっている。

社殿

(写真は 社殿)

能舞台

 天河大弁財天社は鳥居をくぐり、石段の参道を登ると本殿と能舞台がある。本殿の真ん中と右の脇間に弁財天像がまつられている。脇間の弁財天像は60年ごとに開扉される秘像。弁財天像には琵琶を奏でる姿と八臂(はっぴ)の像があるが、天河大弁財天社の像はいずれも八臂の像である。
弁財天は水の神として崇敬され、川や海、湖、池などの水辺に多くまつられている。
また妙音天とも呼ばれ音楽の神、芸能の神としても崇められている。琵琶を演ずる姿などがそれを表している。天河大弁財天社の弁財天は芸能の神、殊に能楽、狂言の神として古来から信仰され、能楽が奉納されてきた。

(写真は 能舞台)

 室町時代中ごろ能楽の世阿弥(観世元清)の長男元雅(十郎)は優れた能役者、能作者だったが、従弟の音阿弥元重が6代将軍足利義教に重用されため父とともに冷遇されていた。その元雅が祈願成就のため能楽を天河大弁財天社に奉納し、能面を寄進した。その後、能楽関係者から能楽の奉納、能面や能装束の寄進が続いた。
 弁財天社には室町時代から桃山、江戸時代にかけての能面31面、能装束30点のほか小道具、能楽謡本など能楽関係の資料が多数保存されている。その中には世阿弥も使ったの思われる面や豊臣秀吉が寄進した絢爛豪華な能装束もある。毎年7月17日の例大祭には、観世流やその他の流派の能が境内の能舞台で奉納され、能鑑賞の参詣者でにぎわう。

神事能

(写真は 神事能)


 
平維盛歴史の里(野迫川村)  放送 7月31日(木)
 全国各地の山深い里には平家の落人伝説が残っている。奈良県の西南端、和歌山県と境を接する山間の地・野迫川村の平の里にも平家落人伝説が伝わっている。
 平清盛の孫・維盛(1158〜84)は通称・桜梅少将と呼ばれ、平氏の嫡流として若い時から重要な地位につき、当代随一の美男子と言われた平氏の若武者だった。
平家物語によると源氏の軍勢に追いつめられた平氏軍は、瀬戸内海の讃岐国屋島で源義経の軍勢と戦って敗れ、長門国壇ノ浦へ逃れた。維盛は屋島の戦いで敗れた後、出家して熊野に逃れ、熊野灘の那智浦で入水して生涯を終えたとされている。

平の里

(写真は 平の里)

維盛塚

 しかし一説では平家追討と避けて熊野、吉野の山中を転々として生涯を終えたとも言われている。美男子の平氏の若武者・維盛には数々の伝説が伝わり、紀伊半島の熊野、吉野の山間地にも「維盛伝説」が語り継がれてきた。
 野迫川村には「維盛塚」があり、塚の前には「小松三位左中将 平維盛」の石碑が建てられている。村民たちは「わが村が維盛終焉の地」として、維盛の霊を供養をしてきた。野迫川村では維盛塚一帯を「平維盛歴史の里」として整備し、伝承のロマンを再現している。

(写真は 維盛塚)

 「平維盛歴史の里」は歴史資料館を中心にいくつもの施設が整えられている。資料館では維盛にまつわる多くの資料や伝承を映像、ジオラマ、複製品などを使って展示している。舞楽の青海波を舞う維盛の姿が再現されているコーナーでは、訪れた人たちが維盛への思いを馳せることができる。また、園内には花鳥風月の4つの庭を設け、この庭がゆっくり鑑賞できるように、それぞれに観花亭、観鳥亭、観風亭、観月亭と名づけた建物を配している。
 維盛塚の高台には展望台があり、吉野の山並みを眺めながら自然に浸り、都会の喧騒を忘れるのには最適な場所と言えそうだ。園内にはレストランもあり、ゆっくり食事も楽しめる。

平維盛歴史の里

(写真は 平維盛歴史の里)


 
立里の荒神さん(野迫川村)  放送 8月1日(金)
 野迫川村のほぼ中央に標高1260mの荒神岳がそびえ立っている。そのピラミッド型の山頂に鎮座するのが立里(たてり)の荒神さんと呼び親しまれている荒神社(こうじんしゃ)。弘法大師・空海が高野山を開く前に建立したと伝えられており、日本三大荒神のひとつとも言われ、各地から参詣者が訪れている。
 祭神の火産霊神(ほむすびのみこと)は三宝荒神とも言い、火伏せの神として崇敬され、関西では台所のかまどの神として昔から人びとに親しまれ崇められてきた。

参道

(写真は 参道)

社殿

 荒神社縁起によると弘法大師は高野山開基に際し、伽藍(がらん)繁栄、密教守護、悪魔降伏などのために神社を建立しようとしたところ、黒雲の中から異形の夜叉神が現れた。大師が「何者ぞ」と問うと「荒神岳に住む神なり」と答え「我をまつれば大願成就する」と言った。大師が木の板に三宝荒神の像を描いてまつり、祈願したのが立里荒神社の始まりで、大師念願の高野山の伽藍も無事建立されたとある。
 弘法大師は高野山開基の後も毎月、立里荒神社に参詣しており、大師亡き後も高野山の高僧たちが参詣していたと伝えられている。

(写真は 社殿)

 立里荒神社の本殿は21年ごとに建て替えられてきたが、現在の本殿は昭和7年(1932)に建立されたもので、21年ごとの建て替えのサイクルは現在は崩れてきている。
 荒神岳の山頂に位置するだけに荒神社境内からの眺望が素晴らしく、殊に雲海から昇る朝日の光景は絶景で感動的である。眼下に広がる雲海の中に山々の峰が海に浮かぶ島のようで、このような見事な雲海が眺められる場所はそれほど多くない。見事な雲海が出現するのは、夏から秋にかけて雨の日の翌日が晴れた早朝、日の出から数時間が最高とのこと。但し自然現象のことで雲海が現れない日もあり、自らの幸運を祈るしかない。

雲海

(写真は 雲海)


◇あ    し◇
龍泉寺、面不動鍾乳洞近鉄吉野線下市口駅からバス洞川温泉下車徒歩5分。 
泉の森近鉄吉野線下市口駅からバス洞川温泉下車徒歩20分。
天河弁財天社近鉄吉野線下市口駅からバス坪内下車徒歩5分。 
平維盛歴史の里南海電鉄高野線高野山駅からバス野迫川役場前で乗り換え平下車。
荒神社(立里の荒神さん)南海電鉄高野線高野山駅からバス立里荒神社前下車
徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
天川村役場企画観光課0747−63−0321 
天川村総合案内所0747−63−0999 
洞川温泉観光協会0747−64−0333 
龍泉寺0747−64−0001 
面不動鍾乳洞0747−64−0352 
名水豆腐山口屋0747−64−0509
天河弁財天社0747−63−0558 
野迫川村役場企画産業課07473−7−2101 
平維盛歴史の里07473−8−0047 
荒神社(立里の荒神さん)07473−7ー2001 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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