月〜金曜日 21時48分〜21時54分


夏の甲子園 

 今年も高校球児の熱い夏の戦い、夏の甲子園・第83回全国高校野球選手権大会が8月8日から阪神甲子園球場で繰り広げられる。大正4年(1915)に始まった高校野球の歴史には、数々の熱戦のほかに球児たちのドラマや大会を支えてき人たちの献身的な努力と苦労があった。


 
球史ここに始まる  放送 7月30日(月)
高校野球メモリアルパーク(豊中球場跡) 夏の高校野球がうぶ声をあげたのは、大正4年(1915)8月18日、豊中球場で行われた「第1回全国中等学校優勝野球大会」だった。
 代表校わずか10校に過ぎなかった第1回大会だったが、その意義は大きく今日の高校野球の礎となった。その意義深い第1回大会の舞台となった豊中球場は、赤レンガの塀に囲まれ、100人が収容できる木製スタンドがあった程度のものだった。
 豊中球場があった豊中市玉井町3丁目付近は住宅街になっており、今はその面影すらない。球場跡に建設された高校野球メモリアルパークに「高校野球発祥の地」や「第1回大会の始球式」のレリーフなどがある。


(写真は 高校野球メモリアルパーク(豊中球場跡))

「球史ここに始まる」レリーフ 中等学校野球大会は予想をはるかに上回る人気を集め、豊中球場では観客を収容しきれなくなり、第3回大会から西宮市の鳴尾球場に会場を移した。当時の鳴尾競馬場のトラックの内側に2つの野球場を設けた。鳴尾球場に移った第3回大会から出場選手が開会式で入場行進を行うようになり、開会式にも人気が集まった。鳴尾球場に移ってからも中等学校野球の人気は高まる一方で、第9回大会の準決勝戦では観客が次から次へと押しかけ、スタンドの観客が後ろから押されてグランドになだれ込む騒ぎが起こった。
 この騒ぎがきっかけになって阪神電鉄は、大観衆を収容できるマンモス球場の建設に着手した。着工から完成までわずか4ヶ月半という突貫工事で、大正13年(1924)8月1日に現在の阪神甲子園球場の「甲子園大運動場」が完成し、第10回大会が行われた。
 甲子園の名称は、球場が完成した大正13年が十干、十二支がどちらも最初の「甲(きのえ)」と「子(ね)」と言う、60年に1度巡ってくる年だったことから名付けられた。
(写真は 「球史ここに始まる」レリーフ)


 
高校野球観戦史  放送 7月31日(火)
鳴尾球場顕彰記念碑 豊中球場で始まった全国中等学校野球大会の人気は予想以上のものだった。鳴尾球場へ舞台を移してから中等学校野球は全国の野球ファンに見守られて大きく育ち、観客はうなぎのぼりに増えた。そして甲子園球場へ大きく羽ばたき、今日の夏の国民的イベント・夏の高校野球へと発展してきた。
 ファンの熱狂ぶりはすでに鳴尾球場時代に芽生えていた。スタンドでは母校の選手たちに熱い声援を送り、そのプレイに一喜一憂する姿が見られた。鳴尾球場での最後の大会となった第9回大会では、観客がグランドのなだれ込む騒ぎで試合が一時中断したり、球場近くの高圧線の電柱によじ登って観戦するファンも現れる始末で「感電死せぬか」と大会関係者をはらはらさせた。また、木によじ登って観戦するファンもあり「タダのうえに涼しくて言うことなしですわ」とご機嫌の様子だった。
(写真は 鳴尾球場顕彰記念碑)

阪神甲子園球場 大正13年(1924)に完成したマンモス球場・阪神甲子園球場は収容人員5万人。
「こんな大球場を観客で埋めることができるだろうか」との甲子園球場関係者の危惧を、中等学校野球ファンの熱狂ぶりが吹き飛ばし、大球場はたちまち大観衆であふれてしまった。昭和5年の第16回大会ごろから野球狂時代と言われるようになり、若槻礼次郎首相も観戦に訪れるほどで、さしもの甲子園球場も観客を収容しきれない試合がでた。「入場券売り切れ」の張り紙がされ、入場口の門を閉ざすこともしばしばあった。入場できなくなったファンは「ここまで来て素直に帰れるか」と外野の壁をよじ登って球場内に潜り込む無法者も出る始末だった。また、甲子園球場の高い大煙突によじ登って空中観戦する酔狂なファンも出た。
 ラジオやテレビの実況中継がなかった時代は、球場に駆けつける以外に中等学校野球の試合を観戦する方法はなかった。大正15年(1926)には大阪・中之島の公開堂前に試合経過を知らせる速報板「プレヨグラフ」が設けられ、熱心な中等学校野球ファンが速報板の前に群がりかたずを飲んで試合経過を見つめていた。日本放送協会大阪中央放送局によるラジオ中継が始まったのは昭和2年の第13回大会からだった。
(写真は 阪神甲子園球場)


 
青春のプラカード  放送 8月1日(水)
西宮市立西宮高等学校 全国高校野球選手権大会開会式の入場行進で、代表校のプラカードを持って選手を先導する女子高校生の姿は、もうすっかりおなじみ。このプラカードを持てるのは、西宮市立西宮高校の女生徒たちで、晴れの舞台に立つことが決まって喜ぶ女生徒たちの笑顔には「ここにも夏の甲子園が……」を感じさせる。
 この“プラカード嬢”が初めて登場したのは、昭和24年(1949)の第31回大会からで、その創始者が西宮市立西宮高校の岸仁先生だったことから、現在までこの大役は同校の女生徒が独占している。プラカードを持った女生徒たちは、自分が先導した代表校の優勝を願っているが、最後に選手と同じように優勝の感激に浸れるのは一人だけだ。
(写真は 西宮市立西宮高等学校)

感謝状 第31回大会が始まる年の夏休み直前に、3年生の女子生徒全員が突然招集され、歩く審査を受けた。選ばれたのは補欠も含めて30人ほどで、身長は160cm前後に統一された。大会までにほうきを持って行進の練習をしたそうだ。
 初代プラカード嬢の大役を務めた笹村環さんは、当時をふり返り「私たちが失敗するとこの試みが今回限りで終わりになるかも知れないと、持ちなれぬプラカードに神経を集中して行進しました」と、昨日のことのように話す。
 現在は女子マネージャーが選手と一緒にベンチ入りできるようになり、吹奏楽や大会歌を合唱するメンバーにも女生徒が数多く参加している。開会式の進行役を女生徒が男子生徒と2人で行う時代になり、女子高校生たちは、都道府県大会を含め高校野球を支える大きな力になっている。
(写真は 感謝状)


 
白球の森  放送 8月2日(木)
白球の森 大正6年(1917)から7年間、中等学校野球大会が開かれた西宮市の鳴尾球場は、今はその姿はないが、その跡地一帯は鳴尾浜運動公園となっている。その鳴尾浜運動公園の一角に「白球の森」がある。昭和58年(1983)の第65回記念大会の記念事業として、全国47都道府県の木を兵庫県に贈り「白球の森」として育て、緑化運動の啓蒙に一役買うことになった。
 北は北海道から南は沖縄まで全国から持ち寄られた都道府県の木は18年経った今、すくすくと成長して公園内に緑の木陰を作っている。ちなみの近畿地方の各府県の木は、大阪府・イチョウ、京都府・キタヤマスギ、兵庫県・クスノキ、滋賀県・モミジ、奈良県・スギ、和歌山県・ウバメガシ。
(写真は 白球の森)

甲子園球場70周年顕彰記念碑 白球の森の緑陰に記念モニュメント「青春の栄冠」のブロンズ製レリーフがある。彫刻家・田村務氏の作品で、勝利の瞬間にバッテリーにかけよる選手の群像が描かれている。
 鳴尾球場の後、大正13年(1924)の第10回大会からの舞台となった阪神甲子園球場も、平成6年(1994)に開設70周年を迎え、日本高等学校野球連盟、朝日新聞社、毎日新聞社から建設当時の姿をしたブロンズ製モニュメントが贈られ、球場近くの遊歩道に建てられている。
 鳴尾球場、阪神甲子園球はいずれも西宮市にあり、豊中球場で開催された2回の大会を除く中等学校野球大会、戦後の全国高校野球選手権大会の舞台となっており“高校野球の町”とも言える。
(写真は 甲子園球場70周年顕彰記念碑)


 
宇宙を飛んだボール  放送 8月3日(金)
宇宙を飛んだボール 今年の第83回全国高校野球選手権大会の始球式には、宇宙を飛んだボールが使われる。投げるのはこのボールを宇宙まで持参し、スペースシャトル内でキャッチボールをした宇宙飛行士・若田光一さん。21世紀の幕開けの高校野球にふさわしい始球式で、高校野球も宇宙を巻き込んだスケールになった。
 若田さんは昨年10月に搭乗したスペースシャトル・ディスカバリーで、公式飛行品として高校野球の試合球と日本高等学校野球連盟旗を持参した。元高校球児の若田さんは、史上初めて宇宙船内で硬式球でキャッチボールをしたり、目覚ましがわりに大会歌の「栄冠は君に輝く」をCDで聴いたと言う。
(写真は 宇宙を飛んだボール)

縫製工程(ミズノインダストリー阿山) 高校球児にとって白球は悲喜こもごもなドラマを生んでいる。選手たちはこの白球に全神経を集中する。投手の手から放れた白球を見つめパットを振る。バットにはじかれた白球は甲子園球場の夏空に飛ぶ。この白球を追って野手が全力でかけ寄る。好投していた投手が一球の失投で敗れ涙を飲んだ試合。敗色濃い9回裏にバットがとらえた白球が逆転につながり勝利を手にした打者。ドラマは数限りなく生まれてきた。
 高校野球の公式試合球を作っているのが、三重県阿山町にあるミズノインダストリー阿山の工場。工場では新しい羊毛糸を使って均一に堅く巻き上げ、良質の牛皮で包みしっかりと縫い合わせる。1個のボールができ上がるのに22の工程を経る。機械化が進んでいる中で、微妙なフィリングが求められる縫い合わせ作業は、いまだに熟練者の手に頼らなければならない。この工場は世界でも例のない硬式野球ボールの一貫製造工場で、高校野球のほかにオリンピック、大学野球、社会人野球など主な野球大会の公式試合球を作り続けている。今、甲子園で使う公式球の製造が追い込みに入っているが、このなから今年も何球かは“歴史に残る球”になるはずだ。
(写真は 縫製工程(ミズノインダストリー阿山))


◇あ    し◇
高校野球メモリアルパーク阪急宝塚線豊中駅下車 徒歩10分。 
阪神甲子園球場阪神甲子園駅下車。 
白球の森(鳴尾浜運動公園内)阪神甲子園駅からバス浜甲子園下車。 
◇問い合わせ先◇
日本高等学校野球連盟06−6443−4661 
阪神甲子園球場0798−47−1041 
阪神電鉄広報課06−6457−2130 
朝日新聞社広報室06−6201−8435 
ミズノ(株)広報宣伝部06−6614ー8373 
(株)ミズノインダストリー阿山0595−43−1055 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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