月〜金曜日 18時54分〜19時00分


南河内の社寺 

 大阪で最も早く文化が開けたのが石川と大和川の合流付近の南河内。旧石器時代から縄文、弥生時代を経て古墳時代にいたる遺跡が多い。中国や朝鮮半島からの渡来人が多く住み、高い文化や技術を広めた。この地方には巨大な前方後円墳をはじめ多くの古墳が集中しており、わが国の古代文化の発祥地とされている。こうした古代社会の中で土地の人びとたちと深いかかわりを持った社寺を訪ねた。


 
西国三十三カ所第五番札所・
葛井寺(藤井寺市) 
放送 8月25日(月)
 葛井寺(ふじいでら)は神亀2年(725)聖武天皇の勅願によって行基が開創したと伝えられている南河内の古刹だが、百済系渡来人・葛井氏の氏寺として建立されたと見るのが通説となっている。寺に伝わる「葛井寺参詣曼荼羅(さんけいまんだら)」によると、創建当時は金堂、講堂、東西両塔を備えた薬師寺式の伽藍(がらん)を誇っていた。その後、南北朝時代の戦乱による兵火や地震で堂塔が焼失、倒壊、現在の本堂、南大門は江戸時代中期に再建されたものである。旧南大門で現在は西門へ移築された四脚門(国・重文)は、豊臣秀頼が慶長6年(1601)に建立した。葛井寺に現存する建物の中で最も古いもので、桃山時代の様式や意匠が各所に取り入れられた門として貴重な存在。

南大門

(写真は 南大門)

本堂

 本尊の十一面千手千眼観世音菩薩座像(国宝)は、創建当時から無傷のままその姿を今に伝えている。また、この十一面千手千眼観世音菩薩座像は胸の前で合掌している2本の大きな手、仏具を持つ40本の中型の手、さらに1001本の小さな手があり、全部で1043本の手を持ち、そのすべての掌に眼が刻まれている。千手観音像は合掌する手と合わせて42本の手を持っているのが一般的とされ、実際に1000本の手がある観音像は、葛井寺の本尊を含めて数例しかない。また葛井寺の本尊はなぜか1001本と1本多いのも謎である。
 頬のふくらんだ丸い顔立ち、先をとがらせた抑揚のある鼻や唇、細くしなやかな体形は、東大寺法華堂の諸像と同じく天平時代の作風と言える。

(写真は 本堂)

 本尊は秘仏で毎月18日の御開帳の日に、厨子の扉が開けられその姿を拝観することができる。千の眼で人びとを導き、千の手で迷える衆生を救うとされる葛井寺の十一面千手千眼観音像は、平安時代から西国三十三カ所第5番札所として信仰を集め、今も観音巡礼の参詣者が毎日絶えない。
 西国三十三カ所の観音霊場を巡拝した花山法皇が、葛井寺を参拝した時に「まいるより たのみをかくる ふじいでら はなのうてなに むらさきのくも」と詠まれると、本尊の眉間から紫煙が出て、その煙が聖武天皇寄贈と伝えられる石灯籠までたなびいたと伝えられている。この歌は葛井寺の御詠歌となり、紫雲がたなびいた灯籠は紫雲石灯籠と呼ばれるようになった。傷みが激しいため、今は裏庭に保存され本堂前の紫雲石灯籠は明治時代に作られたレプリカである。

紫雲石の燈籠

(写真は 紫雲石の燈籠)


 
葛井寺から藤井寺へ
(藤井寺市) 
放送 8月26日(火)
 西国三十三カ所第五番札所の葛井寺(ふじいでら)は、観音巡礼の霊場でありながら親しみ深い雰囲気の霊場で、参詣者も明るい表情で和やかに寺へ向かっている。
近鉄南大阪線の藤井寺駅のすぐそばの商店街の中に寺があり、藤井寺市の駅前商店街の中を通って寺に参るので商店街が参道のようなもの。まるで買い物にでも行くような気分で参詣できるのが、巡礼者たちの気分をやわらげるのに役立っている。
 さらに南河内の大阪人らしい気さくな商店街の人たちの接し方や、商店街と寺が一体になった雰囲気が、参詣者らには何よりの歓迎になるのであろう。

四脚門

(写真は 四脚門)

藤

 葛井寺は創建以後、南北朝時代の戦乱による兵火で堂塔が焼失したり、地震による伽藍(がらん)の倒壊など幾多の困難に遭遇した。こうしたことから寺が荒廃した時期もあったが、平安時代の永長元年(1096)大和の人で藤井安基と言う人物が、伽藍の大修理に努めて再興した。この人物の姓が藤井だったことから藤井寺とも呼ばれるようになり、現在の地名となり市の名称にもなった。
 藤井と言う人物については大和国・軽の里(現・奈良県橿原市大軽町)の人と言うぐらいしかわかっていない。どのような人物だったのか、葛井寺とはどのような関係だったのかなど詳しいことは不明である。

(写真は 藤)

 葛井寺と藤井寺の両呼称の二つの「ふじ」の文字を合わせると「葛藤」。葛(かずら)や藤のつるがもつれからむことから「もつれ」「いざこざ」「もんちゃく」「争い」などの意味を持つ。葛井寺境内にある藤のつるは、もつれながらも藤棚にすがって上へ横へと枝を伸ばしその視野を広げており、人間の生き方を教えているようでもある。
 南大門近くに喫茶店を兼ねた休憩所がある。この休憩所の名が「ヴィクリディタサマデ」と言う。気持ちを落ち着け、息抜きをし、ゆとり、余裕、遊びの場、空間を表す意味。仏様のそばで人生の迷いやストレス、悩みを断ち切れとのことかもしれない。

ヴィクリディタ サマデ

(写真は ヴィクリディタ サマデ)


 
野中寺(羽曳野市)  放送 8月27日(水)
 野中寺(やちゅうじ)は寺伝によると1400年近く昔、聖徳太子の命によって蘇我馬子が造営したと伝えられ「中の太子」と呼ばれている。実際はこの地方を本拠地としていた百済系渡来人の氏族・船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建された考えられている。
 太子町・叡福寺を「上の太子」、八尾市・大聖将軍寺を「下の太子」と言い、野中寺とあわせて「河内三太子」と呼び、聖徳太子が建立した41院中の寺である。聖徳太子創建の四天王寺を振出しに下・中・上と太子寺を巡る太子信仰の太子巡礼が盛んであった時代もある。

塔跡

(写真は 塔跡)

金銅弥勒菩薩思惟半跏像

 7世紀半ばから8世紀にかけて造営された野中寺の創建当時の伽藍(がらん)は、南北朝時代の争乱による兵火でことごとく焼失した。境内に残る礎石から創建当時は東に金堂、西に塔を配置する法隆寺式伽藍配置だったことがわかる。野中寺の場合、金堂と塔が向かい合っていたことに特徴があり、中門跡、講堂跡、回廊跡とともに「野中寺旧伽藍跡」として国の史跡に指定されている。
 塔跡の中心の礎石は添柱穴が3つあるのと、柱穴側面に横穴式の舎利を納める小さな穴があり、他に例を見ない塔の礎石である。現在の本堂などの建物は江戸時代に再建されたものである。

(写真は 金銅弥勒菩薩思惟半跏像)

 金銅弥勒菩薩半跏思惟像(国・重文)が野中寺を有名にしている。わずか30.6cmの弥勒菩薩像だが、台座のまわりに造像銘が刻まれている。それによると天智天皇5年(666)斉明天皇が病になり、大勢の人が病気平癒を祈願して造立したとある。
製作年代、像名が銘記されている極めて少ない例で、飛鳥時代末の貴重な仏像のひとつである。
 野中寺には朝鮮文化の影響が色濃く出ている笑みをうかべた石人像があり、渡来氏族の氏寺としての遺物と言える。また、比丘尼寮、沙弥寮、食堂(じきどう)、方丈の僧房は、僧侶の生活を知るうえで貴重な遺構とされている。現在の方丈は大和国の郡山藩柳沢家の別邸を移築したものである。

石人像

(写真は 石人像)


 
阿麻美許曽神社(松原市)  放送 8月28日(木)
 大和川の左岸の天美丘に建つ阿麻美許曽(あまみこそ)神社の所在地は、大阪市東住吉区矢田になているが、大和川左岸一帯の松原市天美地区の氏神である。近鉄南大阪線の電車が大和川を渡る時、西側にうっそうと茂る森が目に入る。そこが阿麻美許曽神社で、社伝によれば創建は大同年間(806〜809)とあり、平安時代初期の延喜式にも記された郷社だった。
 氏子地が松原市の天美地区、東住吉区の矢田地区の七郷であることから「七郷の宮」とも呼ばれ、夏祭り、秋祭りには七郷の氏子が集まりにぎわう。

拝殿

(写真は 拝殿)

狛犬

 神社名の「阿麻美」は朝鮮半島からの渡来人氏族・依羅連(よさみのむらじ)の祖先の名に由来すると考えられ、地名の天美はこれが転化した。珍しい「許曽」の呼び名は、朝鮮半島の古代国家・新羅の国の言葉で、敬称の「様」の意味や祭祀や神社の森を意味すると言われる。この言葉を裏付けるように境内には樹齢500年を超すクスノキの大樹が茂り、緑深い森を形作っている。
 阿麻美許曽神社の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)だが、神社のいたるところに渡来人の影響が表れており、創建当時は渡来人の祖先を祭った氏神との見方もある。

(写真は 狛犬)

 明治維新の神仏分離令が出るまでは、境内に真言宗の神宮寺があった。この寺にかつて行基が居住していたと言われ「行基菩薩安住之地」と刻まれた石碑が立っている。神社のすぐそばの大和川には「行基大橋」と呼ばれる橋が架かっている。これも神宮寺に住んでいた行基が架橋に関係したことによるのだろう。行基は百済系渡来人・高志(こし)氏の出身であり、阿麻美許曽神社にあった神宮寺を安住の地としたこともうなずける。
 阿麻美許曽神社は現在、松原市天地地区の氏神だが、境内には歴史の深さを現す石造の狛犬や石灯籠などがあり、日本の古代社会との関わりの深さを秘めた神社と言える。

本殿

(写真は 本殿)


 
布忍神社(松原市)  放送 8月29日(金)
 近鉄阿部野橋駅から南東へ向かう南大阪線に布忍(ぬのせ)と言う駅があり、駅の北西には布忍神社がある。この神社の祭神は、ここから北西約2kmの大和川左岸に鎮座する阿麻美許曽(あまみこそ)神社から分神した。その時、白い布を敷いて神を迎えたことが、布忍と言う珍しい地名が生まれた由来だと言う。また、白布を敷いて迎えたので向井村とも言った。
 平安時代の弘仁6年(815)に作成された新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)に、河内国に布忍首(ぬのせおびと)と言う姓があったことが記されている。この記録からこの地方に布忍と名乗る豪族がいたことがわかるが、地名との関わりは不明である。

社殿

(写真は 社殿)

布忍八景の絵馬

 地名、神社の名称の由来はともあれ、この神社の氏子たちの各村では「毒虫の到ることなく神霊の奇瑞なり」と言い、古くから毒虫、病気退治や産業、交通の神として近郷の人びとの崇敬を受けていた。神社の創建の時期は定かでないが、今も境内にはクスノキの大木が茂り、江戸時代初期に再建された本殿をはじめ拝殿、弊殿、絵馬堂や末社が並んでおり、歴史の古さを感じさせる。
 また創建当時は神仏習合で布忍寺と呼ばれる寺があり、後に永興寺と改められた。
布忍神社はこの寺の守護神で、明治維新の神仏分離令で永興寺は廃寺となり、神社だけが残った。今は神社境内に寺跡が残っている。

(写真は 布忍八景の絵馬)

 300年前の江戸時代中期の宝永2年(1705)に描かれた「布忍八景」の絵馬が拝殿に掲げられている。この絵馬は中国の瀟湘(しょうしょう)八景にならい、28名が願主となって神社周辺の素晴らしい景色を絵師に描かせた。絵馬には詩文の上達を願い願主らの漢詩、和歌、俳句や先人の国学者の下河辺長流、契沖、俳人の小西来山の作品も書き連ねられている。絵馬に描かれた布忍八景の景色は、今はしのぶことすらできない。
 大正13年(1938)に布忍神社で興行された奉納相撲の番付板が残っている。
昔はあちこちの神社で見かけた番付板だが、今は珍しい存在になっている。また、昭和58年(1983)の本殿修復の際に、本殿板壁と脇障子から狩野探幽作と伝えられる唐獅子、随身像の絵が見つかり復元修理され保存されている。

番付絵馬

(写真は 番付絵馬)


◇あ    し◇
葛井寺近鉄南大阪線藤井寺駅下車徒歩3分。 
野中寺近鉄南大阪線藤井寺駅からバスで野々上下車徒歩2分。 
阿麻美許曽神社近鉄南大阪線河内天美駅下車徒歩15分。 
布忍神社近鉄南大阪線布忍駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
葛井寺0729−38−0005 
野中寺0729−53−2248 
阿麻美許曽神社0723−31−0123 
布忍神社0723−34−7634 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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  「歴史文化を活かした地域づくり」
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