月〜金曜日 18時54分〜19時00分


羽曳野市 

 羽曳野市は“竹内街道と大王のねむるまち”といわれている。大陸からの渡来人が早くから住みつき、土師器や陶磁器作り、金工細工など大陸の高い文化と技術を伝えてきた。
また、市内には日本で二番目の大きさの前方後円墳を初め、大小の古墳が数多くあることから大王の眠る町といわれている。宿場町、市場町として竹内街道、東高野街道筋には多くの史跡や寺院があり、関西でも有数の歴史と文化の町といえる。


 
誉田八幡宮  放送 8月26日(月)
 応神天皇陵は5世紀前半に造られた前方後円墳で、仁徳天皇陵に次いでわが国第2の巨大な古墳。古墳の全長415m、後円部直径267m、前方部幅330mで、元は2重の堀が巡らされていたが、後に外堀が埋められた。
 この陵の南に接して建つ誉田(こんだ)八幡宮は、応神天皇を主祭神として6世紀後半の欽明天皇時代に創建されたと伝えれるわが国最古の八幡宮である。当初は応神天皇陵の後円部の頂上に社殿を建立されたが、平安時代中期の永承6年(1051)に後冷泉天皇が、現在地に社殿を造営、誉田八幡宮と称したという。祭神が応神天皇であることから皇室の崇敬を集め、中世に入ってから皇室から分かれた源氏一族の氏神として崇敬された。鎌倉時代以降は源氏一門や各時代の将軍、一般の武士らの参拝も盛んになった。
 今は安産の神、商工業、学問、芸術、厄除のの神として庶民の信仰を集めている。現在の社殿は慶長年間(1596〜1615)に豊臣秀頼が寄進したものである。

塵地螺鈿金銅装神輿(国宝)

(写真は 塵地螺鈿金銅装神輿(国宝))

金銅透彫鞍金具(国宝)

 境内の宝物館には源頼朝の寄進と伝えられる塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ・鎌倉時代・国宝)や応神天皇陵の陪冢(ばいちょう)から出土した金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ・古墳時代・国宝)など、多くの宝物が保管されている。頼朝寄進の神輿は、神輿に付けられている垂衣(たれぎぬ)や錦織地などが染色資料として貴重であるほか、建築、漆工、金工面などからも総合的美術資料としてその存在が高く評価されている。
 秋祭りに国宝の神輿が、誉田八幡宮から応神天皇陵へ通じる参道ある太鼓形の石橋・放生橋を渡って、応神天皇陵へ渡御する。
 また、誉田八幡宮では古くから舞楽が盛んで、今も毎年5月8日の夏祭には舞楽が奉納されており、鎌倉時代から室町時代にかけての能面(国・重文)15面が残っている。

(写真は 金銅透彫鞍金具(国宝))


 
源氏のふるさと  放送 8月27日(火)
 羽曳野市の南端、壺井・通法寺地区は河内源氏の本拠地である。この丘陵地帯に立つと眼下に石川の流れに沿って開けた河内平野が一望でき、農業に適した土地であるとともに軍事・戦略的にも優れた地形をしている。
 寛仁4年(1020)河内国司に任ぜられた源頼信は壺井に本邸を構え、その子・頼義、孫の義家(八幡太郎)は戦で大いに活躍した。頼信の後を継いだ頼義は、河内源氏の棟梁として永承6年(1051)の前9年の役に出陣、大功をたてた。義家は元服式を石清水八幡宮で行ったので、八幡太郎義家と呼ばれるようになった。義家も前9年の役に父・頼義に従って出陣して戦功をたて、さらに永保3年(1083)の後3年の役にも出陣して大功をたて、武将としての地位を不動のものにした。その後、武将としては初めて朝廷の院への昇段を許され殿上人となった。
 義家から4代後に鎌倉幕府を開いた頼朝が出ており、義家の系統を源氏の総本家とする見方が強く、壺井・通法寺の地を「源氏のふるさと」と呼ぶ根拠になっている。

通法寺跡

(写真は 通法寺跡)

壺井八幡宮

 長久4年(1043)頼義が狩猟の途中、山中で拾った仏像を本尊として建てた通法寺は、河内源氏の菩提寺となった。その後、源平の盛衰と運命をともにし焼失、再建を繰り返した。保元、平治の乱後に平清盛に攻められ焼失したので、頼朝が再建したが、南北朝時代に平氏系の守護大名・畠山基国に攻められ焼失した。源氏の子孫・室町幕府3代将軍・義満が再建したが、平氏の子孫・織田信長によって焼き払われ、源氏の子孫・徳川第5代将軍・綱吉によって元禄13年(1700)再建された。明治初めの排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で廃寺となり、今は本堂跡の礎石や鐘楼、山門、通法寺と彫られた手水鉢と頼義の墓が残るだけの姿になっている。壺井八幡宮に残っている源氏の白旗は地中に埋められ兵火をまぬがれたと伝えれている。河内源氏の発祥の地の壺井には頼義の墓が通法寺跡、頼信と義家の墓は通法寺跡近くの丘の上にあり、源氏三代の墓として知られている。
 壺井八幡宮は康平7年(1064)頼義が前9年の役に出陣する際、戦勝を祈願した石清水八幡宮の神霊を勧請して私邸の東側に祭ったのが始まりとされている。義家(八幡太郎義家)が愛用したとされる黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる・国・重文)天光丸の太刀などがこの神社に残っている。また境内の樹齢800年といわれるクスノキ(大阪府指定天然記念物)は有名である。

(写真は 壺井八幡宮)


 
竹内街道  放送 8月28日(水)
 7世紀前半、推古天皇の時代に難波から飛鳥へ通じる道として整備された竹内街道は当時、わが国で初めての官道(国道)だった。中国、朝鮮半島からの使節や渡来人らが往来し、わが国から中国へ派遣された遣隋使、遣唐使らの外交団は、この街道を通り中国へ渡った。こうした外交の道、大陸からの文化伝来の道としてにぎわった竹内街道も都が奈良・平城京へ遷ってからはその使命を終え、主役の座から降りた。
 竹内街道と東高野街道が走る羽曳野市は交通の要衝として古くから大いに栄え、その沿道には今も多くの史跡が残っている。竹内街道を太子町側から北西にたどると月読(つきよみ)橋で飛鳥川を渡り、臥龍橋で石川を越えて古市の町へ。月読橋の近くに古今和歌集の中の「あすか河 もみじ葉ながる 葛城の 山の秋風 吹きぞしぬらし 人麿」の歌碑がある。飛鳥川の旧河川敷を利用した「であいのみち」は羽曳野市にゆかりの深い古墳時代、飛鳥時代を想定して整備された公園。古墳、山門などのモニュメントを作り万葉植物を植え、人との出会いの場となることを願う広場で、羽曳野市の重層的な歴史、文化を象徴している。

五重塔心礎(西琳寺)

(写真は 五重塔心礎(西琳寺))

白鳥陵古境

 西琳寺は百済から渡来した学者・王仁(わに)を祖とする西文氏(かわちのふみし)の氏寺として創建され、壮大な寺だったことを物語る五重塔心礎の巨石が残っている。
 近鉄南大阪線古市駅東の白鳥神社は日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭る神社。その墓といわれているのが前方後円墳の白鳥陵古墳。大和朝廷の全国統一の命を受けて出陣した日本武尊は帰途、伊勢で没した。日本武尊の魂は白鳥に姿を変えて大和へ飛び立ち、琴弾原(奈良県御所市付近)に降り立ち、さらに河内の古市に来て留まったとの白鳥(はくちょう)伝説がある。この3カ所にそれぞれ日本武尊の墓があり白鳥三陵といわれている。

(写真は 白鳥陵古墳)


 
吉村家住宅  放送 8月29日(木)
 吉村家の祖先は鎌倉時代初めにこの地方に住み着いた佐々木高綱の子孫でこの地方の豪族といわれている。後に農家に転じ、江戸時代中期以降は丹北、八上両郡18カ村の大庄屋となった豪農だった。
 吉村家の主屋は元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼けてから間もないころに建てられ、桃山時代の書院造りを取り入れた江戸時代の格式ある大庄屋の代表的建物である。主屋は戦前の昭和12年(1937)に民家では最初の国宝に指定され、戦後の昭和25年(1950)に国の重要文化財に再指定された。昭和40年(1965)長屋門、土蔵、中門が、昭和54年(1979)に宅地、溜池もそれぞれ重要文化財にしてされ、家、屋敷全体が重要文化財になった。
 江戸時代初めの建築後に何度も改造されているが、昭和26〜28年(1951〜53)にかけての解体修理で建築当初の姿に復元された。

長屋門

(写真は 長屋門)

主屋

 主屋の中へ一歩入ると広々とした土間や太い柱、梁が目に飛び込み、豪壮な建物を目の当たりにすることができる。約100平方m(30坪)もある広い土間には大きなかまどがあり、大勢の働き手の食事を賄った様子がうかがえる。土間に続く板の間の上には吊り部屋になった女中部屋が見え、その下の壁面には櫛形に作られたはしごがあり、これが扇型の壁飾りにも見え、当時は斬新で面白いデザインだったのではないだろうか。
 格式の高い大庄屋だった吉村家には役人や目上の人たちの来客が多く、そのために居住部とは別の玄関から出入りする客室部を作られている。書院作りを取り入れた客室部の欄間は巴、ボケ、カタバミ、剣菱などを配した透かし彫りが施された見事なもの。各部屋の釘隠し金具、ふすまの引き手、明障子(あかりしょうじ)のさんの組み合わせをそれぞれ変えるなど、各部屋の随所に凝った意匠が見られる。
 2002年秋は10月12、13、14日に特別公開される。予約制で問合せ先は羽曳野市役所文化・歴史史料室(電話0729−58−1111)となっている。

(写真は 主屋)


 
河内ぶどう  放送 8月30日(金)
 羽曳野市と柏原市、太子町の山々にはブドウ畑が広がり、デラウエア種の河内ブドウが季節になると、豊かに実っている。
果実栽培に適した土壌、気候条件に恵まれたこの地で、明治時代中ごろブドウ栽培が始まった。以後栽培面積が広がってブドウ栽培が盛んになり、昭和時代初めには河内一帯の生産高が全国1位になったこともあった。また恵まれた土壌に育まれて実ったブドウは糖度が高く、観光ブドウ園を訪れる家族連れは「おいしい」とその味を満喫している。
 昭和9年(1934)の室戸台風でブドウ棚が大被害を受けた。これを契機に河内ワインの創業者・金銅徳一氏がワイン作りを提案、この時から河内ワインの醸造が始まった。河内ブドウを100%使った「河内ワイン」は、大阪の地ワインとしてその名が知られるようになり、こくのある味で人気を集めている。

デラウェア

(写真は デラウェア)

葡萄圧搾機(河内ワイン館)

 河内ワイン館は平成9年(1997)にオープンした。館内には昔使われたブドウの破砕機、圧搾機などのワイン造りの道具類や熟成用の樫材の木樽がが展示されている。醸造元の河内ワインの木樽の保有数は日本一を誇り、中には江戸時代の木樽も現役として活躍している。
 河内ワインの瓶がずらりと並んでいる河内ワイン館では、家族や自分の写真、メッセージを書き込んだオリジナルラベルを作り、瓶に貼ってプレゼント用のワインが作れる。ラベルに新郎新婦の写真入りのプライダルワインも引き受けており、結婚式の引き出物として人気を集めている。
 ワインの歴史や醸造工程を見学するだけでなく、ワインを口にしながらお好みのラベル作りなどが楽しめる館である。

(写真は 葡萄圧搾機(河内ワイン館))


◇あ    し◇
応神天皇陵近鉄南大阪線道明寺駅下車徒歩15分。 
誉田八幡宮近鉄南大阪線古市駅下車徒歩8分。 
壺井八幡宮近鉄長野線喜志駅からバス太子四つ辻下車徒歩15分。 近鉄南大阪線上ノ太子駅下車徒歩20分。 
通法寺跡、源氏三代の墓 近鉄長野線喜志駅からバス太子四つ辻下車徒歩10分。近鉄南大阪線上ノ太子駅下車徒歩20分。 
西琳寺近鉄南大阪線古市駅下車徒歩5分。 
白鳥神社近鉄南大阪線古市駅下車。 
白鳥陵古墳近鉄南大阪線古市駅下車徒歩5分。
吉村家住宅近鉄南大阪線恵我ノ荘駅又は高鷲駅下車徒歩15分。 
河内ワイン館近鉄南大阪線駒ヶ谷駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
羽曳野市役所まちづくり推進課、羽曳野市観光協会 0729−58−1111 
誉田八幡宮0729−56−0635 
壺井八幡宮0729−56−2824 
吉村邸保存会0729−54−8022 
河内ワイン、河内ワイン館 0729−56−0181

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会