月〜金曜日 18時54分〜19時00分


姫路市 

 姫路市は国宝、世界文化遺産の姫路城、別名白鷺城が市の中心地にそびえる播州の中心都市。古くから西国や山陰地方への交通の要衝を占め、経済、軍略上からの拠点となっていた。その象徴が姫路城で、室町時代から江戸時代にかけての戦のたびに姫路の名が登場する。現在は播磨臨海工業地帯の中核工業都市、播州地方の商業都市としての位置を占めている。


 
ひめじ物語  放送 9月23日(月)
 「播磨風土記」によると大己貴命(おおなむちのみこと=別名・大国主命)が乱暴者の子神・火明命(ほあかりのみこと)を島に置き去りにしたところ、火明命は怒って父の船を難破させた。その際、船の積荷が降り落ちて14の丘になった。そのひとつ、蚕(古語でヒメコ)が降ってできた丘が「日女道(ひめじ)丘」と名づけられ、姫路の地名となった。日女道丘が姫山になり、ここに白鷺が羽をひろげたように優美な姿の姫路城(国宝)が建てられた。山陽道と山陰道を結ぶ要衝の地の姫路は西国統治の拠点で、鎌倉時代に砦が築かれて以来、13氏・48代の城主の居城となった。
 姫路城の築城の歴史は古く、元弘元年(1331)播磨国守護職・赤松則村(円心)が北条氏追討の兵を挙げて東上の途中、姫山に陣を張り、その後正平3年(1348)則村の子・貞範が砦を築いたのに始まる。戦国時代に入って羽柴秀吉が3層の天守閣の城を築き、江戸時代に城主になった池田輝政が慶長6年(1601)から8年をかけ、秀吉が築いた城を取り壊し根本的な大修築を行った。今日に残る大天守閣はこの時に築かれたものである。

世界遺産 姫路城

(写真は 赤松則村(兵庫県立歴史博物館蔵))

赤松則村(兵庫県立歴史博物館蔵)

 5層7階の大天守閣は31.8m、石垣まで含めると46mの高さを誇る大天守閣で、3つの小天守閣を渡櫓(わたりやぐら)で連結した連立式天守閣。白漆喰(しろしっくい)を塗り込めた外壁が輝き、唐破風、千鳥破風の屋根が幾重にも重なる荘厳な姿は、築城技術の粋を集めた名城で芸術品とも評されている。白鷺が羽を広げて飛び立つ姿に似たところから白鷺城と呼ばれ、平成5年(1993)世界文化遺産に登録された。
 城塞としての堅固な備えも万全で、姫山と鷺山の地形を巧みに利用している。大天守閣のある本丸を中心に二の丸、三の丸、西の丸、内堀、中堀、外堀の三重の堀などを旋状に配している。鉄砲や弓矢を放つための狭間、侵入してくる敵の頭上に石や熱湯を浴びせるなどの防御が巧みに仕組まれている。
 姫路城天守閣3階に「あかずの間」と呼ばれる部屋がある。吉川英治の小説「宮本武蔵」で武蔵が幽閉された部屋で、城内へ観光客を入れ始めた大正元年(1912)以来初めて、2002年9月から2003年5月まで公開される。部屋には武蔵の人形を置いて幽閉の様子を再現している。

(写真は 世界遺産 姫路城)


 
千姫  放送 9月24日(火)
 徳川2代将軍秀忠の娘で家康の孫の千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁いだが、慶長20年(1615)19歳の時、大坂夏の陣で大坂城は落城、秀頼は自害して豊臣家は滅亡した。落城寸前に火中から脱出した千姫は、その翌年、江戸へ向かう途中、伊勢国・桑名城主忠政の子・本多忠刻(ただとき)と出会い再婚した。忠政が播磨へ国替えになり忠刻とともに姫路城に入った。
 長男・幸千代(こうちよ)が3歳で早世、続いて夫・忠刻が結核で死亡した。夫と長男が相次いで死亡したため江戸に帰った千姫は髪をおろして天樹院と号し、以後40年を独り身で過ごし70歳で薄幸の生涯を終えた。戦国時代の女性で最も薄幸な女性のひとりだった千姫にとって、長女・勝姫と幸千代の一男一女をもうけて過ごした姫路での10年間が一番の幸せな時期だったようだ。

姫路城・化粧櫓

(写真は 姫路城・化粧櫓)

千姫奉納羽子板

 千姫が嫁いだとき持参した化粧料10万石で建てられたのが西の丸の化粧櫓(けしょうやぐら)と言われる。千姫が朝夕、西の丸長局の百間廊下から男山千姫天満宮(現男山八幡宮)を遥拝した時、休息したのがこの化粧櫓。2層造りの化粧櫓は階上は18畳、15畳、窓辺に6畳3室の畳敷の部屋がある住宅様式で、ふすまや壁、羽目板には極彩色の花鳥が描かれていた。さらに忠刻・千姫夫婦のために父・忠政は三の丸東に豪華な館を建て、ふすまや壁に江戸の武蔵野を思わせるススキの絵が描かれていたことから武蔵野御殿と呼ばれた。このように本多家は将軍家の娘に対して至れり尽くせりの扱いをしていた。
 男山千姫天満宮は元和9年(1623)天満大自在天神を信仰していた千姫によって建立された。千姫は延暦寺第13代座主宝性寺尊意の刻んだ天神木像を守護神としていたが、天満宮を建立した時ここへ移した。ほかに金泥法華経、観音経、唐鏡、羽子板、茶碗、帯など身の回りの品を寄進している。観音経は春日局がお守りにしていたものを千姫に与えたものといわれている。

(写真は 千姫奉納羽子板)


 
お夏清十郎  放送 9月25日(水)
 「お夏清十郎」は西鶴の「好色五人女」などに描かれた、姫路を舞台にした美男美女の悲恋の物語として有名。
お夏は姫路城の南、本町の米問屋但馬屋・九左衛門の娘、清十郎はこの店の手代。この物語は姫路で本当にあった事件を題材にして書かれたと言われている。
 清十郎は室津の造り酒屋の息子だったが、19歳の時、放蕩を繰り返した末に勘当された。行く当てのない清十郎は姫路の米問屋但馬屋に奉公、真面目に働いてみんなから好かれていた。いつしかお夏と相愛の仲になったが、九左衛門は身分違いを理由にふたりの仲を許さなかった。ふたりは駆け落ちをしたが追っ手に捕まり、清十郎は700両の盗みの濡れ衣を着せられ25歳の時、処刑され刑場の露と消えた。

お夏清十郎比翼塚

(写真は 船場川)

船場川

 姫路城の北にある禅宗の寺・慶雲寺にあるお夏清十郎の比翼塚は、少し大きさの違う一対の五輪塔で、訪れた人たちは恋がかなわななかった二人の冥福を祈り、比翼塚に手を合わせてている。
 当時、刑死者の墓は禁じられていたので、土を盛り石を置いて弔ったのが比翼塚の始まりと伝えられている。その後、比翼塚は慶雲寺の末寺の光正寺というお寺に置かれていたが、数回あちこちと移転したのち慶雲寺に落ち着いたようだ。慶雲寺では毎年8月9、10日にお夏清十郎祭りが催され、大勢の人たちでにぎわう。
 お夏は清十郎が処刑されたことを知り、悲しみのあまりに狂ってしまう。後には出家して墨染めの衣をまとい、清十郎の霊を弔ったという。姫路市の西、御津町室津の浄雲寺にはお夏の木像がある。

(写真は お夏清十郎比翼塚)


 
亀山本徳寺  放送 9月26日(木)
 兵庫県下で最大規模を誇る本堂や大広間をはじめ、堂々たる伽藍群が整然と並ぶ浄土真宗・亀山本徳寺は、約500年前の戦国時代に姫路市英賀、当時の英賀城下町にあった念仏道場の英賀御坊が始まり。英賀城主・三木道規の支援を受けて御堂が建てられ、これが英賀御堂となり播州での布教の拠点となった。
 やがて織田信長と本願寺の抗争はエスカレートしたが、両者の講和が成立して長年の争いに終止符が打たれた。豊臣秀吉の時代になって英賀本徳寺は、天正10年(1582)現在地の亀山へ解体移築され、播州の念仏道場としての伽藍が整備され、その威容を誇るようになった。浄土真宗は東西に分裂し、亀山本徳寺は初め東本願寺に属していたが、後に西本願寺に所属した。その後、東本願寺派の船場本徳寺が建立され、東西両本願寺派の本徳寺が姫路城下に並び立った。

阿弥陀仏木像

(写真は 阿弥陀仏木像)

大広間

 亀山本徳寺は江戸時代末期、明治維新の動乱期に火災にあい本堂などが焼失した。明治6年(1873)に京都・西本願寺の北集会所が解体され、学林(竜谷大学)の講堂建築の用材に当てられる予定だった。その用材を譲り受けて建てられたのが現在の本堂である。
 亀山本徳寺の本堂に移築されることになった用材は船で飾磨津に運ばれ、浜辺からは門徒衆が手渡で亀山まで運んだと伝えれている。境内には本堂のほかに大広間、庫裏、経堂、茶所、表書院、奥書院、鼓楼などの建物が真宗寺院の様式を今に伝えており、これらの建築物や大広間の天井の花の絵、壁の障壁画などは文化財としての価値も高い。
 姫路市が亀山本徳寺門前の景観復興事業を進め、表参道は整然とした石畳の参道に生まれ変わった。周辺の築地塀も完成して大寺院の門前にふさわしい景観が整った。

(写真は 大広間)


 
灘のけんか祭り  放送 9月27日(金)
 姫路の秋を彩る10月14、15日の松原八幡神社の秋の例大祭は、荒々しく神輿(みこし)がぶつかり合うことから「灘のけんか祭り」として広く知られている。
 神輿がぶつかり合うのは15日の昼宮。3基の神輿が本宮から元宮のお旅所へ向かう途中、お旅所の麓の練り場で壮絶なぶつけ合い(練り合わせ)を繰り広げ、祭りはクライマックスに達する。練り場を取り囲んだ観衆も祭りの雰囲気に酔いしれ、どよめきが起こる。
 3基の神輿は一の丸、二の丸、三の丸と呼ばれ、一の丸は26歳から35歳、二の丸は36歳以上、三の丸は15歳から25歳までの男子がそれぞれかつぐ。一の丸は黄色、二の丸は白色、三の丸は赤色のそれぞれ襦袢(じゅばん)を着てはち巻きをするので、神輿を中心にカラフルな躍動感がほとばしる。

松原八幡神社

(写真は 松原八幡神社)

神輿

 神輿の練り合わせのほかに、14日の宵宮には松原八幡神社の氏子7地区の屋台が次々に神社に宮入りする。宮入り前、神社の楼門前の広場でひとしきり激しい練り合わせをするが、これも神輿の練り合わせに勝るとも劣らないほど勇壮でカラフルなシーンである。昼宮の15日にもこれらの屋台は元宮まで練り歩き、夕方からは電飾に飾られそれぞれの地区に帰って行き、2日間の祭りに幕を下ろす。
 祭りの起源は神功皇后が三韓遠征の帰途、この近くの入り江で船についたカキを船と船を寄せ合って落としたとの故事によると伝えれれている。神輿に「丸」の字をつけて呼ぶのは、この故事によって船の名の呼び方にならった。室町時代に播磨、備前、美作の領主となった播磨の豪族赤松氏が、応仁の乱で焼失した松原八幡神社を再建した際、寄進された200俵の米俵を氏子たちがお旅山へ担いで上がったのが、屋台行列の始まりという。屋台といっても当時は飾り金具もなくごく質素なものだったが、江戸時代末から明治時代にかけて徐々に飾りがつけられるようになり、現在のように巨大で豪華絢爛(ごうかけんらん)たる屋台に変わった。

(写真は 屋台)


◇あ    し◇
姫路城JR姫路駅下車徒歩10分。 
JR姫路駅からバス大手門前下車。
男山千姫天満宮(男山八幡宮)
JR姫路駅下車徒歩20分。
JR姫路駅からバス清水橋下車徒歩3分。
慶雲寺JR姫路駅からバス慶雲寺下車徒歩3分。 
浄雲寺山陽電鉄網干駅からバス室津下車徒歩10分。 
亀山本徳寺山陽電鉄亀山駅下車徒歩1分。 
松原八幡神社山陽電鉄白浜の宮駅下車徒歩1分。 
◇問い合わせ先◇
姫路市観光振興課0792−21−2511 
姫路市観光協会0792−21−2512 
姫路城管理事務所0792−85−1146 
慶雲寺0792−22−3918 
浄雲寺07932−4−0030 
亀山本徳寺0792−33−0242 
松原八幡神社0792−45−0413 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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