月〜金曜日 21時48分〜21時54分


奈良市・興福寺 

 奈良公園の南西にある興福寺は南都七大寺のひとつで、奈良公園を訪れた人々は東大寺、春日大社と共に必ず参詣する奈良市を代表する寺と言ってよい。平城遷都とともに建立されたと伝えられる寺で、国宝、重要文化財の仏像、仏画などの寺宝を数多く有している寺でもある。


 
至上の堂塔  放送 10月1日(月)
東金堂(国宝) 興福寺は明治維新後の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で築地がことごとく壊され、今は境内へはどこからでも入れる。庶民や観光客から親しみがもたれる寺となっている。鹿が遊ぶ奈良公園の松林の中に、いくつもの堂塔が点在する興福寺。その中でも参詣する人たちになじみの深いのが国宝の東金堂(とうこんどう)と五重塔と言える。
 東金堂は、聖武天皇が神亀3年(726)、伯母の元正上皇の病気平癒を祈願して造営した。五重塔はその4年後の天平2年(730)、藤原不比等の娘で聖武天皇の妃となった光明皇后の発願によるもので、わずか1年足らずで竣工している。興福寺はたびたび火災に見舞われて堂塔が焼失しており、現在の東金堂と五重塔はいずれも室町時代に再建されたものである。創建当時は東金堂と五重塔は回廊で結ばれていた。
(写真は 東金堂(国宝))

本尊薬師如来坐像(重文) 藤原氏の氏寺だった興福寺の起源は古い。藤原鎌足が大化改新の成就のために、丈六釈迦像、脇侍菩薩像、四天王像を造り四天王寺に収めることを祈願した。志を汲ーたものの四天王寺におさめぬうちに病になった。鎌足の妻・鏡女王(かがみのひめみこ)は、鎌足の病気平癒を祈願して山城国山科の私邸に寺を建て、釈迦三尊像を安置した。これが山階(やましな)寺で興福寺の始まりとされている。その後、山階寺は飛鳥に都が移ったのにともなって飛鳥・厩坂(うまやさか)に移り厩坂寺となった。再び平城遷都で奈良に移り興福寺となったとされている。
 奈良時代から平安時代にかけて藤原氏が隆盛を極めると、興福寺もその勢力を強めて南都最大の寺院となり、僧兵が春日大社の神木をみこしに乗せて京都の朝廷へ強訴するほどだった。
(写真は 本尊薬師如来坐像(重文))


 
東金堂  放送 10月2日(火)
文殊菩薩坐像(国宝) 東金堂は神亀3年(726)、聖武天皇が伯母の元正上皇の病気平癒を祈願して造営したが、創建後6度も火災や兵火で焼失して再建を繰り返してきた。
堂内の本尊は病気平癒の仏・薬師如来座像(国・重文)と両脇に日光、月光菩薩像(いずれも国・重文)が安置されている。この薬師三尊は銅造であるが、その四方を固める四天王像(国宝)は、いずれも頭から足下の邪鬼、台座まで一本のヒノキ材で彫り起こされている。
 堂内にはほかに文殊菩薩座像(国宝)、十二神将立像(国宝)が安置されており、これらの優れた仏像を拝観することで厳かな気持ちにひたれる。
(写真は 文殊菩薩坐像(国宝))

持国天立像・邪鬼(国宝) 東金堂の現在の建物は室町時代初期の応永22年(1415)に再建されたもので、創建当時の古い建築様式がよく守られており「日本の復古建築の典型」と言われている。
 昭和12年(1937)から2年間の昭和の解体修理で、奈良時代の基壇の敷石、礎石の上に新たな基壇が設けて再建していることがわかり、寸法なども創建当時のものを引き継いでいることがわかった。東金堂正面は連子窓のほかは古式の板扉を立てたもので、柱の上の木の組み物は三手先(みてさき)を呼ばれるもので、五重塔と同じである。
(写真は 持国天立像・邪鬼(国宝))


 
北円堂  放送 10月3日(水)
弥勒如来坐像(国宝) 西国三十三所第9番札所としていつもにぎわっている南円堂に対し、その北側の北円堂は普段は公開されていないためひっそりとしている。北円堂は平城遷都10年後の養老4年(720)に死去した藤原鎌足の子・不比等を追悼し、元明上皇、元正天皇が養老5年(721)に建立した。興福寺は藤原氏の氏寺だが、北円堂の造営には国家の力が加わり、造営は迅速に進み1年で完成している。興福寺には八角円堂が南と北に2棟あり、南円堂、北円堂と呼ばれるようになった。また伽藍(がらん)全体の配置から見ると北西の隅に位置している北円堂だが、実は平城京全体が見渡せる絶景の場所だった。
(写真は 弥勒如来坐像(国宝))

無著菩薩(国宝) 北円堂も完成後に2回焼失しており、現在の建物は鎌倉時代初期の承元4年(1210)ごろに再建された。北円堂も再建された他の堂塔と同じように、古式の建築様式をよく伝えた建物と言われている。興福寺で一番古く、鎌倉時代の貴重な建物である。天井には雲や楽器などが彩色で描かれている。
 北円堂の本尊は弥勒如来座像(国宝)で両脇侍にはいずれも国宝の無著(むちゃく)、世親(せしん)菩薩立像が安置されている。無著は弥勒に師事して瑜伽(ゆが)、唯識(ゆいしき)の教えを広め、世親は無著の弟で唯識説を大成したいずれもインドの僧。弥勒、無著、世親像とも、運慶とその弟子たちの円熟期の情熱と力量が最大限に発揮され、気迫のこもった作と言われている。
 北円堂は毎年、4月末から5月初めと10月末から11月初めに特別開扉され、2001年の秋の特別開扉は10月27日(土)から11月4日(日)まで。
(写真は 無著菩薩(国宝))


 
仏法の美  放送 10月4日(木)
仏頭(国宝) 東金堂の東にある国宝館は明治初めの排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で取り壊された細殿(ほそどの)、食堂(じきどう)跡に昭和33年(1958)細殿、食堂を模して建てられた。館内には数多い国宝、重要文化財などの寺宝を収蔵、展示している。その中に郵便切手の絵柄に使用されたものが3点ある 300円切手の仏頭(国宝)は、昭和12年(1937)に東金堂を修理した際、本尊台座下から発見された薬師如来像の頭部。この薬師如来像は元は飛鳥の山田寺(現在桜井市)にあったもので、興福寺の僧兵によって奪われ、東金堂の本尊としてまつられていたと言われている。落雷による火災で東金堂が焼け、残った頭部を新しく造った本尊の下に納められた。この頭部だけとなった銅造薬師如来像は天武天皇14年(685)に開眼供養された仏像で、明るく豊かな表情は白鳳期の仏像の特徴をよく表している逸品である。
(写真は 仏頭(国宝))

天燈鬼立像(国宝) 15円切手に使われた3つの顔と6本の手を持つ三面六臂(ぴ)の阿修羅(あしゅら)像(国宝)は興福寺でも代表的な仏像で、愁いを含んだような表情と少年のような体つきと、その手の配置が美しい像として知られている。
 400円切手の天燈鬼(てんとうき)立像(国宝)は龍燈鬼(りゅうとうき)立像(国宝)と共に西金堂に安置されていたもの。天燈鬼は灯籠を左肩に乗せて左手で支え、口を開き筋肉隆々とした躍動的な体形でユーモラスな表情をした像である。
 また国宝の華原磬(かげんけい)は、獅子の台座の上に六角の柱を立て、これに龍がからみあって昇り、金鼓を支えるようにしている興福寺に伝わる数少ない工芸品。西金堂に安置されていたもので、吊るされている現在の金鼓は鎌倉時代に補作されたものである。
華原磬とは中国・陝西省の華原に産し妙音を発する磬石のことである。当初はこの華原磬が吊るされていたと見られている。
(写真は 天燈鬼立像(国宝))


 
興福寺八景  放送 10月5日(金)
三重塔(国宝) 猿沢池の水面に影を写す五重塔と岸辺のの柳がマッチして一幅の絵となっており、絵はがきでもおなじみである。だが、興福寺境内にはまだまだ絵になる風景がいっぱいある。それぞれ個人の違った美的感覚で眺めれば、気に入った風景が発見できるかも知れない。こうした再発見をしようと境内にはアマチュア画家の姿が多い。
(写真は 三重塔(国宝))

五重塔(国宝) 広い興福寺境内には地蔵の石仏群と三重塔、南円堂と三重塔、東金堂と五重塔。そしてそれぞれの堂塔の建築美や建物の各部分の木組みの美しさなどが見つけられる。さらに奈良公園とマッチした春夏秋冬の四季の移ろい。満月の夜の境内や星明かりの境内。昼と夜の堂塔の陰影の違い。ライトアップされた堂塔の幻想的な雰囲気など、訪れる度に新しい発見をすることが出来る。ちなみに興福寺は、正しくは「こうぶくじ」と呼ぶそうだ。
(写真は 五重塔(国宝))


◇あ    し◇
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◇問い合わせ先◇
興福寺0742−22−7755 

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