月〜金曜日 21時54分〜22時00分


宝塚

 宝塚という名前は、宝の古墳という意味で、いまも市内のあちこちに古墳が点在する。宝塚市の母体の一つ、米谷村に伝わる伝説では或る古墳の近くで物を拾うと必ず幸せが訪れるというもので、元禄時代には、幸せが授けられる所として信仰されていたという。また、武庫川の対岸、良元村だった地域にも幸せを授けてくれる古墳が宝梅園という梅園の中にあって、宝の塚と呼ばれていたようである。
 また、この地には古く鎌倉時代に「川面の湯」「小林の湯」などと呼ばれる温泉があったことが記録されている。近くは明治17年に武庫川沿いの現在の温泉街に鉱泉が発見され、明治20年には、掘削が成功して宝塚温泉が開業した。明治31年に武庫川の大洪水があり、温泉の建物が流されてしまったが翌年には再建、大正初期には、旅館30軒に増えていた。こうして現在にいたるまで繁栄が続いている。
 温泉街の繁栄を支えたのは、明治30年に現JRの阪鶴鉄道の開通、続いて明治43年現阪急電鉄の前身、箕面有馬電気軌道の開通である。特に箕面有馬電気軌道の創業時の専務、小林一三が考えた色々な集客策が宝塚で実施された。遊園地、宝塚新温泉、その客寄せに考えられた少女歌劇が大正3年にスタート、発展を続けた。宝塚歌劇は、世界でもユニークな女性だけで演じられるレビュー・ショーとして今日まで続いている。 宝塚はまた古社寺や古跡が多いところである。西国33ヶ所の24番札所である中山寺をはじめ、清荒神、小浜宿跡などがある。
 一方宝塚市は音楽都市を標榜し、音響効果の良いベガホールを拠点に国際室内合唱コンクールを実施する等、近代都市への発展に努力している。
 宝塚の遊園地の近くに開設された市立手塚治虫記念館は、手塚ワールドの魅力をすべて与えてくれる。これでまたひとつ、宝塚の魅力が加わった。その他、清荒神の境内には明治時代の孤高の日本画家であり、神官でもあった富岡鉄斎の絵画を集めた鉄斎美術館がある。また園芸発祥の地としても宝塚は記憶されているが、近年、山本辺りの植木畑も少なくなったのは寂しい。


 
温泉と遊楽の街 放送日 10月11日(月)

 宝塚には古く鎌倉時代には涌泉があって、貴族の藤原光経が訪れ、遊女におくった歌を残している。「旅人の行く末の契りをむすぶとも 忘るな我を我もわすれじ」
 明治17年になって武庫川岸で鉱泉が発見され、明治20年には掘削に成功、温泉の建物も竣工し、宝塚温泉と名づけられた。明治31年に武庫川の大洪水で温泉の建物が流されたが、翌年には早くも再建された。こうして大正初期には旅館も増え、30軒になって芸者も50−60人いたという。今日も宝塚は温泉の町として賑わい、川岸に多くの温泉旅館が軒を並べている。
 宝塚の名を有名にしたのは、何よりも宝塚歌劇の功績が大きい。

小林一三

 

旧宝塚新温泉

 明治43年に開通した箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)は、何もない田んぼの中を走る電車といわれ、自らの努力で客を誘致する必要があった。明治44年に新温泉、明治45年に巨大な室内プール、パラダイスを宝塚に設置したが、時代を先取りし過ぎて客の入りが思わしくなかった。そこでプールを劇場に改装、宝塚少女合唱隊が結成され、宝塚新温泉の客寄せイベントとして発足した。これが次第に少女歌劇に発展し、苦境の時もあったが大阪や神戸で公演するなどして困難を乗り越え、段々と人気を得ていった。
 宝塚には遊園地や動物園に加えて宝塚市立手塚治虫記念館が誕生した。手塚氏が少年時代、宝塚で育ったことに因むもので、手塚氏のアニメ作品のセル原画をはじめ、虫プロ時代の仕事部屋の再現など、楽しい展示が盛り沢山にある。

  


 
宝塚歌劇 放送日 10月12日(火)

宝塚新温泉と大プール・パラダイスは箕面有馬電気軌道の客寄せに考えられた施設であり、明治44年から45年に開業したが、プールが経費の割に利用客が少なかったので、プールの上に床を張り、劇場に改造、温泉の付属アアトラクションとして少女合唱隊をスタートさせた。大正3年には宝塚少女歌劇団が発足し、同時に音楽学校を開校させ、生徒に音楽、洋舞、日舞、歌劇などを2年間教え、素人から歌劇団員を養成した。生徒の中には只で稽古事を習えるうえに小遣いをもらえるのが信じられないという人もいたといわれる。
 

旧宝塚音楽学校

 

宝塚大劇場

 歌劇団は次第にインテリ層の支持も得られるようになり、大正7年には東京公演が実現したが、大正12年に火事で歌劇場、新温泉などを失った。直ちに仮の中劇場を建設、公演を続けたが、大正13年には4,000人を収容できる大劇場が完成、舞台間口は27メートルもあり、日本一である事は勿論、世界的にみても最大級の劇場であった。昭和2年には演出家岸田辰弥のパリ視察の土産作品「モン・パリ」が大ヒット、その主題歌は全国的に流行、宝塚の存在は全国に知れ渡った。この作品によってスピーディな舞台転換、シャンソンやジャズ、ラインダンスなどが観客の心を捉え、本格的レビュー時代が始まった。 この実績の上に、昭和9年には東京進出の拠点、東京宝塚劇場が竣工、3組の劇団制にして、そのうち2組は宝塚と東京で公演、もう1組は新しい演目のリハーサルに取り組んで、休みなくいつでも東西で観劇できるシステムが採られた。今日では4組制が採用されて地方での公演も可能にし、更なる発展が期待されている。昭和12年には東宝が発足して映画の世界にも手を広げ、帝劇や日劇を買収して松竹に対抗する勢力になった。

  


 
中山寺・安産信仰 放送日 10月13日(水)

大本山中山寺は古く聖徳太子の時代に創建されたと伝えられる、真言宗の寺である。西国33ヶ所の24番札所で、観音霊場であるが、それよりも安産の寺、妊婦が腹帯を受ける寺として全国に名高い。皇室でさえ腹帯を受けたことが度々あると記録されている。その起こりはインドの阿ゆじゃ国王の勝まん夫人が釈迦如来より仏の道を教わり、善行を積むことを誓ったが、障りの多い女人を済度する為に、観音の功徳を発揮して女性の大役である出産を母子共に健やかに守りたいと誓われ、願をたてられた。そして自らの19歳の等身像を刻まれたという。

聖徳太子35歳像

  
 これが当寺の本尊十一面観音であるという伝説があるが、実際は10世紀頃の平安時代中期=貞観時代様式で栢の木の一木彫り。瞳に鉄鋲を打った珍しい仏で重文である。細身ではあるが腰をひねったスタイルや衣文の彫り方に時代の特徴を見ることが出来る。
 境内の一角に安産の手水鉢というのがある。本尊に願をかけ、この手水鉢を洗い清めると安産間違いなしと言われている。

中山寺安産腹帯

 


 
中山寺 放送日 10月14日(木)

 紫雲山中山寺は真言宗の寺で、西国33ヶ所の24番札所である。言うまでもなく観音を本尊とするが、中山寺は十一面観音立像をまつる。貞観時代の様式、平安中期の一木造りで、目に鉄鋲を打ったところが変わっている。毎月18日だけ開扉される。
 創建は古く聖徳太子が仲哀天皇の先の皇后、大仲媛とその子、忍熊皇子(おしくまのみこ)の霊を祀るために建てた寺であるとの伝説をもっている。元は山中の高いところ、現在の奥の院あたりにあったといわれる。2度の兵火に焼けて現在の伽藍は豊臣秀頼の寄進によって現在地に再建されたものである。山門を入ると左右に塔頭が5つもあってこの寺が大寺である事を知る。だらだら坂を登ってゆくと奥に本堂(1603年県重文)があり、本尊の十一面観音(平安中期、重文)をはじめ左右にも十一面観音(鎌倉時代、県重文)を2体まつっている。この3体の十一面観音を拝むとお顔が33あるので33ヶ所の霊場を1度にまわったと同じ功徳があると言い伝えられている。毎月18日には開扉、法要が行われる。この他本堂内には、左隅に愛染明王(室町時代初期、市重文)があり、愛欲と武運の守護神として信仰されている。

中山寺本堂脇侍十一面観音

 

中山寺境内、白鳥塚石棺

 また、この寺では毎年8月9日夜、星下り大会式が行われる。この祭りの日、33ヶ所の観音が当寺に全部集まるとされ、この日に参詣すると4万6千日参詣したのと同じ功徳があるといわれる。
 この寺には他にも多くの文化財が残されている。信徒会館の2階が宝物館lになっており、日曜、祝日には開館される。宝物には、薬師如来坐像(平安時代末、重文)、聖徳太子坐像(勝まん経講讃像、聖徳太子35歳像、桃山時代、重文)、大日如来坐像(平安時代後期、重文)、鉄製釣燈篭(1603、市重文)、銅製鰐口(1603、市重文)、秀頼筆「豊国大明神」神号軸(桃山時代、市重文)などがある。
 いま一つ特別のものとして、境内の一隅に白鳥塚と呼ばれる立派な後期古墳があり、巨石を積んだ石室の中には播磨産の凝灰岩の家型石棺が残っている。やや退化しかけた縄掛け突起をそなえた立派な石棺で保存も良く、敷石を敷いた床のうえに据えられている。

  


 
波豆(はず)の石造美術  放送日 10月15日(金)

 神戸市の北区道場の東端に神戸市の水源地の一つ、千刈ダムがあり、ここから宝塚市の波豆地区にかけてダム湖は造られた。一番奥の水没した村が波豆地区である。いま、波豆八幡はかろうじて水没を免れ、ダム湖に面して残っている。この八幡は、この地が元、多田源氏の荘園であったことから、平安時代初期の973年に創建されたと伝える。現在の本殿は三間社流造り、柿葺(こけらぶき)の立派な社殿(室町時代初期の1403年、重文)である。ダムに面して立つ石鳥居は同じ室町時代の1425年に建てられたもので、元はもっと低い位置にあったが、ダムに水没するので現在位置まで引き上げられた。
 

普明寺宝きょう印塔

 

普明寺笠塔婆

神社の境内を出て西に行くと、鉄柵に囲まれた一画があり、多くの石造物が見られる。これはダムに水没した金福寺にあったもので、この場所に移されたものである。特に目立つものに高さ4メートルの板碑がある。わが国で2番目の大きさをほこる。鎌倉時代末期の1328年に建てられたもので、金剛界と胎蔵界の大日や阿弥陀など、それぞれの梵字の頭文字(種子)を薬研彫り(V字溝に彫る)している。県の重文に指定されている。
 板碑の右側にある宝きょう印塔は南北朝時代末の1391年に建てられたもので県重文。基礎部分に掘り込まれた格狭間内に近江の地方色である蓮華が浮き彫りされている。近江の様式がこの地方の多くの作品に採りいれられているのは興味深い。
 板碑の左側に立つ五輪塔(県重文)は同じく南北朝時代の1343年のもので、基礎の部分に念仏衆40人の合財で建てられたことが記されている。この時代にはまだ、個人の力で墓を造るほどの経済力がなっかったので、沢山の人々がお金を持ち寄って共同の供養塔を建てた。
 左端の宝きょう印塔(市重文)はやはり南北朝時代中期のもので、これにも基礎に蓮華が刻まれている。
 八幡神社裏の街道をしばらく西にゆき、ダムにかかる橋を渡ってしばらく行くと、右に慈光山普明寺がある。この寺は摂津多田源氏の源 満仲の第4子、源 頼平の開山と伝えられる曹洞宗の禅寺で、室町時代初期の四天王を画いた厨子の扉画が残っている。これは、市の重文に指定されている。この寺の参道途中を右に入ると墓地がある。ここにも多くの石造物がみられる。墓地中央にある宝きょう印塔は基礎の部分に蓮華が刻まれている。室町時代初期の1395年に建てられたもので、県重文。解体修理が行われた時、火葬骨を入れた壷が見つかった。
 墓地の東北端に笠塔婆が2基並んでいる。左のは南北朝の1364年に建てられたもので、阿弥陀と勢至、観音の種子(しゅじ、梵字の頭文字)が刻まれており、孝子等とあることから亡き両親の供養に子たちが共同で建てたことがわかる。この塔婆で注目すべきは南朝の年号が使われていることで、兵庫県下ではこれだけが唯一のもの。この辺りで南朝と北朝の勢力が混在していた事がうかがえる。右側のは笠を失っているがやはり金剛界大日と阿しゅく如来の種字が刻まれており、南北朝頃のもの。

  


あ   し

  宝塚温泉、宝塚歌劇へは阪急電鉄宝塚線、または今津線の宝塚下車(大阪から約40分)。
  もしくは、JR福知山線(宝塚線)宝塚下車(大阪から約30分)。
  中山寺へは、阪急宝塚線中山寺下車5分
  波豆八幡、波豆の石造美術品、普明寺へは、JR福知山線三田から神姫バス、東部行き、波豆下車。または、宝塚から阪急田園バスで波豆下車
  千刈水源地へはJR福知山線道場下車20分


みどころ

  宝塚ファミリーランド、宝塚歌劇、手塚 治虫記念館、宝塚温泉、中山寺、清荒神、小浜宿跡
  千刈水源地(ダム)、波豆八幡、同所石造遺物、普明寺

味・土産

  宝塚     乙女餅、炭酸せんべい
  三田     栗、三田牛肉、黒豆

問い合わせ先


  宝塚市総合観光案内所        0797−81−5344
  宝塚ファミリーランド          0797−85−6331
  宝塚大劇場               0797−85−6771
  宝塚市立手塚治虫記念館      0797−81−2970
  中山寺                  0797−87−0024
  普明寺                  0797−91−0755
  鉄斎美術館              0797−84−9600
  波豆八幡神社             0797−91−0254
  山本園芸流通センター        0797−88−2333
  宝塚温泉旅館組合          0797−86−2017
  ホテル若水               0797−86−0151
  神姫バス三田営業所         0795−65−5711