月〜金曜日 20時54分〜21時00分


大阪城の歴史 

 大阪城の天守閣が復興されて2001年で70周年になる。大阪城天守閣は大阪のシンボルで、なにわっ子の心のよりどころでもある。豊臣秀吉が築いた大坂城天守閣は大坂夏の陣で炎上するまで33年間徳川幕府が再建した大坂城天守閣は落雷で炎上するまで39年間の寿命だった。しかし三代目の現天守閣は第二次世界大戦の空襲もくぐり抜け、70年間も大阪市民をはじめ全国の人々から愛され、親しまれてきた。今回はこの大阪城にまつわる歴史をひも解いてみた。なお、歴史街道シリーズでは江戸時代までを大坂城、明治以降を大阪城と表現する。


 
天守閣  放送 10月29日(月)
再建当時の絵葉書 江戸時代初めの寛文5年(1665)落雷で天守閣を焼失してから大阪城は天守閣のない城だった。昭和3年(1928)関一・大阪市長が昭和天皇の即位を祝う記念事業として天守閣の復興を提案、市議会もこれを承認した。復興費150万円(現在の約750億円)は、市民からの寄付でまかなうことになった。不況下にもかかわらず住友財閥の当主・住友吉左衛門氏の25万円を筆頭に最低10銭までの市民からの寄付金が続々集まり、わずか半年間で目標額の150万円を達成した。
 昭和6年(1931)地上55mの大阪城天守閣は266年ぶりによみがえった。5層8階の天守閣が青空にそびえ、最上層の屋根の鯱(しゃちほこ)、勾欄下の伏虎など、いたるところに施された黄金の装飾が燦然と輝く天守閣は、天下を統一した太閤さんの栄華をしのばせた。世界恐慌の真っただ中だったが、市電の花電車、連日のちょうちん行列、心斎橋と戎橋には天守閣をもしたアーチが建てられるなど、大阪市内は大阪城天守閣復興の奉祝にわいた。2001年はその天守閣復興70周年にあたる。
(写真は 再建当時の絵葉書)

天守閣 復興天守閣には新たな趣向や新技術が取り入れられた。天守閣の設計・監督を依頼されてのは、当時46歳の市井(しせい)の建築家・古川重春氏だった。一介の町の建築家が抜擢されたことに市民は驚いたが、桃山時代の建築への造詣の深さは他の追随を許さなかった。豊臣時代の城の唯一の資料と言える黒田家所蔵の「大坂夏の陣図屏風」を基に、古川氏は綿密な設計図を書いた。
 新しい技術として鉄骨鉄筋コンクリート造りにし、エレベーターが備え付けられた。天守台石垣への鉄筋コンクリートの重量を少なくするため、樹木のような骨組みで壁や屋根の重みを中央部に集中させる構造にした。これは五重塔など古代建築にヒントを得たと言われ、現在の高層ビルなどの「コアシステム」と同じ構造である。また、天守閣内部を歴史資料を展示する歴史博物館の役割を担わせたことは独創的で、大阪城天守閣所蔵資料は豊臣秀吉関係資料を中心に約8千点にのぼる。昭和時代に全国で大小40ほどの天守閣が復興されたが、その第一号が大阪城天守閣だった。また、各地で復興された天守閣は大阪城天守閣と同じように博物館を兼ねたものが多い。
(写真は 天守閣)


 
秀吉の築城  放送 10月30日(火)
石山合戦絵伝 今、大阪城のある上町台地は古代には難波宮があった所。そこに浄土真宗本願寺八世門主・蓮如上人が、晩年の明応5年(1496)隠居所として大阪御坊を建立、これが後に難攻不落の城砦(じょうさい)でもある石山本願寺となった。蓮如上人御文章に「大坂」と書かれた地名があり、これが文献に表れた「大坂」と言う地名の最初のものである。
 浄土真宗の山科本願寺が天文元年(1532)に焼き打ちにあい、石山本願寺が浄土真宗の中心地となって城砦化した。門徒たちが結集し、政治的、経済的に自立を目指す一大軍事集団となり、宗祖・親鸞像とその血脈の門主がいる石山本願寺を命を賭して守ろうとした。
 石山本願寺は天下統一を図る織田信長に強く抵抗し、元亀元年(1570)からの石山合戦は足かけ11年にわたったが、最終的には石山本願寺は信長に奪取された。
(写真は 石山合戦絵伝)

大坂城図屏風 本能寺の変の後、天王山の戦いで明智光秀を破って信長の後継者になった豊臣秀吉は天正11年(1583)石山本願寺跡に大坂城の築城を始めた。築城当初は一日2、3万人、後には5、6万人が築城現場に動員され、これらの人たちが現場付近に住み、必然的に城下町が形成されていった。
 大坂夏の陣図屏風には、最上層の回廊の上下の黒い壁に金色の鳥獣が描かれている。回廊下の虎の絵は一面に2頭ずつ、4面に計8頭の猛虎がにらみをきかしていたのだろう。
上壁には空を舞うサギがこれも1面に2羽ずつ8羽描かれていたと見られる。秀吉が外壁画に描いた虎とサギで何を表現しようとしたのかわからない。昭和の復興ではサギが吉祥のシンボル鶴に変わっている。豊臣時代の大坂城天守閣は地上約39m、望楼式の5層、屋根は華美な金箔瓦が乗り、豪壮華麗な城だった。
 秀吉築城の大坂城を現代の工事費に換算すると約780億円、豊臣時代の大坂城2km四方の工事を含めると約5兆円にのぼると、昭和の天守閣復興、平成の大改修を担当した大林組が試算している。秀吉のこの巨大プロジェクトの大阪城築城が商都・大阪への発展の出発点になっており、大阪と大阪城は切っても切れないえにしの糸で結ばれている。
(写真は 大坂城図屏風)


 
徳川の再築  放送 10月31日(水)
大坂夏の陣図屏風(重文) 大坂城は慶長20年(1615)の大坂夏の陣で落城、豊臣家は滅亡した。その後、大坂は幕府直轄地となり、元和6年(1620)徳川2代将軍秀忠が大坂城の再建を始めた。秀忠は普請奉行の藤堂高虎に「石垣も堀も旧城の倍にせよ」と命じ、これまでにない巨石も多く使用され、約10年かけて大坂城は再建された。
 大坂城再建の土木工事の総奉行は旧豊臣時代の大名で築城の名手と言われた藤堂高虎、建築工事は徳川幕府旗本の小堀政一(小堀遠州)だった。小堀遠州は桂離宮、二条城などの建築・造園などで知られているが、徳川再築の大坂城の建築総責任者だったことを知る人は少ない。再建工事は北陸、東海から九州まで63藩の大名に課せられ過酷な負担となった。これは各大名の経済力を低下させる徳川幕府のねらいでもあった。
 再建された大坂城は、城郭の面積こそ豊臣時代の5分の1に縮小されたが、石垣や天守閣の高さは豊臣時代のものを圧倒した。高さ58mを誇った高層天守閣も寛文5年(1665)落雷で焼失、再建からわずか39年間の命だった。
(写真は 大坂夏の陣図屏風(重文))

乾櫓 今日、目にする大阪城の石垣は多くの人は秀吉が築城した時のものと思われているが、地上に残る石垣などはほとんど徳川幕府の再建以降のものである。徳川秀忠は大坂城再建の際、大幅な盛り土をして豊臣時代の石垣などは地下に封じ込めた。昭和時代になって天守台の地下に秀吉時代の石垣が確認されている。
 大手門桝形の巨石は肥後熊本の大名・加藤忠広、桜門桝形の巨石は備前岡山の大名・池田忠雄が築いたものであり、両藩の築城技術の高さを示している。石垣の高さは南外堀の5番櫓東側付近の約33.5mが一番高く、次いで内堀東部の31〜32mなどとなっている。
 西の丸庭園の千貫櫓(せんがんやぐら=国・重文)、乾櫓(いぬいやぐら=国・重文)は、現在、大阪城内に残る建物の中で最も古いものである。
(写真は 乾櫓)


 
徳川の時代へ  放送 11月1日(木)
大手多聞櫓 徳川時代の大坂城主は歴代の徳川将軍であったが、3代将軍家光以後、幕末動乱期に14代家茂が入城するまで230年間、大坂城を訪れた将軍はいなかった。また2代将軍秀忠が再建した天守閣は、完成後39年目に落雷で焼失、昭和の復興まで266年間、天守閣のないままだった。
 大手門は城の正門で、大坂城の大手門は高麗門形式の城門。門の防備を固めるため石塁で頑丈な桝形が築かれており、その石塁の上には大規模な多聞櫓(たもんやぐら=国・重文)が建っている。多聞櫓とは塁上に築く細長い長屋形式の櫓で、徳川幕府は大坂城再建の際、豊臣寄りの西国大名に対する備えを念頭にいれた城構えとしていた。
(写真は 大手多聞櫓)

『絵入りロンドンニュース』より、パークスと徳川慶喜 幕末の元治元年(1864)第一次長州征伐のため家茂が大坂城に入った。翌年の慶応元年(1865)再び家茂が長州征伐のため大坂城に入城したが、翌年、家茂は大坂城内で急死した。慶応3年(1867)新将軍・慶喜は大政奉還と王政復古の大号令とともに大坂城に入ったが、翌年の鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶喜は密かに大坂城を抜け出し幕府軍艦で江戸へ逃げ帰った。その後、大坂城へ進撃してきた薩長軍の攻撃を前に本丸御殿台所から出火、本丸御殿や西の丸の建物、各所の櫓、番小屋など、城内の建物の大半を焼失してしまい、大坂夏の陣以来、再び惨めな姿になってしまった。
 大阪城天守閣が所蔵している「幕末大坂城湿板写真原板」は、幕末の総修復でよみがえった大坂城の姿を伝える貴重な写真で、おそらく15代将軍・慶喜が撮影させたものと見られている。同じく大阪城天守閣所蔵の絵入りロンドンニュースに掲載された「大坂城におけるパークスと徳川慶喜の会見」は、慶応3年(1867)に大坂城本丸御殿大広間で慶喜とイギリス公使ハリー・パークスの会見を描いたもので、この時、兵庫開港問題などの交渉が行われていた。
(写真は 『絵入りロンドンニュース』より、パークスと徳川慶喜)


 
大阪のシンボル  放送 11月2日(金)
焔硝蔵(重文) 江戸時代の焔哨蔵(えんしょうぐら=国・重文)や金蔵(国・重文)が残る大阪城内は、明治新政府の新しい兵制で陸軍の軍用地となり大阪鎮台が置かれた。西日本最大の陸軍の中枢となり、大阪城周辺も軍関係の施設で占められてしまった。明治新政府は陸軍の養成を大阪で行うことにし、大阪は日本陸軍発祥の地となる。大阪鎮台は後に陸軍第四師団となり第二次世界大戦終了まで存続した。大阪城天守閣が所蔵の錦絵「坂府(はんぷ)新名所の内・鎮台光景」には、大阪城内に置かれた陸軍の大阪鎮台の光景が描かれている。
 市民の寄付による昭和の天守閣復興に合わせ周辺も大阪城公園として整備され、大阪城は再び人々の親しまれる存在となった。しかし、第二次世界大戦の戦況が悪化するにつれて軍の規制が厳しくなり、昭和12年(1937)にはカメラの持ち込み禁止、同15年には8階展望台の封鎖、17年には天守閣全体が閉鎖された。
(写真は 焔硝蔵(重文))

金蔵(重文) 終戦後、大阪城内の陸軍第四師団司令部は進駐軍に接収され、昭和23年に返還された後は市の施設となり、昭和35年(1960)大阪市立博物館としてオープンした。1、2階が古代から近世末までの大阪の歴史の常設展示場、3階が特別展場となっている。
 紀州御殿と呼ばれた建物はは、明治政府が和歌山城の二の丸御殿を解体した時、豪華な障壁画で飾られていた桃山様式の書院造りの白書院、黒書院、遠侍(とうざむらい)の3つの建物を破壊するのにしのびず、大阪城本丸へ移築した。陸軍第四師団の師団司令部として使われたり、昭和の天守閣復興後は大阪市の迎賓館となった。第二次世界大戦の空襲もまぬがれたが、戦後、大阪城に入った進駐軍の失火で昭和22年全焼した。「この紀州御殿が残っておれば、天守閣周辺も城らしい雰囲気だろうに…」とその焼失を惜しむ声が聞かれる。
 大阪城は国の特別史跡指定され、城内の古い建造物13棟が重要文化財に指定された。
大阪市の発展に伴って大阪城周辺の公園整備も進み、平成7年(1995)から同9年までの「平成の大改修」で美しい姿を取り戻した大阪城天守閣と合わせてスポーツ施設、音楽ホールなどが備わった日本でも有数の公園、文化施設になっている。
(写真は 金蔵(重文))


◇あ    し◇
大阪城 地下鉄
 谷町線 天満橋駅又は谷町駅、
 中央線 森ノ宮駅又は谷町4丁目駅、
 長堀鶴見緑地線 大阪ビジネスパーク駅 下車。
JR
 環状線 森ノ宮駅又は大阪城公園駅、
 東西線 大阪城北詰駅 下車。
京阪電鉄
 天満橋駅 下車。 
◇問い合わせ先◇
大阪城天守閣06−6941−3044 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
   倶楽部入会の資料をご希望の方は、
 ハガキにあなたのご住所、お名前を明記の上、
          郵便番号 530−6691
          大阪市北区中之島センタービル内郵便局私書箱19号
                  「テレホンサービス係」
へお送り下さい。
   歴史街道倶楽部の概要を解説したパンフレットと申込み用紙をご送付いたします。
       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会