月〜金曜日 21時48分〜21時54分


阪神間の音楽 

 関西での音楽は、他の美術や文芸などに比べ認識が低かった。そのひとつに官立の音楽学校がなかった関西では、東京に比べ洋楽の発達が遅れ、洋楽の普及が民間主導で進められたところにあったようだ。
 だが、ロシア革命が勃発した20世紀初めの大正時代に、ロシア人音楽家が相次いで日本に亡命し、芦屋など阪神間に住みつき関西の音楽家を育てるきっかけになった。そこには、一般の人たちにはあまり知られていないエピソードがたくさんある。
 今回は20世紀初めから胎動した阪神間の洋楽の歴史にスポットを当てた。


 
阪神洋楽史の恩人  放送 10月30日(月)
A.M.ルーチン 初期の阪神間の洋楽を支え、育てたのはロシア人を中心にしたスラブ系音楽家た ちと言っても過言ではなく、これらの人々は阪神間の洋楽の恩人といえる。
 その中で最も強い影響を与えたのが、帝政ロシア時代の南ロシアのロストフ音楽院 教授だった、老ピアニストのアレクサンダー・ミハイロビッチ・ルーチンだった。
 ルーチンは、ロシア革命勃発後、いち早く日本に亡命して大正8年(1919)神戸に上陸し、トアロードに「第一露国音楽学校」を開き、阪神間の外国人や日本人の子供たちに音楽教育をした。
 1920年代になると多くの亡命ロシア人が次々と神戸の地を踏むようになる。こうしたロシア人たちは、ルーチンを中心にしたネットワークをもとに、昭和4年(1929)「在日露西亜音楽家協会」を結成している。
(写真は A.M.ルーチン)

メッテル旧宅 ルーチンのほかに阪神間の洋楽界に大きな影響を与えたロシア人音楽家に、ルーチンの異母弟でヴァイオリニストのアレクサンダー・モギレフスキーとロシア人指揮者のエマニュエル・メッテルがいる。
 特に、大阪放送局(現NHK大阪放送局)が創設した大阪フィルハーモニック・オーケストラの指揮者になったメッテルは、戦後の日本音楽界の一翼を担った指揮者の朝比奈隆と作曲家の服部良一、夭折したヴァイオリニスト・貴志康一らに強い影響を与えている。
 昭和初めに芦屋浜に外国人向けアパートと洋食料理を食べさせる洋館の文化ハウス がオープンした。ここにルーチンらロシアの音楽家たちが集まり交流をはかっていた。この場に日本の音楽家や芸術家らも訪れており、その中には音楽家の山田耕筰や 近衛秀麿、詩人の竹中郁、画家の小磯良平らがいた。
(写真は メッテル旧宅)


 
朝比奈隆  放送 10月31日(火)
朝比奈隆 今年92歳を迎えた朝比奈隆は、今もタクトを振る現役の世界最高齢の指揮者。 大阪フィルハーモニー交響楽団の生みの親で、関西の音楽のレベルを上げた最大の功 労者ともいえる。
 朝比奈は、明治41年(1908)東京・牛込で生まれた。東京高等学校を卒業後、京都帝大法学部に入学。京大音楽部で活動中に、ロシア革命の難を逃れて日本に亡命してきたロシア人指揮者で「関西音楽界の父」とも言われるエマニュエル・メッテルと出会い、メッテルの指導を受け本格的な音楽活動を始めた。
 しかし、プロの音楽家を目指す気はなく、京大卒業後は阪神急行〔現阪急電鉄〕に入社。電車の運転、阪急百貨店の売り場にも立ったが「会社員には向いていない」と2年ほどで阪神急行を退社、再び京都帝大文学部に入学して美学を専攻した。そんな朝比奈にメッテルが「プロの音楽家を目指しなさい」と勧め、授業料もとらず基礎から音楽をたたき込み、音楽家・朝比奈隆を育てた。
(写真は 朝比奈隆)

関西交響楽団 大阪音楽学校(現大阪音楽大学)の教授などを経て、昭和18年(1943)、 上海交響楽団の専属指揮者に就任、1年後には当時の満州・ハルビン交響楽団の指揮 者になりこの地で終戦を迎えた。満州で妻子とともに1年間、難民のような生活をし た後、昭和21年(1946)日本に無事帰国した。
 朝比奈の帰国を待ちわびるようにして音楽仲間が集まり「オーケストラを作ろう」 との話が進んだ。こうしてできたのが関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽 団)である。
 交響楽団の資金調達のため、朝比奈は京大卒業生の名簿を見て、大阪銀行(現住友銀行)の鈴木剛頭取の所へ単身乗り込んだ。当時は満足な洋服もなく進駐軍払い下げの服に下駄履きで頭取室を訪ねたら、秘書がスリッパを持って後を追っかけてきたとのエピソードがある。
 鈴木頭取が「オーケストラを作りなさい。金は何とかする」との心強い返事をもらった。鈴木頭取の助力で関西財界の有力メンバーが資金を出し、社団法人関西交響楽団がスタートした。昭和35年(1960)大阪フィルハーモニー交響楽団に名を変え、日本国内はもとより海外でも公演する関西ナンバーワンの交響楽団になった。朝比奈も海外の一流オーケストラの指揮をするようになり「世界の指揮者」の地位を不動のものにした。
(写真は 関西交響楽団)


 
服部良一  放送 11月1日(水)
出雲屋少年音楽隊 戦後の日本歌謡曲界に数多くのヒット曲を生みだし、新風を吹き込んだ作曲家・服部良一は、明治40年(1907)大阪・玉造に生まれた。東京に活動の場を移した後も、生まれ故郷・大阪をこよなく愛した音楽家で、平成5年(1993)85歳で死去したが「大阪に帰ってきた時の服部は、普段着の姿で大阪人になり切っていた」と言う人が多い。
 少年時代は、苦しい家計を助けるため新聞配達をしたり、郵便局で郵便の集配人や電報の配達人のアルバイトなどをした。小学校を卒業すると貿易商の店に住み込みで就職し、夜学の商業学校にも通った。だが、昼夜の別なく、こき使われる商店の仕事に絶望して自宅に逃げ帰る。しばらくして姉が勤めていた大阪・道頓堀のうなぎ屋の「出雲屋」が、店の宣伝のため少年音楽隊を結成すること知り入隊した。小学生のころから音楽的才能の片りんを見せていた良一少年の音楽家への足がかりとなった。
(写真は 出雲屋少年音楽隊)

メッテル 出雲屋少年音楽隊はその後解散し、ラジオ放送を開始した大阪放送局(現NHK大阪放送局)が、放送用に大阪フィルハーモニック・オーケストラを結成した。服部はこのオーケストラに楽団員として参加する。ここでロシアから日本に亡命していたロシア人指揮者、エマニュエル・メッテルと運命的な出会いをし、メッテルによって音楽才能が大きく引き伸ばされた。
 一方では、ジャズバンドにも参加して新しいジャンルを切り開いていた。しかし、関西での音楽活動に限界を感じ「世に出るには東京へ行かなければ…」との念を強くするようになり、昭和7年(1932)、25歳の時に上京した。作曲活動の舞台を東京に移した服部は「別れのブルース」「湖畔の宿」「青い山脈」「東京ブギウギ」などを作曲し、大ヒットを飛ばし続けた。
 その服部が人生をかけて取り組んだのが交響組曲「大阪カンタータ」だった。2年間かけて大阪の町を歩いて取材し、この曲を書きあげた。昭和49年(1974)大阪フェスティバルホールでの大阪カンタータ披露演奏会では、服部と同じくメッテルの愛弟子・朝比奈隆が指揮する大阪フィルハーモニー交響楽団が演奏した。
(写真は メッテル)


 
貴志康一  放送 11月2日(木)
旧庄屋屋敷西尾邸 夭折の天才音楽家と言われている貴志康一は、明治42年(1909)に母の実家の吹田市・旧庄屋屋敷西尾邸で産声をあげた。祖父がメリヤス業で成功した大阪・桜ノ宮の大商店という恵まれた家庭環境の中で10歳まで過ごした後、芦屋の別荘へ引っ越し甲南小学校へ転入、甲南高校へと進んだ。
 10歳の時、父からヴァイオリンを与えられていたが、当時は音楽より絵画に興味を持っていた。だが12歳の時、神戸・新開地の聚楽館で聴いたヴァイオリニストの世界的巨匠ミッシャ・エルマンの演奏に魅せられ、ヴァイオリンへと傾倒していく。
 夜遅く自宅の2階でヴァイオリンの練習としていた時、ロシア革命の難を逃れ神戸に亡命していたロシア人ヴィオリニストのミヒャエル・ウェクスラーがバルコニーから突然現れ「ぜひ、あなたの指導をさせて欲しい」と懇願された。この劇的な出会いが音楽家・貴志康一へ導く最初の師となり、ウェクスラーから演奏テクニックだけでなく、クラシック音楽の神髄を学んだ。
(写真は 旧庄屋屋敷西尾邸)

芦屋仏教会館 貴志は甲南高校を2年で中退し、ジュネーブ国立音楽院へ留学する。送別コンサートが当時はモダンな洋館の芦屋仏教会館大講堂で開かれた。2年後、ジュネーブ国立音楽院を首席で卒業して帰国、ヴァイオリニストとしてデビューした。
 その後、2度にわたり渡欧してヨーロッパの音楽家らに師事してその才能に磨きをかけている。昭和9年(1934)にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、自作の交 響組曲「日本スケッチ」、交響曲「仏陀」を初演奏した。
 翌年、帰国すると若手指揮者として新交響楽団(現NHK交響楽団)を指揮し、日本で初めての暗譜による第9交響曲を演奏している。作曲活動にも精力的に取り組み交響曲、管弦楽曲、ヴァイオリン協奏曲、ヴァイオリン独奏曲、オペレッタ、歌曲など作曲している。また、映画で日本文化を海外に紹介する試みにも取り組んでいた。新進気鋭の若手ヴァイオリニスト、指揮者として期待されていた矢先の昭和12年(1937)に盲腸炎を悪化させ、腹膜炎を起こし28歳の若さでこの世を去った。
(写真は 芦屋仏教会館)


 
日本テレマン協会  放送 11月3日(金)
夙川公園 西宮市の夙川西岸にある住宅街の中に、ネオ・ゴシック様式の塔がそびえる夙川カトリック教会がある。昭和7年(1932)建築の教会で、日本で始めて組鐘(カリヨン)が取り付けられた教会として知られている。
 この教会で洗礼を受け、子供時代を夙川で過ごした作家の故・遠藤周作は「お寺の鐘とチャペルの鐘が入り交じって響くのを、東洋と西洋が融合するかのように聴いた」と言っており、住民らにも夙川の音として親しまれてきた。
(写真は 夙川公園)

夙川カトリック教会 ネオ・ゴシック建築の外観、大聖堂の空間、美しいステンドグラスなど素晴らしい建築美の教会に、思わず引き込まれるように入ってしまう。
 大聖堂の地下に、日本で唯一のバロック音楽専門団体として知られている「日本テレマン協会」の練習場がある。テレマン協会は、定期的に教会音楽コンサートを開くなど、身近で楽しめる音楽の普及に努めている。教会の地下で磨き上げられ、生まれた美しい音色が、多くの人たちを楽しませている。
(写真は 夙川カトリック教会)


◇あ    し◇
西尾邸(旧庄屋屋敷保存活用会)JR京都線吹田駅、阪急千里線吹田駅下車徒歩それ
ぞれ10分。
芦屋仏教会館JR神戸線芦屋駅、阪神芦屋駅、阪急芦屋川駅下車
徒歩それぞれ10分。
夙川カトリック教会阪急神戸線夙川駅下車徒歩5分。       
◇問い合わせ先◇
大阪フィルハーモニー協会06−6656−7701  
西尾邸(旧庄屋屋敷保存活用会)06−6381−0001 
芦屋仏教会館0797−22−1562 
夙川カトリック教会0798ー22−1649 
日本テレマン協会06−6343−1046 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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