月〜金曜日 21時48分〜21時54分


近江戦国ルート 

 「近江を制するものは天下を制す」といわれた戦国時代。天下取りを目指した戦国大名たちは、京の都に近く、北国街道と中山道の陸路、琵琶湖の水路などの交通の要衝を押さえようと近江の国を駆け巡った。戦国武将の野望の舞台となった近江は、姉川の戦いや関ヶ原の戦いなど幾度か戦場となり、多くの兵士らが血を流し命を落とした。戦乱の犠牲となった女性も多かった。反面、近江を制するために近辺に城が築かれ、城下町として発展して後世の都市基盤を築いた。


 
長浜・徳勝寺  放送 11月6日(月)
浅井長政とお市の方の像 浅井氏三代の居城だった小谷城は、日本の五大山城のひとつにあげられた難攻不落の城として知られている。元亀元年(1570)、三代目城主の浅井長政が姉川の戦いで織田信長に敗れ、3年後の天正元年(1573)、信長の命を受けた羽柴秀吉に攻められた。
 秀吉軍の猛攻撃に難攻不落の小谷城も持ちこたえられなくなり、敗戦を悟った長政は、妻のお市の方(信長の妹)と3人の娘を敵将・秀吉に託し、城内で父・久政と共に自刃して落城、浅井氏は滅亡した。ここから、お市の方と3人の娘・茶々、お初、お江の女性のドラマも始まる。
(写真は 浅井長政とお市の方の像)

浅井三代の墓 小谷城を落とした秀吉は天正2年(1574)に長浜城を居城とし、地名も当時の今浜から長浜に改めた。この時、小谷城下の清水谷(現湖北町)にあった浅井家の菩提寺・医王寺を城内に移築し、寺名も徳勝寺と改めた。関ヶ原の戦い後、城内にあった寺は城下へ移転し、さらに彦根城主・井伊直孝によって現在地に移された。
 徳勝寺本堂には本尊・釈迦牟尼仏像、秀吉が播州・書写山から移した薬師如来像と共に、長政・お市の方の木像、浅井三代の木像、小谷城初代城主・浅井亮政夫妻の木像が安置され、境内には浅井三代の墓がある。また、本堂南側の屋根の下の妻飾りは小谷城下時代のものと伝えられており、徳勝寺のいたるところに非運・浅井家の歴史がしのばれる。
(写真は 浅井三代の墓)


 
秀吉と長浜  放送 11月7日(火)
長浜城 小谷城を落城させ浅井氏を滅亡に追いやった羽柴秀吉は、初めて城持大名の地位を織田信長から与えられ、一国一城の主となって天正2年(1574)に小谷城に入った。しかし、すぐに琵琶湖畔の今浜にあった古城を修復して居城とし、地名も今浜から長浜に改めた。秀吉は琵琶湖の水運を重視し、今後の戦略上からも山城の小谷城より湖畔の城を選択した。
 秀吉は本能寺の変後、大坂へ出て天下を平定するが、関ヶ原の戦いで豊臣方の西軍が敗れ、徳川家康が天下を取った。元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡、この時、秀吉ゆかりの長浜城も廃城になった。昭和58年(1983)に長浜城が復元され、城内は「長浜城歴史博物館」として利用されている。長浜城の遺跡として石垣の一部や太閤井戸が残っている。
(写真は 長浜城)

豊臣秀吉の木像 長浜市内の知善院は秀吉が長浜城を居城とした時、小谷城から移して城の鬼門を守らせたという。大坂夏の陣で大阪城が落城する際、密かに持ち出された秀吉の木像が安置されている。当時の長浜の人々は、観音堂に安置されている十一面観世音菩薩座像の後ろに秀吉像を隠して拝んでいたと伝えられている。
 長浜市は秀吉が城下町を整備した時に都市基盤が築かれた。秀吉亡き後も長浜の人々の秀吉をしのぶ気持ちは強く、その表れのひとつが知善院の秀吉像といえる。また、長浜市内には秀吉にゆかりのある寺や史跡なども多く、今も秀吉をしのぶ気持ちは強いようだ。
(写真は 豊臣秀吉の木像)


 
安土城  放送 11月8日(水)
復元・安土城天守外観(信長の館) 天下統一を目指していた織田信長が、その拠点として天正7年(1579)に琵琶湖東岸の安土山に築城したのが安土城。わが国で初めて天守閣を備えた城で、高さ46m、外観は5層、内部は地上6階、地下1階という、世界で初めての木造高層城郭建築といわれた。
 天守閣は金箔を押した瓦で縁取られ、屋根は赤黄色に焼かれた唐風瓦で葺かれていた。内部は豪華な障壁画で彩られていた。地下1階から地上3階までは吹き抜けになっており、中心に宝塔が安置されていた絢爛(けんらん)豪華な城だった。安土町城郭資料館に20分の1の安土城の模型があり、内部の構造もひと目でわかるように工夫されている。
(写真は 復元・安土城天守外観(信長の館))

復元・安土城店守内部(信長の館) 「安土町文芸の郷」にある「信長の館」には、安土城天守閣の5、6階部分が原寸大で復元されている。信長は自分を天主として天界をイメージしている。5階は仏教の世界観による理想郷を描いている。金箔の壁と釈迦説法図のふすま絵に囲まれた総朱漆塗りの床の中央に2枚の畳が置かれている。
 最上階の6階は天上界を象徴する儒教、道教の世界観で表現されている。床、柱、梁は黒漆塗りで壁と天井は金箔。この金箔の壁には「孔子図」「老子図」「黄帝図」「文王図」などの聖人が描かれている。
 しかし、こうした絢爛豪華な安土城も本能寺の変で、信長が自刃した後に焼失し、築城後、わずか3年で姿を消した。今は当時をしのぶ石垣が残っているに過ぎない。
安土城に関する資料は少なく“幻の名城”といわれていたが、近年、わずかながらも資料が見つかり、城跡の発掘調査などでその規模や内部構造が解明されてきた。
(写真は 復元・安土城店守内部(信長の館))


 
彦根城  放送 11月9日(木)
太鼓門櫓 JR彦根駅前の騎馬鎧(よろい)武者像は彦根藩祖・井伊直政。関ヶ原の戦いで赤備えの鎧で奮戦した直政は彦根藩主に封じられ、関ヶ原の戦いで豊臣方の中心武将だった石田三成の居城だった佐和山城に入った。その子・直勝が慶長8年(1603)、佐和山城の南東の高さ136mの金亀山(こんきやま)、別名彦根山に築城を始めた。約20年の歳月をかけて元和8年(1622)に、三代目藩主・直孝の時に名城・彦根城が完成した。
 徳川幕府は近江に残る豊臣色の一掃を兼ね、小谷、長浜、佐和山、安土、大津などの各城の石垣や用材を彦根城の建設に使った。井伊直政は徳川幕府初期の徳川四天王のひとりで、その後も井伊氏は幕政の中心に位置し、幕末には大老・井伊直弼を出している。
(写真は 太鼓門櫓)

天守閣 彦根城は、明治維新後の廃城令もまぬがれ、琵琶湖の水を巧みに利用した堀や牛蒡積(ごぼうづみ)の石垣が、江戸時代のままの姿で残っている。外観は粗雑だが、強固さを誇る牛蒡積の石垣の上に建つ三重三層の天守閣は、大津城の天守閣を移築したもので、唐破風、千鳥破風を縦横に使った屋根、花頭窓(かとうまど)を配列した外観の建築美は、国宝にふさわしいものといえる。
 このほか、佐和山城から移築した佐和口多聞櫓(やぐら)、長浜城から移した天秤櫓、彦根寺楼門を移築した太鼓門櫓などが国の重要文化財に指定されている。
 常緑樹の緑に覆われ、月明かりの中に浮かぶ美しい彦根城は「月明・彦根の古城」として、琵琶湖八景のひとつになっている。平成5年(1993)から平成の大修理が行われ、国宝・天守閣が昔の美しい姿を取り戻し、平成9年(1997)の元日から再び一般公開が始まった。
(写真は 天守閣)


 
近江八幡・豊臣秀次の城下町  放送 11月10日(金)
八幡堀 豊臣秀吉の姉の子として生まれた豊臣秀次は、天正13年(1585)近江20万石の領主となり、現在の近江八幡市の八幡山に築いた城が八幡城。秀次は戦闘に備えた城下町でなく、商業中心の城下町作りを進めた。南北12筋、東西6筋の碁盤の目状に町を整備し、3年前に炎上した安土城下の商人や小幡商人(現五箇荘町)らを城下町に集めた。また、織田信長が安土城下で行った楽市楽座を取り入れ、商業を盛んにした。こうした秀次の商業重点主義が、後の近江商人を生む。今も江戸時代に栄えた近江商人の商家が新町通りに残っており、当時の繁栄ぶりをかいま見ることができる。
 八幡城の内堀の役目を果たし、琵琶湖と城下町を結ぶ水運のために掘った運河が八幡堀で、琵琶湖を往来する船を八幡堀に寄港させた。この八幡堀は昭和初期まで流通路として活用されたが、戦後の陸上交通の発達ですたれ、荒れるがままになっていた。近年、八幡堀が修復され、堀沿いには遊歩道も設けられ観光名所としてよみがえった。
(写真は 八幡堀)

新町 秀吉の養子となり、関白にまでなった秀次だったが、秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれると秀吉に疎まれる。ついに文禄2年(1595)秀吉の怒りを買い、謀反の罪を着せられ高野山で自害させられ、27歳で生涯を終えた。秀次自害後に八幡城も取り壊された。
 八幡山頂上の城跡にある瑞龍寺は、秀次の母・日秀尼(にっしゅうに)が秀次の菩提を弔うため、京都・嵯峨野の村雲に建立した寺。日蓮宗唯一の門跡寺院で村雲御所とも呼ばれていた。昭和37年(1962)に現在地に移された。瑞龍寺山門の左右の石垣は八幡城をしのばせ、城跡からは眼下に碁盤目状の近江八幡市街地や琵琶湖などが望め、その眺望は素晴らしい。
(写真は 新町)


◇あ    し◇
小谷城跡JR北陸線河毛駅からバス小谷城跡口下車徒歩30分。 
JR北陸線長浜駅からバス伊部南口下車徒歩50分。
長浜城跡(長浜城歴史博物館) JR北陸線長浜駅下車徒歩5分。
徳勝寺JR北陸線長浜駅下車徒歩15分。 
知善院JR北陸線長浜駅下車徒歩15分。 
安土城JR東海道線安土駅下車徒歩20分。 
信長の館JR東海道線安土駅下車徒歩25分。 
安土町城郭資料館JR東海道線安土駅前南広場。 
彦根城JR東海道線彦根駅下車徒歩15分。 
八幡城跡、瑞龍寺JR東海道線近江八幡駅からバス大杉町下車、ロープウエイで八幡山へ。
◇問い合わせ先◇
長浜市観光協会0749−62−4111 
長浜城歴史博物館0749−63−4611 
徳勝寺0949−62−5774 
知善院0749−62−5358 
安土町商工観光課0748−46−3141 
安土町観光案内所0748−46−4234 
安土町城郭資料館0748−46−5616 
信長の館0748−46−6512 
彦根市観光課0749−22−1411 
彦根市観光協会0749−23−0111 
彦根城0749−22−2742 
近江八幡市商工観光課0748−36−5517 
瑞龍寺0748−32−3323

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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