月〜金曜日 18時54分〜19時00分


古都・奈良の世界遺産 

 平成10年(1998)奈良市の6社寺(東大寺、興福寺、春日大社、元興寺、薬師寺、唐招提寺)と平城宮跡、春日山原始林が「古都奈良の文化財」として、ユネスコの世界文化遺産に登録された。8世紀の日本の首都だった奈良には、シルクロードを経てさまざまな文化が伝えられた。世界文化遺産登録で当時の木造建築の粋を集めた奈良の建造物群や遺跡などの文化財が、貴重な文化遺産として世界的にも認定された。今回はその一部を紹介する。


 
東大寺  放送 12月1日(月)
 「奈良の大仏さん」として国民の誰からも親しまれている東大寺は、数ある奈良の寺社の中で最もポピュラーでスケールの大きな寺と言える。大仏(国宝)は正式には毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)と言い、古都・奈良のシンボルでもあり、奈良を訪れた人なら必ず参拝している。毎日、修学旅行生や大勢の老若男女が大仏さんの前に立ち、畏敬の念と親しみの目で仰ぎ見られるビッグな仏さまだ。
 東大寺で世界文化遺産に登録されたのは、木造建築では世界最大の大仏殿(国宝)と大仏、聖武天皇の宝物が納められている正倉院、南大門など国宝8棟と重要文化財18棟。

南大門(国宝)

(写真は 南大門(国宝))

盧舎那仏(国宝)

 毘盧舎那仏とは華厳経などの教主で、万物を永遠に照らし人びとを救う宇宙的存在としての仏。凶作による飢饉や悪疫の流行による政情不安に悩まされていた聖武天皇は、この仏に救いを求め天平15年(743)金銅・毘盧舎那仏の造立の詔を発した。
 大仏造立は初め近江の紫香楽宮で始まったが、世情不安が続いたため都が再び奈良の平城京に遷され、大仏造立も現在の東大寺の場所へ移動して再び始まった。大きな大仏は8回にわけて銅と錫の合金が流し込まれて造られた。使われた銅は499トン、錫8.5トン、約4年の歳月をかけ天平勝宝元年(749)高さ(座高)15mの金色まばゆい大仏が完成した。

(写真は 盧舎那仏(国宝))

 大仏を安置する大仏殿も完成した天平勝宝4年(752)聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇のほか貴族、高官らが出席して盧舎那仏の開眼供養会が行われた。1万人の僧が参列し、インド僧の開眼師・菩提僊那(ぼだいせんな)が大仏に目を入れた瞬間、参列者から感激のどよめきが起こったと伝えられている。
 大仏殿は創建後、平安時代末期の平重衡の南都焼き討ちで焼失、再建後も戦国時代の兵火で再度焼失した。その後、再建のめども立たず大仏は約130年間も雨ざらしにされていたが、ようやく徳川5代将軍・綱吉の援助を受けて宝永6年(1709)に再建されたのが現在の大仏殿。創建時の大仏殿に比べると、規模はやや縮小されたものの高さ48mは木造建築で世界最大である。

大仏殿

(写真は 大仏殿)


 
元興寺  放送 12月2日(火)
 江戸時代の町並の面影が残っている奈良町の一角に建っているのが元興寺。元興寺は6世紀中ごろの飛鳥時代に日本に仏教が伝来し、崇仏派の蘇我馬子が排仏派の物部守屋を破って日本に仏教の受け入れの道を開いた。その翌年の崇峻天皇元年(588)馬子が、飛鳥の地にわが国初の正式の仏寺として法興寺(飛鳥寺)を建立した。
 和銅3年(710)の平城遷都の8年後の養老2年(718)に飛鳥の地から法興寺を移したのが元興寺。当時は広大な寺域に金堂、講堂、五重塔、僧坊が建ち並び、南都七大寺のひとつとして隆盛を誇っていた。

浮図田

(写真は 浮図田)

東門(重文)

 世界文化遺産に登録されたのは極楽坊(国宝)、禅室(国宝)、東門(国・重文)の3棟。飛鳥から移された元興寺は、室町時代の宝徳3年(1451)の大和の徳政一揆で伽藍(がらん)が焼失、極楽坊、五重塔、観音堂、僧坊の一部が残った。しかし五重塔、観音堂は江戸時代に焼失してしまい、広大な寺域には民家が進出し、寺は町の中に埋もれてしまうようになった。今はわずかに残っている五重塔跡の礎石や基壇、西小塔院跡などで往時をしのぶことができる。
 元興寺収蔵庫に安置されている高さがわずか5.6mの五重小塔(国宝)は、製作年代ははっきりしないが奈良時代のものと推測され、五重塔の模型ではないかと見られている。

(写真は 東門(重文))

 世界文化遺産に登録されている極楽坊は僧坊のひとつ。奈良時代の終わりごろ浄土信仰に心を寄せ、浄土教の研究をしていた僧・智光が「智光曼荼羅」と安置したことから南都の浄土信仰の中心となり、極楽坊、極楽堂、曼荼羅堂などと呼ばれた。
禅室も元興寺創建当時の僧坊のひとつで念仏道場だった。鎌倉時代に改築されているが、鎌倉時代の僧坊の遺構を残している貴重な建物。
 極楽坊、禅室の屋根には飛鳥の法興寺から運んだ瓦が、約1400年後の今も屋根の上に一部残っている。またこの屋根は、丸瓦を重ねて葺く行基葺きと言われる独特の手法を今に伝えている。

禅室(国宝)

(写真は 禅室(国宝))


 
平城宮跡  放送 12月3日(水)
 和銅3年(710)元明天皇は、都を藤原京から大和盆地の北部へ遷し平城京を建設した。平城京は唐の都・長安をモデルにし、東西4.3km、南北4.8km、東に東西1.6km、南北2.1kmの外京がある。その面積は約2500haで長安の約10分の1の規模。
 平城京北端の平城宮は、天皇の住まいである内裏や政治や国家的儀式を執り行う大極殿、朝堂院のほか二官八省の役所が建ち並び、貴族や役人の住まいなどがあった。
平城宮は東西13km、南北1kmで甲子園球場の約30倍の120ha。平城宮の規模は約半世紀にわたる発掘調査で明らかになり、平城宮跡全体が世界文化遺産に登録された。

第一次大極殿

(写真は 第一次大極殿)

第二次大極殿跡

 都が長岡京を経て平安京へ移った後の平城宮は、田んぼになってしまい土の下に埋もれ、長い間忘れられていた。江戸時代末に藤堂藩の北浦定政と言う人物が、平城宮の規模を実測によって明らかにした。さらに明治33年(1900)奈良県技師・関野貞が大極殿跡を明らかにし、それに応えて平城宮の保存運動が起こった。
 戦後の昭和29年(1954)道路拡張工事に伴う発掘調査がされ、昭和34年(1959)から奈良国立文化財研究所(現奈良文化財研究所)が本格的な発掘調査を続けている。平城宮からは建物跡や瓦、土器、木簡などの遺物が数多く出土し、平城宮の宮殿や建物、役所の仕事の内容や宮殿へ運ばれてきた物資の様子などが明らかになってきた。

(写真は 第二次大極殿跡)

 発掘調査に基づく建物などの復原作業も進められ、平成10年(1998)に幅25m、奥行10m、高さ20m、丹土(につち)色の赤い朱雀門が復原され、34年の歳月を費やして平城宮跡によみがえった。この年、宮跡東端に女帝の称徳天皇が儀式や宴会を催した東院庭園も復原された。このほか役所の建物や築地塀が復原されたり、第2次大極殿跡の基壇や柱跡などの遺構の整備も進められている。
 平城宮跡の東にある遺構展示館では、発掘調査で出土した建物の柱跡などの遺構に屋根をかけて保存しており、出土したままの姿で見学することができる。平城宮跡資料館には木簡などの出土品や平城宮の模型などがが展示されている。

遺構展示館

(写真は 遺構展示館)


 
春日大社  放送 12月4日(木)
 東に御蓋山(みかさやま)を仰ぎ、西は春日野に続く約32万坪(約100ha)の神域を持つ春日大社は、本殿の国宝4棟と重要文化財の27棟とその境内が世界文化資産に登録された。
 春日大社は和銅3年(710)藤原京から平城宮へ都を遷した時、藤原不比等が氏神として常陸国・鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を勧請して祀ったのが起こりとされる説がある。また奈良時代後期の神護景雲2年(768)に藤原永手が、鹿島神宮から武甕槌命、下総国・香取神宮から軽津主命(ふつぬしのみこと)、河内国・枚岡神社から天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめかみ)の4伸を招いて祀り、藤原氏の氏神としたのが春日大社の始まりとの説もある。

ニの鳥居

(写真は ニの鳥居)

楼門(重文)

 春日大社一の鳥居から二の鳥居にかけて、900m余りの参道の両側に苔むした石燈籠約2000基が立ち並んでいる。また社殿と回廊には約1000基の釣燈籠がある。これらの燈籠は神への祈り、感謝の気持ちを込めて貴族や武士、商人、庶民までの幅広い層から奉納されたもので、春日信仰の根強さを示している。江戸時代までは毎夜、灯がともされていたが、明治時代以降は「春日万燈籠」として2月の節分の日と8月14、15日の中元の日に3000基の燈籠に灯がともされ、境内に幽玄の世界を現出する。
 石燈籠の中で最も古いものとされているのが、関白・藤原忠通が奉納した「柚の木燈籠」とされており、現在も燈籠の寄進は続いている。

(写真は 楼門(重文))

 世界文化遺産に登録されている朱塗りで壮麗を極める本殿は、東から第1殿(武甕槌命)、第2殿(軽津主命)、第3殿(天児屋根命)、第4殿(比売神)の4棟が並んでいる。この本殿は春日造と言われ従来の神社建築様式にないものがあり、仏教建築の影響を受けていると見られている。鎌倉時代から20年毎に本殿を造り替える式年造替(ぞうたい)が行われていたが、明治時代以降は屋根を葺き替える修理で造替に代えられている。現在の本殿は江戸時代末の文久3年(1863)に建て替えられたものである。
 春日大社境内には「春日若宮おん祭」で有名な若宮神社をはじめ摂社5社、夫婦大国神社をはじめ末社56社があり、これらの神社を総合して春日大社が成り立っている。

中門(重文)

(写真は 中門(重文))


 
春日山原始林  放送 12月5日(金)
 世界遺産に登録された「古都奈良の文化財」には、自然遺産である春日山原始林も含まれた。春日山は春日大社東の裏山とも言える笠を伏せたような形の御蓋山(みかさやま)とその東の春日山最高峰・花山(標高498m)の二峰からなっている。
この二つの峰の間に広がるうっそうとした森林が「春日山原始林」で、春日山の約3分の2、300haを占めている。
 平安時代初期の承和8年(841)に狩猟や伐採が禁止され、昔から神山として信仰されいた御蓋山が春日大社の神域になり、人の手が入らない原始林として今日まで受け継がれてきた。

春日山原始林

(写真は 春日山原始林)

首切り地蔵

 巨木がうっそうと茂る原始林にはイチイガシ、アカガシ、モミ、スギ、ヤマザクラなど175種の樹木、598種の草花が生育している。また、シカ、イノシシ、タヌキなど10種の動物、ヒヨドリ、フクロウなど60種の鳥類、小型のチョウで天然記念物のルーミスシジミなど1180種の昆虫類が見つかっている。
 春日山は明治時代になって国有林になり、明治22年(1889)に奈良公園の一部に編入された。都会地に隣接し原始林は珍しく、さらに暖地性と温帯性の樹木が入り交じっている林は植物学的にも貴重な存在で、現在は国の特別天然記念物に指定されている。

(写真は 首切り地蔵)

 春日山原始林内には剣豪の里・柳生への通じる柳生街道がある。昭和初めごろまで柳生方面から米や薪、炭を牛馬の背に乗せて奈良へ運び、奈良から日用品を柳生へ運んだ道だったが、今は柳生へのハイキングコースとして人気を集めている。
 この街道沿いに荒木又右衛門が試し斬りをしたと言う首切り地蔵、朝日があたると美しく浮かび上がる朝日観音、大仏殿建設の石材を掘り取った跡に20体の石仏が彫られた春日山石窟仏、4畳半ほどの広さの洞窟の壁に6体の仏像が線刻された地獄谷聖人窟などの磨崖仏や石仏が点在している。また水が落ちる音がウグイスの鳴き声に聞こえることからその名がついた鴬(うぐいす)の滝など自然がいっぱい。

朝日観音

(写真は 朝日観音)


◇あ    し◇
東大寺JR関西線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅から
市内循環バスで大仏殿・春日大社前下車。
JR関西線奈良駅下車徒歩20分。
近鉄奈良線奈良駅下車徒歩15分。
元興寺JR関西線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅下車
徒歩20分。 
平城宮跡近鉄奈良線、橿原神宮線西大寺駅からバスで
平城宮跡下車。 
JR関西線奈良駅からバスで平城宮跡下車。
春日大社JR関西線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅から
市内循環バスで春日大社表参道下車徒歩10分。
近鉄奈良線奈良駅徒歩30分、
JR関西線奈良駅下車徒歩35分。
春日山原始林JR関西線奈良駅、近鉄奈良線奈良駅から
市内循環バスで春日大社表参道下車徒歩で
春日山原始林へ。
◇問い合わせ先◇
奈良市役所観光課0742−34−1111 
東大寺0742−22−5511 
元興寺0742−23−1377 
平城宮跡奈良文化財研究所0742−30−6752
文化庁管理課0742−32−5106 
春日大社0742−22−7788 
春日山原始林奈良公園管理事務所0742−22−0375

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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