月〜金曜日 20時54分〜21時00分


京都市・紫式部と源氏物語

 紫式部と源氏物語は、その名前を知らぬ日本人はいないほどの名作と文豪である。平安時代に、世界的名作「源氏物語」を著した紫式部の文才は並々ならぬものであった。しかし、紫式部には謎の部分もかなり多く、その私生活などはつまびらかでない。一条天皇の中宮・彰子(しょうし)に仕える一介の女房が書き上げた源氏物語と紫式部に関わりの社寺や旧跡を訪ねその人間像の一部をかいま見たい。


 
廬山寺 放送 12月3日(月)
紫式部(土佐光起筆・大津石山寺蔵) 京都御所の東側、京都府立医大病院の北西にある廬山寺は、源氏物語の作者で世界的な文豪とたたえられている紫式部が居住していた邸宅があった所と言われている。廬山寺は平安時代に船岡山に創建され、天正年間に現在地に移建されたが、寺地になる前は紫式部の曽祖父・藤原兼輔の邸宅だったところから、おそらく彼女もここで育ち、結婚生活を送り一人娘の賢子(けんし)を産んでいると思われる。夫の死別後に書き始めた源氏物語をはじめほとんどの作品は、この邸宅で執筆したと見るのが妥当であろう。
 紫式部の生没年は不祥で、生まれは973年頃没年は1019年頃と推測されている。
本名もはっきりせず藤原香子(こうし)との説もあるが定かでない。
(写真は 紫式部(土佐光起筆・大津石山寺蔵))

源氏の庭 廬山寺は元三大師・良源の創建で、与願金剛院と呼ばれ初めは北山にあったが、寛元3年(1245)船岡山に移建し、さらに天正年間(1573〜92)に現在地に移った。
古くから皇室との関係が深く、現在の本堂・御牌殿などは仙洞御所の一部を移建したものと伝えられている。境内には皇族や皇妃の墓が多い。
 御牌殿南には平安時代の感じを考証して復元した「源氏の庭」がある。庭の中央の自然石に刻まれた「紫式部邸宅址」の碑の文字は文学博士・新村出氏の筆による。この「源氏の庭」は平安朝の庭園の趣がよく表現さていると源氏物語研究者や参詣者らに人気がある。秋は境内の紅葉が美しい。
(写真は 源氏の庭)


 
大覚寺 放送 12月4日(火)
宸殿 源氏物語の主人公・光源氏は「光る君」「光る源氏」ともてはやされ、現世の栄華を極める。だが、その心の中には無情の思いを抱き、出家して仏に仕える生活に憧れていた部分もあった。そして嵯峨・大覚寺の南に御堂を建立するのだが、大覚寺東の大沢池あたりの風景は、そんな光源氏の憂愁に満ちた心象をしのばせている。
 大沢池は嵯峨天皇の嵯峨離宮の苑池として中国の洞庭湖を模して造ったもので、庭湖とも呼ばれている。静かな水面には北嵯峨の山を映し、池には天神島、菊島があり、周囲の堤は春は桜、秋は紅葉の名所として知られている。また平安時代前期の池泉舟遊式庭園としての名残をよくとどめた日本最古の人工庭園のひとつと言われており、秋は紅葉に彩られている。
(写真は 宸殿)

心経宝搭 平安時代の建築の面影を伝える大覚寺は、大同4年(809)に即位した嵯峨天皇が皇后との新居にした離宮を、貞観18年(876)に寺としたのが始まりとされている。
 後宇多上皇が大覚寺に入り、この寺で院政をとったことから嵯峨御所とも呼ばれた。上皇がこの寺で没して以来、この皇統を大覚寺統と称した。元中9年(1392)の南北朝の和議も大覚寺で行われ、南朝(大覚寺統)の後亀山天皇が、北朝(持明院統)の後小松天皇に三種の神器を譲り譲位した。大沢池の西に見える心経宝塔は嵯峨天皇の心経写経1150年記念の昭和42年(1967)に建てられた。
(写真は 心経宝搭)


 
清涼寺 放送 12月5日(水)
仁王門 源氏物語で光源氏が大覚寺の南に建立した御堂は嵯峨天皇の第12皇子・源融(みなもとのとおる)の山荘「棲霞観(せいかかん)」がモデルとなっているようだ。棲霞観は寛平7年(895)源融が死ぬと、遺族が御堂を建立し棲霞寺としたのが阿弥陀堂の始まりで、今は清涼寺に吸収された形になっている。現在の阿弥陀堂は江戸時代の文久3年(1863)に再建されたもの。
 風流貴公子であった源融は光源氏のモデルと言われている。彼の供養のために作られた阿弥陀三尊像(国宝)は、源融が死亡する前に自分の顔に似せて造られた像で、光源氏のモデルの顔とされることから「光源氏の写し顔」の伝説がある。清涼寺には源融の墓と伝えられる宝篋印塔や嵯峨天皇・檀林皇后の石塔がある。
(写真は 仁王門)

阿弥陀三尊像座像(国宝) 清涼寺は嵯峨釈迦堂の名で呼び親しまれている。
本尊の釈迦如来像(国宝)はインド、中国、日本の三国伝来の生身のお釈迦さまとして崇敬されており、日本三如来のひとつ。釈迦が37歳の時の生き姿を刻んだとされる像が中国に伝来、その像を模刻した釈迦如来像が日本に伝わり清涼寺の本尊となった。
 釈迦如来像を模刻した時、中国の尼僧が像の体内に絹で作られた五臓六腑(ごぞうろっぷ)を入れ、これが昭和28年(1953)に発見された。すでにこの時代の中国では人間の体内の構造が知られていたこと示している。
(写真は 阿弥陀三尊像座像(国宝))


 
大原野神社 放送 12月6日(木)
鯉沢の池 京都市の西郊、大原野の小塩山の麓にある大原野神社は、紫式部が若いころから何度も訪れところで、父と一緒に越前の国府(福井県武生市)にいた時も、都の生活を懐かしんで小塩山の松を詠んだ歌がある。この辺りは古くから開けたところで、都を奈良から長岡京へ移した桓武天皇も、この大原野で鷹狩りを楽しんだと伝えれている。
(写真は 鯉沢の池)

社殿 大原野神社は延暦3年(784)長岡遷都の際、奈良の春日大社を勧請、さらに平安遷都後に現在地に移した古社で、藤原氏の氏神で藤原氏出身の后妃の行啓が度々あった。
中でも寛弘2年(1005)紫式部が仕えた一条天皇の中宮・彰子(しょうし)の行啓は、父・藤原道長も加り絢爛(けんらん)たる行列であったと言う。この行啓に紫式部が加わっていたかは定かでない。
 社殿は奈良の春日大社を模して造営され、境内には奈良・猿沢池をまね鯉沢池や鹿園がある。大原野神社の神域は約8万3000平方mもあり、このうち6万6000平方mは緑豊かな林になっている。春は桜、秋は紅葉に彩られた境内や神社周辺の景色を平安時代も殿上人たちが楽しんだようで、今も同じように参詣者や行楽客を楽しませている。
(写真は 社殿)


 
紫式部を訪ねて 放送 12月7日(金)
紫式部産湯の井(真珠庵) 紫式部はその生没年、生誕地、本名も定かではないが、紫式部が産湯に使ったとされる「産湯の井」なるものが紫野・大徳寺塔頭の真珠庵にある。だが、この真珠庵の開創は15世紀で、すでに紫式部はこの世にいないのだが……?。
 引接寺(いんじょうじ)境内の十重の石塔婆は、室町時代の元中3年(1386)の刻銘があり、紫式部の子孫の円阿上人が建立した紫式部供養塔と伝えられている。夢に閻魔大王が現れ、上人に塔婆の形を教えたとの伝えがある。
(写真は 紫式部産湯の井(真珠庵))

紫式部墓 引接寺は本堂に閻魔(えんま)大王をまつっていることから「千本えんま堂」の呼び名で親しまれている。あの世とこの世を自由に往来したと伝えられる、平安初期の学者で政治家の小野篁(たかむら)が、地獄で苦しむ人たちを救ってやろうと閻魔大王から「塔婆供養」の秘法を授かり、船岡山の麓に小堂を建て自ら刻んだ閻魔大王をまつり、塔婆供養をしたのが「千本えんま堂」の始まり。
 源氏物語の本は、紫式部の初稿本や改稿本などのほか数多くの写本があった。平安時代の由緒ある写本は消失し、現存するのは鎌倉時代以降の写本となった。その写本のひとつが京都文化博物館に展示されている「源氏物語・大島本」で、室町時代に書写されたもので藤原定家の写本「青表紙本」に最も近い写本と言われている。「大島本」とは旧所有者の名前に由来する。
(写真は 紫式部墓)


◇あ    し◇
廬山寺京阪電鉄出町柳駅下車 徒歩10分。
京都市バス府立医大病院前下車 徒歩3分。
大覚寺京都市バス、京都バス大覚寺下車。
清涼寺JR山陰線嵯峨嵐山駅下車 徒歩5分。
京福電鉄嵐山駅下車 徒歩8分。
阪急電鉄嵐山線嵐山駅下車 徒歩30分。
京都市バス、京都バス嵯峨釈迦堂前下車。
大原野神社JR東海道線向日町駅、阪急電鉄京都線東向日駅から
 バス南春日町下車 徒歩10分。
大徳寺真珠庵京都市バス大徳寺前下車。
引接寺(千本えんま堂)京都市バス乾隆校前又は千本鞍馬口下車 徒歩3分。
京都文化博物館地下鉄烏丸御池駅下車 徒歩3分。    
◇問い合わせ先◇
廬山寺075−231−0355
大覚寺075−871−0071
清涼寺075−861−0343
大原野神社075−331−0014
大徳寺真珠庵075−492−4991
引接寺(千本えんま堂)075−462−3332
京都文化博物館075−222−0888

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
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(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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  「新しい余暇ゾーンづくり」
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を目指し,
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