月〜金曜日 18時54分〜19時00分


高槻市 

 高槻市は「三島古墳群と西国海道のまち」と呼ばれ、古代から淀川河畔で栄えた所である。市街地北の山麓には数多くの古墳があり、中でも今城塚古墳は最近、巨大な家形埴輪などが出土し、継体天皇陵説が強まったと熱い視線がそそがれている。


 
街道の面影  放送 12月9日(月)
 京から大宰府に通じる西国街道が高槻市域を東西に貫いている。西国街道は奈良、平安時代から西国へ通じる山陽道として往来の盛んな重要路であった。京から大坂を通らずに山崎、芥川(高槻市)郡山(茨木市)、瀬川(箕面市)、昆陽(伊丹市)、西宮の6宿を経て最短距離で西国へ通じる街道だった。戦国時代には豊臣秀吉、そして幕末には尊攘派の三条実美ら公家が長州に逃れた七卿落ちや志士たちも駆け抜けた街道である。
 江戸時代の正式な名称は「山崎通(みち)」で、西国大名が参勤交代に利用し、高槻の芥川宿には本陣がおかれ、旅籠(はたご)も33軒あった。

西国街道

(写真は 西国街道)

冬籠(総本家田辺屋)

 芥川宿には今も1里(約4km)ごとに設けられた一里塚が残っている。一里塚は街道の両側に塚を築き、エノキを植えて街道の路程の目印にした。芥川宿には祠(ほこら)が建てられた一里塚が街道南側のものだけ残っており、大阪府の史跡に指定されている。
今の芥川宿は街道の町並みとこの一里塚が往時の面影をしのばせている。
 西国街道から旧高槻城へ通じる町の一角に天保8年(1837)創業、旧高槻藩御用の和菓子屋の老舗・田辺屋がある。菓子作りには地下100mから汲み上げる井戸水を使い、菓子のあんを煮る燃料にはクヌギの薪(まき)を使うなど、創業以来の伝統の製法を守り続けている。殿様が好み、朝廷にも献上された上品な味わいの菓子「冬籠(ふゆごもり)」は今も人気を保っており、雅味を好む甘党客を引きつけている。

(写真は 冬籠(総本家田辺屋))


 
高槻城跡  放送 12月10日(火)
 阪急高槻市駅の東に真っ直ぐ南北に延びる「八丁松原」と呼ばれる松並木が続くが、これはかつて西国街道から高槻城にいたる道だった。
 高槻城は平安時代に城が築かれたのが始まりと伝えられているが、城の存在が確認できるのは、14世紀の室町時代に入江氏がここに居城を構えてからである。当初は小さな館程度だったが、戦国の世、天正元年(1573)高山右近が町家も堀で囲い込んだ堅固な城を築いた。さらに徳川時代に入って西国ににらみを利かす拠点として、幕府による城の修築が行われた。3層の天守閣や高石垣、土塁をめぐらす、東西510m、南北630mの城域の強固な近世城郭だったことが発掘調査などでわかった。

高槻城跡

(写真は 高槻城跡)

高槻市立歴史民族資料館

 明治維新後、高槻城は取り壊され、城の石垣は鉄道工事の用材などに使われた。明治42年(1909)には陸軍工兵隊の駐屯地となり、城跡は大きく変貌した。現在は城域の一部が城跡公園として整備され、市民らの憩いの場に変わった。公園内には江戸時代中期の商家・旧笹井家を移築した歴史民俗資料館があり、生活用具や農具、漁具、寒天製造用具などの民具や民俗資料を展示している。
 戦国時代に高槻城主だった高山右近はキリシタン大名として有名だ。城内に教会や宣教師の住宅を建てたり、キリスト教の布教、保護に力を入れた。だが、豊臣時代に明石に転封となり、徳川時代にはキリスト禁教令でフィリピンに追放され、マニラで没している。
高槻市とマニラには右近のブロンズ像がある。

(写真は 高槻市立歴史民族資料館)


 
古墳のまち  放送 12月11日(水)
 高槻市の淀川北岸の山麓地帯は日本有数の古墳地帯で、古墳時代各期の古墳が存在している。その中でも今、全国の考古学者や考古学ファンの注目の的になっているのが今城塚(いましろづか)古墳。この古墳は全長190m、後円部の直径100m、高さ9m、前方部の幅140m、高さ12m。二重の濠に囲まれた全長350m、全幅340mに及ぶ広大な墓域を持つ、淀川北岸では最大の前方後円墳。6世紀前半に築かれた大王の墓と見られ、築造の年代や墳丘の形状、出土した埴輪などからこの古墳が「真の継体天皇陵」との見方が強まってきた。
 それを裏付けるのが高槻市立埋蔵文化財調査センターが、最近行った今城塚古墳北側内堤の発掘調査で出土した日本で最大級の神殿風の家形埴輪(高さ約170cm)や巫女(みこ)形埴輪(高さ約100cm)、冑(かぶと)と鎧(よろい)をまとった武人埴輪など数多くの埴輪である。これらの埴輪は強大な権力を持った人物を象徴するものであり、整然と配置された埴輪が何を表しているのかまだ解明されていないが、今城塚古墳が継体天皇陵の可能性が高いとの見方が強まってきた。

巫女形埴輪(今城塚古墳)

(写真は 巫女形埴輪(今城塚古墳))

青龍三年鏡(複製・安満宮山古墳)

 今城塚古墳から東へ約4km離れた所で、平成9年(1997)に発見された安満宮山(あみみややま)古墳は3世紀後半のもので、中国・魏の年号「青龍三年(235)」銘のある方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)など青銅鏡5面、ガラス玉1000個以上、鉄刀など貴重な遺物が出土した。このうち4面の青銅鏡は魏の時代の青龍3年(235)と景初3年(239)に製作されたもで、邪馬台国・卑弥呼が魏から送られた「銅鏡100枚」の一部の可能性があり、邪馬台国と深いつながりのあった人物の墓と見る説がある。
 安満宮山古墳は古墳の外形、墓室などを復原し、複製の青銅鏡が墓室に配置されており、いつでも自由に見学できる。また、今城塚古墳から出土した家形埴輪の複製品が埋蔵文化調査センターに展示されている。今城塚古墳の北西約1.5kmの所に、約100年間にわたって18基の窯を築き継体天皇陵の太田茶臼山古墳(茨木市)や今城塚古墳の埴輪を作った埴輪工場跡がある新池遺跡がある。

(写真は 青龍三年鏡(複製・安満宮山古墳))


 
富田寺内町  放送 12月12日(木)
 JR摂津富田駅の南方の富田寺内町は、文明8年(1476)本願寺8世・蓮如が室町幕府管領・細川勝元にこの地を与えられ「富田道場」を開いたことから、寺内町が形成されていった。蓮如はこの富田道場で親鸞上人が著した、浄土真宗の立教開宗および教義に関する根本聖典の「教行信証」を写経した。これに因んで教行寺と称されるようになり、北摂での一向宗の布教拠点として現在に至っている。
 富田道場は天文5年(1536)の一向宗弾圧で道場や信徒の家々が、北摂の武士たちによる焼き打ちにあったが、4年後に再建がゆるされた。蓮如は晩年しばしば富田の教行寺を訪れており、境内には蓮如上人御愛樹築山紅梅や蓮如上人腰掛石と呼ばれる石が残っている。

教行寺

(写真は 教行寺)

善門寺・方丈

 教行寺のすぐ北側にある普門寺は明徳元年(1390)開創の禅刹。永禄年間(1558〜70)には、室町幕府14代将軍・足利義栄や幕府の管領・細川晴元らが滞在したので普門寺城と呼ばれ、境内には堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺であった。
 また中国・明の高僧・隠元が明暦元年(1655)から宇治の黄檗山万福寺が開かれるまでの6年間滞在している。こうした古刹も明治維新後の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、寺の土地や諸堂の多くを失った。方丈(国・重文)は昭和57年(1982)から2年かけて解体修理が行われ、建築当初の姿に復元された。方丈前の枯山水庭園は石を配した禅寺にふさわしい庭園で、国の名勝に指定されている。

(写真は 善門寺・方丈)


 
富田の地酒  放送 12月13日(金)
 高槻市富田の地名は、かつてこの地にあった皇室御料の「屯田(とんでん)」に由来し、中世から優良米の産地だった。その良質の酒米と石灰層を通って湧き出る阿武山山系の清水を酒水として酒造業が中世に興った。文明3年(1471)に創建された高槻市内の永照寺の縁起の中に酒造業を営む檀家が寺のために尽力したとの記録がある。
 江戸時代にはいって大坂夏の陣での富田の酒造家の功労に報いるため、徳川家康が富田の酒造りを保護した。こうして富田酒は灘・伊丹・伏見の酒と並んで江戸でもてはやされた。元禄時代の儒学者・博物学者貝原益軒の紀行文にも、富田の酒造業の隆盛ぶりが記されている。

酒造り

(写真は 酒造り)

清鶴酒造

 豊臣・徳川時代の富田郷の中心となったのが蔵方十人衆と呼ばれた町衆組織。酒造業で十人衆のひとり、紅屋・清水市郎右衛門の流れを汲む清鶴酒造は、安政3年(1856)創業の醸造元で、現在、富田で最も古い歴史を持っている酒造業会社である。今も但馬の杜氏が地道に富田の酒造りの伝統を守り、新酒造りにいそしんでいる。
 手間ひまを惜しまない酒造りで「甘」「酸」「苦」「渋」「辛」の五味が調和し「口に含んでのど越し良く、香り高く、後味にふくよかな余韻が残る」と称賛された。この独特の味が江戸で受け、富田酒の人気を高めた。
 松尾芭蕉の愛弟子・蕉門十哲のひとりで酒豪で知られた宝井其角(たからいきかく)が「けさたんと のめやあやめの とんたさけ」と富田酒を詠んでおり、上から詠んでも下から詠んでも同じ回文になっている。

(写真は 清鶴酒造)


◇あ    し◇
芥川宿、田辺屋
(和菓子)
JR東海道線高槻駅下車徒歩5分。
阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩10分。 
高槻城跡阪急電鉄京都線高槻市駅下車徒歩10分。
JR東海道線高槻駅下車徒歩15分。 
今城塚古墳JR東海道線摂津富田駅下車徒歩20分。
JR東海道線摂津富田駅からバス・福祉センター前下車徒歩3分。
高槻市埋蔵文化財
調査センター
JR東海道線摂津富田駅からバス・北南平台下車。
安満宮山古墳JR東海道線高槻駅からバス磐手橋下車徒歩15分。 
新池遺跡JR東海道線摂津富田駅からバス・上土室下車徒歩5分。 
教行寺JR東海道線摂津富田駅、阪急京都線富田駅下車徒歩15分。
普門寺JR東海道線摂津富田駅、阪急京都線富田駅下車徒歩10分。
清鶴酒造会社JR東海道線摂津富田駅、阪急京都線富田駅下車徒歩15分。
◇問い合わせ先◇
高槻市広報課072−674−7306 
高槻市教育委員会
文化財課
072−674−7652 
田辺屋072−685−0256 
高槻市立歴史民俗
資料館
072−673−6446 
埋蔵文化財
調査センター
072−694−7562 
教行寺072−696−3182 
普門寺072−694−2093 
清鶴酒造会社072−696−0014 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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