月〜金曜日 20時54分〜21時00分


滋賀・湖西を歩く 

 北国海道西近江路は現在の大津市で東海道を別れ、比叡山、比良山系の東側、琵琶湖西岸沿いに越前・敦賀に至る街道で、京、大阪と北国を結ぶ最短路として古代から重要な役割をはたしてきた。その街道沿は宿場町として、或いは湖上交通の拠点・港町として栄えた。昭和49年(1974)JR湖西線が開通してから、琵琶湖西岸のリゾート地としてクローズアップされ街道筋の町は変わったが、今も街道筋の宿場町や湖上交通で繁栄した時代の港町の面影が随所に残っている。


 
海津浜(マキノ町)  放送 12月10日(月)
清水の桜 マキノ町を貫く北国海道・西近江路は古代から都と北陸つなぐ重要路で、古代三関のひとつ愛発(あらち)関が海津から敦賀への通じる七里半越にある。「あらち山 雪げの空に なりぬれば かいつの里に みぞれふりつつ」と平安時代末期に詠まれた歌が、この地方の雪の厳しさ、けわしい山道の状況がうかがわせている。
 平安時代中期から湖上を往来する船運も発達して、琵琶湖北西の海津の浜は宿場町、港町として繁栄していった。江戸時代に海津は軍事、交通、経済上からの重要地として幕府の直轄地となった。江戸時代の泰平の世が続くと人の往来や荷物の出入りも多くなり、湖上船便の大型化とともに海津は活気づいてた。
 樹齢300年以上と言われる桜の巨木「清水の桜」が町のはずれの墓地の中にある。エドヒガンザクラで、高さ16m、幹回り6.4mで滋賀県下で最大級の桜。水上勉の小説「桜守」の題材になったり、加賀藩主前田公が上洛の折、その美しさに何度も振り返ったことから「見返りの桜」とも言われている。
(写真は 清水の桜)

海津浜 京、大阪へ向かう荷は大量の加賀米や大豆、海産物のニシン、棒ダラ、数の子、塩ザケから高岡の銅器、富山の薬、輪島の漆器などの特産品もあった。北陸への荷は京、大阪、名古屋の呉服類、美濃尾張近江の陶磁器、三河の綿などが運ばれた。海津には百石積みの丸子船が50〜100隻ほどあり、約300人の船子がいたと言う。
 高島郡の甲府領の代官として赴任した西与市左衛門が、風波のたびに住宅地が被害を受けるのを気の毒に思い、海津東浜の代官・金丸又衛門と相談、幕府の許可を得て元禄16年(1703)に湖岸に波よけの石垣を東浜に668m、西浜に495mを築いた。この業績をたたえた碑が西浜の蓮光寺にあり、毎年3月15日に西与市左衛門の法要が今も行われている。
 湖上交通の港町として繁栄した海津には、うだつの上がる商家の町並みが今も残っている。醤油造りや酒造りも盛んで、大手メーカーにはないこの地方の伝統の味を今に伝えている。マキノ町を歩くと当時の風情があちこちでしのばれる。
(写真は 海津浜)


 
中江藤樹(安曇川町)  放送 12月11日(火)
陽明園 安曇川町は近江聖人とたたえられた日本陽明学の祖・中江藤樹(1608〜48)が生まれた地で、藤樹ゆかりの建物や神社、史跡などがある。藤樹の教えは「人は良知という美しい心を持って生まれるが、欲望によって美しい良知を曇らせる。自分の欲望に打ち勝って良知を鏡のように磨き、何事も良知に従う」と言う「致良知(良知に致る)」である。
 藤樹は慶長13年(1608)近江国高島郡小川村に生まれ、本名は中江与右衛門。藤樹の名は自宅に藤の老樹があり門人たちが「藤樹先生」と呼んだ尊称に由来する。9歳の時、米子藩主の家臣だった祖父・吉長の養子になり米子に移住、藩主の転封によって伊予国大洲へ移った。祖父の後を継ぎ禄高百石の大洲藩士になったが、27歳の時、母に孝養を尽くそうと小川村に帰った。村では郷里の人や大洲からやってきた人々に朱子学、後に陽明学を教えた。有名な門人には熊沢蕃山、淵岡山、泉仲愛らがいる。著書には朱子学の教えをまとめた「翁問答」、女子のための教えをわかりやすく書いた「鑑草(かがみぐさ)」などがある。
(写真は 陽明園)

藤樹書院 藤樹書院は藤樹が生まれ没した自宅の一角にあり門人たちに講義した講堂。初めは会所のような建物だったが、門人の数が増えたので広さ200平方mの書院を村人や門人たちが慶安元年(1648)に建てたが、藤樹はその年に41歳で没した。藤樹書院は明治13年(1880)村の火災で類焼し、2年後に藤樹の徳を慕う人たちによって再建され、現在、国の史跡に指定されている。
 中江藤樹記念館は昭和63年(1988)にオープンした。第1展示室は「安曇川町の歴史と文化」、第2展示室は「近江聖人中江藤樹」をテーマに藤樹の直筆の書や遺品類などを展示しており、藤樹研究のメッカで“現代の藤樹書院”とも言える。
 記念館の隣の陽明園は、王陽明の生地・中国浙江省余姚(よよう)市と日本陽明学の祖・中江藤樹の生誕地・安曇川町の友好のシンボルとして昭和61年(1986)に建設された中国式庭園で、八角二層式の陽明亭や王陽明の石像などがある。中江藤樹を祭った藤樹神社は大正11年(1922)に創建された。藤樹が眠る墓所は儒教の様式に従った土盛りをした墓。同じ墓所内に母と三男が葬られている。
(写真は 藤樹書院)


 
鯖街道(朽木村)  放送 12月12日(水)
丸八百貨店 山懐に抱かれた朽木村は、若狭・小浜と京の都を結ぶ鯖街道の道中にある。都の人たちにとっては若狭でとれた鯖がご馳走として欠かせなかった。若狭の浜にあがった鯖に一塩して飛脚が一昼夜をかけて京まで運ぶとちょうどよい塩加減になっていた。いつしか都人たちはこの鯖が運ばれてくるルートを「鯖の道」「塩鯖の道」と呼ぶようになった。
 この街道は鯖だけでなく日本海の海産物が都へ運ばれたルートだった。奈良の平城宮跡の発掘調査で出土した木簡に若狭から多くの魚介類や塩が送られていたことが記されていた。このように輸送する物資の名がついた街道は珍しく、ほかに信州へ塩を運んだ「塩の道」や都へごま油を運んだ「荏胡麻(えごま)の道」があるぐらいである。こうした行商人の往来がふえるにつれ、朽木にもいつしか宿場町が生まれた。 (写真は 丸八百貨店)

鯖熟鮓 朽木村の名物に鯖のなれずしがある。5〜6月ごろ新鮮な鯖の内臓を取り除き、塩漬けにしたところへ塩味のご飯を鯖の腹に詰め込み、まわりにもご飯を置いて樽に漬け込む。
暑い夏を越し秋になると樽の中の鯖とご飯が発酵、熟成してなれずしができ上がる。納豆やチーズと同じ発酵食品で、山深い山村の冬の栄養源となる保存食。
 朽木村では大半の家庭でこの鯖のなれずしを作るが、それぞれに家庭の味があり同じ味のものはないと言われる。夏の鯖は油が落ちておいしくない時期で値段は安い。この値段の安い鯖に乳酸菌を働かせて最高の発酵食品に変えて保存食にした先人の知恵は素晴らしい。値段の高い時期の鯖は京都の人が食べ、安い鯖をおいしく変えて食べたのが朽木村の人たちだった。
 鯖街道のシンボルとも言えるのが「丸八百貨店」。レトロ調の建物は昭和8年(1933)に建てられ、後に3階が増築された。現在、国の登録文化財に指定され、1階は無料休憩所、鯖のなれずしなどの特産品、文具、本の販売、2階は昼は喫茶店、夜はパブ、3階は会議室、ギャラリーとして利用されている。
(写真は 鯖熟鮓)


 
興聖寺(朽木村)  放送 12月13日(木)
朽木陣屋跡 承久の乱(1221)で戦功をたてた佐々木信綱が鎌倉幕府から朽木庄の地頭職を与えられた。その3代後の義綱の代に朽木氏を名乗り、明治維新まで600年にわたって朽木氏が支配した。
 朽木庄野尻の小高い丘の上に佐々木信綱が構えた居館が朽木城・朽木陣屋の始まりで、今は堀、土居、石垣の一部、井戸が2カ所に残っており、わずかに当時の面影がうかがえる。陣屋跡には朽木郷土資料館が建てられ、朽木陣屋の平面図、朽木村の歴史と民俗資料、民具、村内の主な文化財の写真などが展示されている。
 この陣屋には、応仁の乱後に室町幕府11代将軍足利義澄が難を逃れてきた。また12代将軍義晴は三好の乱をのがれ、15代将軍義昭も三好氏らに攻められ逃れてきている。
朽木氏は関ヶ原の戦いでは徳川方につき、大坂の陣の戦功も加え、譜代大名並の処遇を受けた。
(写真は 朽木陣屋跡)

旧秀隣院庭園 その朽木氏代々の菩提所興聖寺は、嘉禎3年(1237)越前国へ行く道元禅師を信綱が京都まで出迎え朽木館に招いた折、山野の風景が伏見・深草の興聖寺に似ているのを喜んだ禅師が一寺の創建を勧めたのが始まりと言う。仁治元年(1240)七堂伽藍が完成し、曹洞宗第三の古道場と言われるようになった。
 境内の池泉回遊式庭園の旧秀隣寺庭園は、享禄元年(1528)三好の乱を逃れて朽木へ来た室町幕府12代将軍足利義晴の仮寓に、義晴を慰めるために造った庭で室町時代後期の造園手法がよく現れていると言う。安曇川の清流と比良山系の山を借景にした庭園には、鼓の滝と呼ばれる滝や鶴島、亀島を配した池、曲水の宴が催せるように腰かけ石が配置されている。作庭当時に植えられた薮椿、杉、高麗芝、笹などが今も息づいている。
(写真は 旧秀隣院庭園)


 
小野氏の里(志賀町)  放送 12月14日(金)
小野篁神社 志賀町の小野の里は遣隋使・小野妹子をはじめ飛鳥から平安時代にかけて、歴史に名を残した小野一族の人々を輩出したところで歴史的ロマンを感じさせる。
 JR湖西線小野駅の北西、小高い丘にある唐臼山古墳は、遣隋使・小野妹子の墓と伝えられている。墳丘に巨大な箱形石棺状石室が露出している。この付近一帯は小野妹子公園として整備され、丘の上には小野妹子を祭る小野妹子神社がある。
 小野妹子は今から1400年前の飛鳥時代、推古天皇15年(607)遣隋使として中国に渡たり、隋の煬帝(ようだい)に謁見した。小野妹子が持参した「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す…」と言う国書は煬帝の不興をかったことで有名。隋使裴世清(はいせいせい)を伴って帰国、翌年、裴世清の帰国の時、再び隋に渡り大陸文化の移入の先駆をなした。
(写真は 小野篁神社)

小野道風神社 小野氏一族の氏神の小野神社の祭神・米餅搗大使主命(たがねつきのおおみのみこと)は、わが国で初めて餅つきをしたと伝えられ、餅造りの始祖とされお菓子の神様として菓子業者らの信仰を集めている。
 小野神社の境内には小野妹子の子孫で平安時代の歌人で政治家の小野篁(たかむら)を祭った小野篁神社、篁の孫で柳に飛びつく蛙を見て奮起した書の第一人者・小野道風を祭った小野道風神社がある。いずれも小野神社の摂社で本殿はそれぞれ国の重要文化財に指定されている。 (写真は 小野道風神社)


◇あ    し◇
海津浜JR湖西線マキノ駅下車 徒歩15分。 
中江藤樹記念館、陽明園JR湖西線安曇川駅下車 徒歩15分。
藤樹神社、
藤樹書院、
藤樹の墓所
JR湖西線安曇川駅からバス藤樹神社前下車。
JR湖西線安曇川駅下車 徒歩20分。
朽木村中心地、丸八百貨店JR湖西線安曇川駅からバス市場下車。 
興聖寺、旧秀隣寺庭園JR湖西線安曇川駅からバス岩瀬下車。
朽木陣屋跡JR湖西線安曇川駅からバス村民グランド前下車。
小野妹子公園、
小野妹子の墓(唐臼山古墳)、
小野妹子神社
JR湖西線小野駅下車 徒歩15分。
小野神社、
小野篁神社、
小野道風神社
JR湖西線和邇駅下車 徒歩20分。
◇問い合わせ先◇
マキノ町観光協会0740−28−1188 
安曇川町観光協会0740−32−1002 
藤樹書院0740−32−4156 
中江藤樹記念館、陽明園0740−32−0330 
朽木村観光協会0740−38−2398 
朽木村役場産業建設課0740−38−2333 
朽木村商工会0740−38−2826 
丸八百貨店
(鯖街道まちづくり組合)
0740−38−3711
興聖寺0740−38−2103 
志賀町観光協会077−592−0378 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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