月〜金曜日 21時48分〜21時54分


大阪の20世紀 

 「水の都」「天下の台所」などと言われ、東京と並ぶ日本の商業・金融の中枢都市として発展してきた大阪は、明治維新後は生産都市、商工都市へと変革し「煙の都」と言われるほど、めざましい工業の発展をとげたが、これが昭和時代の高度経済成長時代後に都市公害の元凶のひとつになった。第二次世界大戦で大きな打撃を受けたが、持ち前の大阪人のバイタリティが荒廃した町を立ち直らせ、西日本の経済活動の中心都市を建設した。20世紀の大阪はまさに日本の20世紀の縮図でもある。
お知らせ;1月1日〜5日は、年始特別編成のため『歴史街道』はお休みさせていただきます。


 
大阪城と通天閣  放送 12月25日(月)
大阪城天守閣 大阪城は豊臣秀吉が天正11年(1583)石山本願寺跡に築城を始め、2年後の天正13年に天守閣が完成した。その後も引き続き築城工事は続けられ「錦城」とも呼ばれる豪壮な城郭となった。元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏の牙城は焼け落ちた。
 江戸時代に入り徳川幕府は大阪城を再建したが、天守閣は寛文5年(1665)に落雷で再び焼失、大阪城はこの時から昭和の再建までは天守閣のない城であった。
 昭和3年(1928)当時の大阪市長・関一(せきはじめ)が、大阪城を都市公園として整備し、そのシンボルとしての天守閣再建計画を打ち出し、その建設資金の寄付を市民に呼びかけた。折からの不況にもかかわらず、財閥・住友家の25万円をトップに最低は一市民の10銭までの寄付が寄せられ総額150万円、現在の貨幣価値に換算すると750億円の寄付が集まり、天守閣再建がスタートした。
(写真は 大阪城天守閣)

通天閣 再建される昭和の天守閣の設計は市井(しせい)の建築家・古川重春氏が担当した。「大坂夏の陣図屏風」の絵を基に、鉄骨鉄筋コンクリート造、エレベーターを備えた設計図が書かれた。鉄骨鉄筋コンクリートの重量に天守台の石垣が耐えられるように、天守閣の重みを中央に集中させる現在の高層ビルの構造が取り入れられた。設計者・古川氏は五重塔の古代建築にヒントを得たという。こうして天守閣は昭和6年(1931)に完成。盛大な竣工式が行われ、市民はちょうちん行列をして喜んだ。 以来、大坂のシンボルとしてそびえ、市民や観光客らが天守閣展望台から大阪の眺めを楽しんでいる。
 大阪の北のシンボルが大阪城天守閣なら、大阪南のシンボルが通天閣。明治36年(1903)に開かれた第5回内国勧業博覧会の跡地に建設された娯楽施設・新世界の一角に「天まで通じる塔」として、パリのエッフェル塔を模した高さ64mの通天閣が完成した。庶民の町・新世界のシンボルとして親しまれていたが、昭和18年(1943)に火災で焼失、鉄材は戦時中の金属回収に協力して供出された。
 「やっぱり通天閣がなかったらあかん」との市民の声に2代目通天閣再建の動きが出て、昭和31年(1956)に高さ103m、円形エレベーターを備えた2代目通天閣が完成した。展望台は直前に完成した名古屋のテレビ塔展望台の90mより1m高い91mにして、負けず嫌いの大阪人の気質を現した。今も夜空に灯がつく通天閣を悲喜こもごもの思いで眺め、展望台からその眺望を楽しむ人は多い。
(写真は 通天閣)


 
御堂筋 放送 12月26日(火)
御堂筋 大阪が新たな都市計画を推進し、最先端の近代化を進めた都市として注目された時代があった。大阪城天守閣を再建した第7代・関一(せきはじめ)大阪市長が進めた御堂筋の拡幅工事と、都心と郊外を高速鉄道で結び人口分散をはかる地下鉄網の建設だった。
 本願寺派津村別院の北御堂と真宗大谷派難波別院の南御堂が通りにあったことから御堂筋と呼ばれ、北は淡路町、南は長堀まで1.3km、道幅わずか5.4mの道路に過ぎなかった。これを幅43.6mに拡幅し、南北を延長して北は梅田から南は難波までを結ぶ4.47kmの道路にする計画を関市長が発表した。この計画に市議会では「飛行場でも作るんかいな」とのヤジが飛んだほどだった。
 この御堂筋の拡幅工事と同時に地下鉄御堂筋線の工事を合わせて行ったことが画期的だった。御堂筋拡幅工事、地下鉄建設工事とも数々の難問題にぶつかったが、これらを解決しながら進められ、御堂筋は昭和12年(1937)に完成した。地下鉄も梅田〜心斎橋間が昭和8年(1933)、難波までが昭和10年(1935)、天王寺までが昭和13年(1938)にそれぞれ開通した。
(写真は 御堂筋)

地下鉄御堂筋線 当時、破天荒な計画と思われた御堂筋拡幅工事、地下鉄網の建設は、現在の大阪の基礎を築いた。関市長の百年先を見るという先見の明が、大阪を首都・東京をもしのぐ近代都市へ脱皮させる原動力となった。
 歩道、緩行車線、緑地、車道と整然と区画された街路・御堂筋には、イチョウやプラタナスが植えられ、高さが一定に規制された両側の建物、電柱がなく圧迫感を感じさせない日本でも有数の町並みとなった。
 御堂筋拡幅工事、地下鉄工事には住民の猛反対があった。用地買収にともなう立ち退き住民は1185人におよんだ。また、新設道路の両側の土地所有者からは受益者負担金を取り、当時としてはあまりにも先進的な施策に反対する住民が多かった。地下鉄工事も地下のわき水に悩まされ、わき水を止めるため騒音などお構いなしに鉄板の打ち込み作業が続けられ、付近の家屋が傾いたり、壁にひびがはいったりした。今なら住民の反対運動が起こって大変な騒ぎになるところだ。
 百年先を見越した関市長とはどんな人物か。明治6年(1873)に静岡県に生まれ、東京で育ち、東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業、母校で交通論、工業政策を教える教授となった。都市問題の専門家を探していた第6代・池上四郎大阪市長に口説かれて大阪市助役となり、池上市長の後を継いで大正12年(1923)大阪市長になった。昭和10年(1935)御堂筋の完成を見ずして61歳の現職市長で生涯を閉じた時、残っていた財産はわずか1万円足らずで、清貧に甘んじた市長だった。
(写真は 地下鉄御堂筋線)


 
日本万国博覧会  放送 12月27日(水)
太陽の塔 「オリンピックが東京なら万博は大阪で」の機運が盛り上がり、昭和40年(1965)4月、大阪・千里丘陵での日本万国博覧会の開催が決定した。昭和45年(1970)3月14日に「人類の進歩と調和」をテーマに開幕した万国博は、9月13日までの6ヶ月間開催され、この世紀の祭典に大阪は万国博ブームにわいた。
 月の石を見るためにアメリカ・パビリオンの長い列、目からサーチライトを放つ風変わりな太陽の塔、お祭り広場で繰り広げられた参加各国のイベント、遊園地の乗り物に興味を奪われた子供たち、動く歩道、モノレールなどに誰もが知的好奇心を満足させ、世界中の民族や文化に直接触れる機会を得た万国博。当時、万国博会場を訪れた人たちは、その興奮と熱気に包まれた記憶が今も鮮明のよみがえるだろう。
 今、万国博跡地は万国博記念公園となり、当時の面影を残すのはわずかに太陽の塔ぐらい。緑豊かな樹木が 茂り、公園を訪れる人たちの心を癒している。
(写真は 太陽の塔)

万博記念公園せせらぎ広場 この世紀のイベント・日本万国博覧会の開催の仕掛け人は誰か。はっきりしないのが不思議だ。当時、大阪府知事だった左藤義詮氏が著書「万博知事」の中で、大阪商工会議所会頭で大阪財界の重鎮・杉道助氏だったという。昭和38年(1963)の大阪商工会議所の新年の集まりで杉氏が左藤氏に「欧米だけで開催されている万国博を大阪でやろうじゃないか」とささやいた。この言葉がきっかけになって明治以来、日本の念願だった万国博開催へ向けての動きが始まった。
 一方、通産省内でも同じころ万国博の言葉がチラホラ出始めていた。当時の輸出振興課長・山下英明氏(後の通産省事務次官)や通商調査官・池口小太郎氏(後の経済企画庁長官・堺屋太一氏)らであった。こうした各方面の万国博開催の気運がうまくマッチして開催の決定となったが「わずか5年の準備期間では成功するわけがない」との声もあった。日本万国博覧会協会の会長に日本財界の重鎮・石坂泰三氏を据え、挙国一致体制で臨んだ。石坂氏が政治家や官僚の尻をたたいて回り、竹薮と田畑だけだった千里丘陵を未来への希望と夢をつなぐ万国博会場に変身させた。
 こうして大阪での万国博は大成功に終わり、期間中の入場者は6421万8770人、入場券売り上げは350億円に達した。
(写真は 万博記念公園せせらぎ広場)


 
大阪ビジネスパーク  放送 12月28日(木)
大阪ビジネスパーク 大阪城北東に高層ビルが林立している一角が大阪ビジネスパーク(OBP)。各ビルのフロアでは華やかなイベントが催され、新製品のPRなどが行われ、ビジネスマンや若者、家族連れでにぎわう光景は、バブル期に驚異的な経済発展をとげた日本の象徴的存在ともいえる。しかもこの地が終戦までは人間を殺戮(さつりく)するための兵器を生産していた大阪砲兵工廠(こうしょう)だったことを思うと、その変容ぶりは20世紀の歴史を暗示している。
 大坂砲兵工廠は大阪城北西の京橋口から大阪城ホールなどがある大阪城公園、その東の環状線東側一帯、大阪ビジネスパーク一帯の約115万平方mを占めていた。ここで働いていた労働者は約6万8000人、アジアで最大規模の兵器工場だった。20世紀は“戦争の世紀”とも言われているが、その“戦争の世紀”を象徴する存在が大坂砲兵工廠だったかもしれない。
(写真は 大阪ビジネスパーク)

大阪砲兵工廠跡碑 大坂砲兵工廠は明治3年(1870)に設立された。明治時代の富国強兵策に伴って規模が拡大され、日本陸軍の大砲はすべてここで製造され、第2時世界大戦の終戦時には大阪陸軍造兵廠と呼ばれていた。工廠内にはレンガ造りや鉄骨造りの工場や倉庫が100棟以上建ち並んでおり、工場内の移動は自転車を使わなければ間に合わないほどの広さだった。工場というより工場街という規模で、建物の中では鍛造機が大きな音をあげて真っ赤な鋼鉄を打ち、大小の旋盤がうなりをあげて砲身を削っていた。
 終戦直前の昭和20年(1945)8月14日の米軍の爆撃で工場は完全に廃虚となり、終戦後も工廠跡は廃虚のままの姿をさらしていた。いまでも大阪城京橋口に工廠の名残のレンガ塀が残っており、大阪城公園のあちこちの土中からレンガのかけらが出てくる。昭和45年(1970)の日本万国博覧会開催に合わせて大阪城公園の整備が本格的に進められた。その後、大阪城ホールなどの文化施設も建設されたり、近くには大阪ビジネスパークも出現して忌まわしい戦争の傷跡は表面的には姿を消した。
(写真は 大阪砲兵工廠跡碑)


 
関西国際空港  放送 12月29日(金)
旅客ターミナルビル 20世紀の大阪最後のビッグプロジェクトが関西国際空港の建設だった。24時間稼働の国際ハブ空港を持つことによって、大阪は名実ともに東京と並ぶ国際都市の仲間入りをした。
 豊中、伊丹両市にまたがり市街地の真ん中にある大阪国際空港(伊丹空港)は、航空機の騒音公害問題で離発着が大幅に規制され、増加する航空機利用者をさばききれなくなっていた。
 1960年代中ごろには大阪の新しい国際空港建設の必要性が議論されていた。候補地として泉州沖、岸和田沖、阪和県境、西宮沖、六甲沖、ポートアイランド沖、明石沖、淡路島の8ヵ所があげられた。「最適な新国際空港の建設地はどこか」と航空審議会などのほか、あらゆる機関で検討された結果、昭和49年(1974)航空審議会が泉州沖を建設候補地として答申、新国際空港の建設が端緒につき、昭和62年(1987)関西国際空港の建設工事の第1歩として空港島の護岸工事が始まった。
(写真は 旅客ターミナルビル)

蟻通(ありとおし)神社 空港島の建設は難工事の連続だった。空港島が建設される海底の地盤は軟弱な粘土層のため、埋め立て後の地盤沈下を防ぐため粘土層の水分を強制的に抜き取って粘土層を固める地盤改良から始まった。護岸工事が完成すると東京ドーム150杯分、約1億8000万立方mの土砂で埋め立てられた。埋め立て工事が進むつれ予想以上の地盤沈下が起こり、埋め立てを予定より3.5mも高くすることになり、工期は大幅に遅れ開港が予定の平成5年(1993)3月より遅れ、翌年の平成6年9月4日となった。
 難工事を何とかクリア、旅客ターミナルビルの設計を日本で初めて国際コンペを行って建設、開業にこぎつけた関西国際空港は、21世紀の国際空港へ向け2本目の滑走路を建設する2期工事がすでに始まっている。一方では第1期工事の空港島の地盤沈下が予想をはるかに上回るペースで進み、その対策に追われている。
 新国際空港建設が泉州沖に決定した時、空港への連絡橋の建設予定地になった対岸の泉佐野市の住民の一部に「なぜわれわればかりが飛行場の犠牲にならなければならないのだ」と反対の声が上がった。第二次世界大戦が激化し始めた昭和17年(1942)、陸軍の明野飛行学校佐野分教場の泉佐野飛行場が建設されることになった。 多くの住民が強制移転され、田畑を失った。村の蟻通(ありとおし)神社も移転させられた苦い経験がある。その記憶がよみがえり「また飛行場か」との思いが強かったのだろう。
(写真は 蟻通(ありとおし)神社)


◇あ    し◇
大阪城JR環状線森ノ宮駅・大阪城公園駅、東西線大阪城北詰駅下車徒歩10分。
京阪電鉄京橋駅下車徒歩10分。
地下鉄中央線森ノ宮駅・谷町4丁目駅、谷町線谷町4丁目駅・天満橋駅、長堀鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅をそれぞれ下車徒歩10分。
通天閣JR環状線新今宮駅徒歩5分。 
地下鉄御堂筋線、堺筋線動物園前駅・恵美須町駅をそれぞれ下車徒歩5分。
御堂筋JR大阪駅下車。南海電鉄難波駅下車。 
地下鉄御堂筋線梅田駅〜難波駅間の各駅下車。
万国博記念公園大阪モノレール線万博記念公園駅下車。 
大阪ビジネスパークJR環状線、東西線、学研都市線京橋駅下車徒歩5分。
京阪電鉄の京橋駅下車徒歩5分。
地下鉄鶴見緑地線大阪ビジネスパーク駅下車。
関西国際空港JR関西空港線、南海電鉄空港線の関西空港駅下車。 
◇問い合わせ先◇
大阪城天守閣06−6941−3044 
通天閣06−6641−9555 
建設省大阪国道工事事務所(御堂筋) 06−6932−1421
大阪市交通局広報係(地下鉄) 06−6585−6133
日本万国博覧会記念協会06−6877−3331 
関西国際空港(株)総務部広報課0724−55−2201 
泉佐野市役所広報課(泉佐野飛行場跡) 0724−63−1212

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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