月〜金曜日 18時54分〜19時00分


上野市 

 伊賀上野と言えば誰しも俳聖・松尾芭蕉と伊賀忍者を思い浮かべる。江戸時代には伊賀上野城の城下町として栄え、荒木又右衛門の鍵屋ノ辻の伊賀越仇討も有名。こうしたさまざまな歴史に彩られた城下町・上野市の芭蕉の遺跡や城跡、伝統の伊賀焼の窯元などを訪ねた。


 
芭蕉生誕の地  放送 2月2日(月)
 奥の細道に「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり…」と記しているように、人生を旅と認識していた漂白の詩人・松尾芭蕉(本名・宗房)は、正保元年(1644)現在の上野市赤坂町に生まれ、今も生家が残されている。
 若き日の芭蕉は、津藩伊賀上野城付き侍大将・藤堂新七郎家に仕え、若き当主・藤堂良忠の近侍となった。良忠は「蝉吟(せんぎん)」と号し俳人・北村季吟(きぎん)から俳諧を学んでいたので、芭蕉もその影響を受け俳諧の道に親しむようになっていた。蝉吟が若くして亡くなると芭蕉は、本格的に俳諧を志して藤堂家を辞し、やがて江戸へ下ることになる。

芭蕉翁生家

(写真は 芭蕉翁生家)

釣月軒

 生家は幕末の安政大地震で壊れて改築されたが、その後はそのままの姿で残された。明治時代に松尾家は旧藩士に建物を譲って転居、昭和25年(1950)所有者から上野市に寄贈された。玄関から裏庭に通じる土間の台所には、かまどが残り当時の生活用具や部屋には文机が展示されており、芭蕉が29歳までこの家で生活した様子がうかがえる。
 生家の敷地内には「古里は 臍(ほぞ)の緒に泣 としのくれ」「冬籠もり またよりそはん 此はしら」の句碑が立てられており、生家を訪れた俳人や観光客たちがこの句を口にしている。

(写真は 釣月軒)

 生家の裏庭にある釣月軒(ちょうげつけん)は、芭蕉が処女句集「貝おほひ」を執筆した書斎であり、伊賀上野に帰省した折に旅の疲れを癒しながら起居した庵でもある。
 「貝おほひ」は郷里・伊賀上野の俳諧仲間の句に、自分の句も交えて30番の句合わせとしたもので、序文に「寛文12年(1672)正月25日、伊賀上野松尾宗房、釣月軒にして自ら序す」あり、芭蕉が生前に自ら署名し、自著として刊行した唯一の出版物とされている。こうしたことから釣月軒は芭蕉文学の出発点でもあり、貴重な文学遺跡である。平成16年(2004)は、ちょうど芭蕉生誕360年にあたる。

「貝おほひ」(複製)芭蕉翁記念館

(写真は 「貝おほひ」(複製)芭蕉翁記念館)


 
芭蕉の旅立ち  放送 2月3日(火)
 芭蕉は宗房と名乗っていた29歳の時、伊賀上野の俳諧仲間の句をまとめた処女句集「貝おほひ」を、この地の産土神で菅原道真を祀り、「天神さん」と呼び親しまれている上野天神宮に奉納、俳諧への道を志す決意と文運を祈願して江戸へ旅立った。
 俳諧で身を立てようと江戸へ出てからは、水道工事の事務の仕事をするなど苦労しながら、あちこちの句会へ出席するなど俳諧への力量を蓄え、俳諧師へと成長していった。俳号も「宗房」から「桃青」へと改め宗匠となる。

上野天神宮

(写真は 上野天神宮)

「おくのほそ道行脚図」許六筆(複製)芭蕉記念館

 延宝8年(1680)江戸・深川に移り庵を結んだ。この庵が後の芭蕉庵である。
このころ門人から芭蕉の株を贈られ、これにちなんで天和元年(1681)俳号を「はせを(芭蕉)」と名乗るようになる。江戸へ出てきて9年目のことである。
 芭蕉は従来の滑稽、奇抜な作風の俳諧にあき足らず、静かで落ち着いた境地の「わび」「さび」、深く細やかな心の働き「細み」、心にある哀感の「しおり」など、高い文学性で人の心にふれる新しい「芭蕉俳諧」と呼ばれる作風の句を作るようになった。

(写真は 「おくのほそ道行脚図」
許六筆(複製)芭蕉記念館)

 母が故郷で没したのと訃報を受け取り、貞享元年(1684)母の墓参をかねて故郷・伊賀上野への旅に発った。後にこの旅をまとめたのが「野ざらし紀行」であり、その後、芭蕉は旅を続け「笈の小文」「更科紀行」そして漂白の詩人・芭蕉の集大成とも言える「奥の細道」を著している 上野市に残る蓑虫(みのむし)庵は門人の服部土芳(どほう)が結んだ庵で、庭には「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句碑が立つ。貞享5年(1688)の庵開きに祝いとして贈った芭蕉の句「みの虫の 音を聞きにこよ 草の庵」にちなんで「蓑虫庵」と名づけられた。無名庵、西麓庵、東麓庵、瓢竹(ひょうちく)庵とともに芭蕉翁五庵のひとつで、現存するのは蓑虫庵だけ。

蓑虫庵

(写真は 蓑虫庵)


 
芭蕉のふるさと  放送 2月4日(水)
 芭蕉の生家にほど近い真言宗願成寺は松尾家の菩提寺で、愛染明王を安置していることから愛染院と呼ばれている。その境内には芭蕉の遺髪を埋めた故郷塚がある。
 芭蕉は元禄7年(1694)9月、伊賀上野から大坂に向かい、大坂・南御堂前の花屋仁左衛門宅に身を寄せていた。ここで体調を崩し10月12日、息を引き取り51歳の生涯を閉じた。辞世の句を望んだ門人に対して「きのうの発句はきょうの辞世、きょうの発句はあすの辞世、一句として辞世ならざるはなし」と言ったと花屋日記にある。「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」の句は、亡くなる4日前の10月8日に詠んだものと言われている。

故郷塚(愛染院)

(写真は 故郷塚(愛染院))

芭蕉像(伊賀焼)

 芭蕉の遺骸は遺言で、生前愛した風光明媚な琵琶湖岸にある大津市膳所の義仲寺境内に葬られた。芭蕉の訃報を受けた伊賀上野の門人で蓑虫庵主の服部土芳(どほう)と貝増卓袋(たくたい)が馳せ参じ、芭蕉の遺髪を持ち帰り愛染院境内に埋め、自然石に「芭蕉翁桃青法師」と刻んだ碑を建て故郷塚とした。
 この故郷塚には文豪の尾崎紅葉ら多くの文人や俳人が訪れ、芭蕉の遺徳をしのんでいる。現在も芭蕉の命日の10月12日には、故郷塚の前で法要が行われ、俳人らが芭蕉の遺風をしのんでいる。芭蕉が大坂へ旅立つ直前の夏、兄たちと一緒に愛染院の墓所に墓参りをしており、この時に詠んだ「家はみな 杖にしら髪(が)の 墓参り」の句碑が境内に立っている。

(写真は 芭蕉像(伊賀焼))

 伊賀上野城二の丸の丘に昭和17年(1942)建てられた俳聖殿は、芭蕉の旅姿を形どった建物である。最上部の桧皮葺きの丸い屋根は旅笠、1階の八角形の屋根は袈裟、建物を支える柱は行脚する芭蕉の杖を現していると言う。堂内には伊賀焼の芭蕉像が安置されている。
 上野市内のいたるところに芭蕉の句碑が立っており、その数は約70基。全国の芭蕉の句碑は約3000基とも言われており、いかに芭蕉の遺徳をしのぶ人たちが多いかがわかる。上野市内には芭蕉の句集「貝おほひ」の名をつけた銘菓や「芭蕉の湯」と銘打った温泉・厚生年金福祉健康センター「ウェルサンピア伊賀」などがあり、上野市はまさに芭蕉の町である。

いびき、貝おほひ、古里(左から)

(写真は いびき、貝おほひ、古里(左から))


 
茶陶のぬくもり  放送 2月5日(木)
 伊賀には良質の粘土が無尽蔵にあり、その小砂混じりの荒土を用いて独特の味を醸し出す伊賀焼が生み出されてきた。伊賀焼の歴史は古く、記録には奈良時代から平安時代にかけて伊勢神宮に神酒に用いる瓶などの焼物を献上したとあり、この時代の窯跡も見つかっている。
 鎌倉、室町時代にかけては瓶、壺類などの雑器が作られていたが、室町時代から戦国時代に入って武野紹鴎(たけのじょうおう)や千利休、さらに時代が下がり、古部織部らの茶人が伊賀焼に注目し「茶陶伊賀焼」が焼かれるようになった。

伊賀焼

(写真は 伊賀焼)

伊賀三田窯

 茶陶とは茶会の席に置かれる花入れや水指しなどを言う。室町時代から戦国時代にかけて諸大名の間でも茶道が盛んになり、茶陶がもてはやされるようになった。豊臣時代の伊賀上野城主・筒井定次は伊賀焼茶陶の作陶を奨励し、この時代の茶陶を「筒井伊賀」と呼ぶ。江戸時代に入り城主となった藤堂高虎、高次も伊賀焼を奨励して保護育成に努め、この時代のものを「藤堂伊賀」と呼んでいる。
 さらに高虎の娘婿の小堀遠州が遠州好みの伊賀焼を始め、これを「遠州伊賀」と言うようになり、伊賀焼の名声はますます高まった。こうして江戸時代まで栄えた伊賀焼の茶陶も、明治時代以降は衰え、日用雑器の土瓶や土鍋が量産されるようになった。

(写真は 伊賀三田窯)

 伊賀焼の茶陶は一見グロテスクに見える個性的なものだが、そこにバランスの崩れた美しさがあり、これが「わび」「さび」を好む茶人らに好まれたのであろう。また、伊賀地方に産する粘土を使って焼く伊賀焼は、窯の中で焼く時の降灰によってできるビードロの夢幻の美しさ、激しいコゲや灰かづき、火われ、火ぶくれ、火色など、作陶家の心を反映して際限のない変化を見せる。
 一時は衰退した伊賀焼の茶陶も鎌倉、室町時代から培われた伝統の技を踏まえながら、新しい息吹を吹き込む現代の作陶家たちが、21世紀の茶陶づくりに挑戦している。

作古庵

(写真は 作古庵)


 
伊賀の学舎  放送 2月6日(金)
 伊賀上野城は関ヶ原の戦に勝利した徳川家康が、大坂方との戦いに備えて慶長13年(1608)筒井定次に代わって入城した津藩主で築城の名手・藤堂高虎に命じ、慶長16年(1611)から大改修に着手させた。
 大坂方の攻撃を予想して西側の守りを固め、高さ日本一と言われた30mの高石垣を築き、その上に5層の天守閣を築いていた。慶長17年9月の大暴風雨で完成間近の天守閣は倒壊し、その後は再建されなかった。
 伊賀上野城は天正9年(1581)織田信長の家臣・滝川雄利が城を築いたのが始まりで、その後、豊臣時代には賤ヶ岳の七本槍の脇坂安治、続いて筒井定次が城主となった。

上野城下町絵図

(写真は 上野城下町絵図)

伊賀上野城

 上野市街地の北側の丘に端麗な姿を見せる現在の伊賀上野城は、昭和10年(1935)上野市の政治家で衆議院議員だった故川崎克氏が、高虎が築いた30mの石垣の上に3層の天守閣を私財を投じて再建した。天守閣の1、2階は上野市の民俗、産業、文化資料の展示場、3階は展望楼となっている。昭和時代に建築された木造の城で、鳳凰が翼を休める姿に似ていることから白鳳城とも呼ばれ、3階の絵天井には横山大観ら名士の色紙46枚が飾られている。
 広大な城跡は上野公園として整備され、俳聖殿や芭蕉翁記念館、忍者屋敷などの文化・観光施設などがあり、市民の憩いの場にもなっている。

(写真は 伊賀上野城)

 上野城南西の入口にある旧崇廣堂(すうこうどう)は、文政4年(1821)名君と崇められた津藩主・藤堂高兌(たかさわ)が、伊賀、大和、山城の藩士の子弟の教育のために津の藩校・有造館の支館として建てた藩校。「崇廣」は中国の書経にある文言から取ったもので、扁額の文字は高兌が請うて米沢藩主・上杉治憲(鷹山)の筆になる。建学精神のシンボルとして大切にされ、2名の額守が配されていたほどだった。
 現存する講堂、御成門、表門、玄関棟(母屋)などは創建当時のままである。崇講堂は明治維新の廃藩後、上野小学校、丸之内小学校となり、明治38年(1905)から群立図書館、市制後は市立図書館として昭和58年(1983)まで使われていた。

旧崇廣堂

(写真は 旧崇廣堂)


◇あ    し◇
芭蕉翁生家近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。 
上野天神宮近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。 
蓑虫庵近鉄伊賀線茅町駅下車徒歩10分。 
芭蕉翁記念館(上野公園内)近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。
俳聖殿(上野公園内)近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩10分。 
ウェルサンピア伊賀(芭蕉の湯)近鉄伊賀線上野市駅からバスで文化会館口下車徒歩5分。
作古庵(伊賀三田窯)JR関西線、近鉄伊賀線伊賀上野駅下車徒歩5分。 
伊賀上野城近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。 
旧崇廣堂近鉄伊賀線上野市駅下車徒歩5分。 
◇問い合わせ先◇
上野市役所観光課0595−21−4111 
伊賀上野観光協会0595−26−7788 
上野市観光案内所0595−24−0270 
芭蕉翁記念館・芭蕉翁顕彰会0595−21−2219
芭蕉翁生家0595−24−2711 
上野天神宮0595−22−2940 
蓑虫庵0595−23−8921 
ウェルサンピア伊賀(芭蕉の湯)0595−24−7000
作古庵(伊賀三田窯)0595−21−4184 
伊賀上野城0595−21−3148 
旧崇廣堂0595−24−6090 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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