月〜金曜日 18時54分〜19時00分


兵庫県・出石町、城崎町 

 古い歴史を持つ出石町は「但馬の小京都」とも呼ばれており、今も出石城の城下町としての情緒が町のそこかしこに残っている。こうした出石町を訪ねた後、こちらも奈良時代からの歴史を誇る関西の代表的な温泉地・城崎温泉を訪れ、雪景色の温泉街を点描した。


 
天日槍(出石町)  放送 2月9日(月)
 但馬一の宮と言われる出石神社は天日槍命(あめのひぼこのみこと)を祭神とする古社。天日槍は古事記や日本書紀によると、新羅の王子で垂仁天皇のころ妻の阿加留比売(あかるひめ)を追って日本に渡来したが、妻のいた難波に入ることを拒まれ但馬にとどまった。
 またある伝承では天日槍は初め播磨国に渡来したという。垂仁天皇に帰化の意思を告げたところ、天皇から播磨と淡路のいずれかに住むように言われた。しかし、天日槍は諸国を巡って意にかなう地が欲しいと希望を述べて許された。近江、若狭の国を経て但馬に入り、ここに住むことを決めたと伝えられている。

出石神社

(写真は 出石神社)

秘佛十一面観世音菩薩像(総持寺)

 当時、但馬の地は入江湖で泥海だった。天日槍は円山川の河口の瀬戸の岩山を切り開いて、泥海の水を日本海に流し、この地を肥沃な耕地の但馬平野に変えたと言われ、但馬開拓の祖神とされて今なお崇められている。出石神社に伝わる岩引の図で、天日槍による開拓の様子を知ることができる。毎年、5月5日に天日槍が岩山を切り開いて引きあげる道中の様子を再現した「のぼりまわし」の神事が行われる。
 出石神社の創建の時期は明らかでないが、この地方に住んでいた帰化人の一族が、天日槍を祖神として祀ったのが始まりであろうとされている。但馬地方には出石神社から分霊した天日槍やその子孫を祭神とする神社が多い。

(写真は 秘佛十一面観世音菩薩像(総持寺))

 これらの神社の総本社とも言え、但馬一の宮の出石神社は、その社格にふさわしい重厚な朱塗りの神門や社殿、拝殿は、荘厳な雰囲気を境内に漂わせている。
 出石神社の東にある総持寺は奈良時代に行基が開いたとされ、出石神社の奥の院とも言われていた。出石城主だった山名氏が祈祷寺として篤い信仰を寄せ、本尊の十一面観音像は9代城主・山名祐豊が寄進したものである。また、境内には人びとが一生の間に愛用する徳利、盃を供養する徳利塚があり、人生の円満を願う人が徳利塚に参っている。総持寺のそばにある智里庵では、但馬の四季の山菜などをあしらった精進料理が味わえる。

精進料理(智里庵)

(写真は 精進料理(智里庵))


 
但馬の学舎(出石町)  放送 2月10日(火)
 城下町の風情を色濃く残す出石町のシンボル・辰鼓楼(しんころう)は、見張台として設けられた望楼風の建物。かつて辰の刻(午前8時)に藩士の登城を告げる太鼓が、打ち鳴らされたところからその名がつけられた。明治14年(1881)旧藩医の池口忠恕がオランダ製の大時計を寄贈してからは、町民に時を知らせる時計台となった。
 名物の出石皿そばは宝永3年(1706)信州上田から国替えとなった藩主・仙石政明が、信州からそば職人を連れてきたのが出石そばの始まりで300年の歴史がある。

出石皿そば(そば庄)

(写真は 出石皿そば(そば庄))

出石城下図

 現在、出石町内には約50軒のそば屋あり、それぞれに独特の味を誇っている。
真っ白な出石焼の5つの小皿に盛られた黒いそばが、白と黒のコントラスを描き素朴な味を感じさせる。出石そばは「挽きたて」「打ちたて」「ゆでたて」の三たてが、伝統の出石そばの風味を味わってもらう極意。その中でも「寒中に食べる冷たいそばが最高」と言われている。
 藩主・仙石氏は但馬の教育にも尽くした。4代藩主・仙石久行は天明2年(1782)文武両道奨励のため、藩校「弘道館」を開き藩士の教育を行い、優秀な人材をこの弘道館から送り出した。この進取な教育の気風が今も出石町に連綿と引き継がれ、その現れが町立弘道小学校の教育とその校舎である。

(写真は 出石城下図)

 出石町中心部の東の丘の上に、家並みのように平面的に木造の校舎が連なる町立弘道小学校は、各学級毎の仕切りの壁をなくし、オープンな雰囲気の中で子供がのびのびとした教育を受けている。
 弘道小学校は町の中心地、現在の町役場の地にあったが、手狭になり移転新築することになった。昭和63年(1988)指名設計コンペを行い、重村力・神戸大教授グループの設計案が採用され、自然の地形を生かし、木造を主体にした校舎が平成3年(1991)に完成した。校内には辰鼓楼に似たコウノトリの時計台があり、瓦屋根の校舎と木の柱や梁などに木の温もりが感じられる。このユニークな校舎を「わが町にも」と全国の市町村や韓国からも見学者が訪れた。

弘道小学校

(写真は 弘道小学校)


 
いで湯の町(城崎町)  放送 2月11日(水)
 城崎の温泉街の西、大師山中腹にある温泉寺は、この城崎の温泉を開いた道智上人が奈良時代の養老年間に創建した。道智上人は出羽国(山形県)の人で、衆生済度の願いを立て諸国行脚の末、養老元年(717)この地に来て、千日間の曼荼羅修法を行って温泉を開いたと伝えられている。
 温泉寺縁起によれば、大和国の仏師・稽文(けいぶん)が、城崎温泉に湯治に来た折、円山川の河口に自分が彫った未完の観音像が流れ着いているのを見つけたという。稽文は、草堂を作りこの観音像を安置したあと道智上人に預けた。この観音像の霊光が示した地に道智上人が開いたのが温泉寺で、高さ2.13mの大きな十一面観音菩薩立像(国・重文)が本尊として安置されたとの伝えがある。

温泉寺縁起絵図

(写真は 温泉寺縁起絵図)

道智上人坐像

 道智上人が開いて湧き出た温泉が「まんだら湯」で、今も共同浴場の外湯として伝わっている。城崎温泉にはこのほかに、それぞれに趣の異なる「御所の湯」「一の湯」「柳湯」「地蔵湯」「鴻の湯」「さとの湯」と呼ばれる7つの外湯がある。
 昔は城崎温泉に湯治に来た人たちはまず温泉寺に参詣し、本尊の十一面観音像と道智上人に祈念したひしゃくを求めたものだという。このひしゃくで湯を汲み湯浴みをすると、道智上人の手で霊湯を浴びせてもらったのと同じ霊験があったと言われていた。

(写真は 道智上人坐像)

 この古事に由来してひしゃくを手に7つの湯を巡るのがならわしで、外湯の湯ぶねにもひしゃくが置かれている。外湯にはそれぞれ美人の湯、子授けの湯、開運招福の湯、一生一願の湯、衆生救いの湯、しあわせを招く湯などのいわれがあり、文字通り身も心も温もり潤うのが湯の町・城崎である。
 城崎の温泉旅館街は町を流れる川をはさんで、両側に旅館や土産物店、飲食店が並ぶ。木造や格子造りなどの旅館もあり、川沿いの柳並木や川にかかる橋にもしっとり落ち着いた雰囲気が醸し出される温泉町である。春夏秋冬それぞれに異なる趣が楽しめるが、中でも冬季は雪景色の城崎で湯を楽しみ、冬の山陰の味覚・松葉ガニの料理を目当ての温泉客が多い。

温泉寺

(写真は 温泉寺)


 
文人の愛でた湯宿(城崎町)  放送 2月12日(木)
 城崎温泉には古くから多くの文人、墨客らが湯治に訪れている。書物に残る最も古いものは、平安時代初期に古今和歌集に歌を残している藤原兼輔、鎌倉時代には後堀河天皇の皇后・安嘉門院が来湯したことが増鏡に記されているほか、徒然草の吉田兼好も訪れ歌を残している。近代にはいると泉鏡花、徳富蘇峰、田山花袋、島崎藤村、与謝野寛・晶子、有島武郎、柳田国男らそうそうたる顔触れが城崎を訪れている。
 文人以外にも沢庵禅師や幕府の目を逃れて桂小五郎ら幕末の志士たちが城崎に身を潜めていた時もあった。城崎町文芸館では城崎を訪れたこれら文人、墨客の作品に接することができる。

城崎温泉

(写真は 城崎温泉)

三木屋

 とりわけ城崎と関わりが深いのが志賀直哉(1883〜1971)。大正2年(1913)東京で電車にはねられ重傷を負った彼は、養生のため城崎を訪れ「三木家」に三週間滞在した。その間に見かけた小動物たちの死を素材に、人間の生と死を深く見つめた名作「城の崎にて」を著した。志賀直哉は「他に見られるような温泉地を真似るべきでない。城崎温泉が日本を代表する温泉である」と述ているほどの惚れ込みようだった。
 その時、志賀直哉が宿泊した部屋は北但大震災で焼失したが、その後、十数回にわたって宿泊した部屋が、三木屋に今もそのままの姿で残っている。

(写真は 三木屋)

 こうした文人、墨客に愛された城崎温泉は、歌や文芸作品の舞台として登場する。
城崎に縁のある文人たちの文学碑が温泉街に立てられ「城崎文学散歩道」と名づけられている。夕食前のひととき、朝の散歩、外湯巡りのついでに城崎温泉にゆかりのある文学碑を巡り、その作品の一コマに触れるのも「歴史と文学といで湯の町・城崎」を訪れたよき思い出になる。
 文学碑はJR城崎駅前の島崎藤村から始まって、旅館街沿いの7つの外湯周辺から温泉寺近辺、大師山まで16基が立っている。徒歩と大師山へのロープウエイを利用すれば約1時間半、ゆっくり歩いても2時間でたどれる。

志賀直哉投宿の部屋

(写真は 志賀直哉投宿の部屋)


 
石仏の散歩道(城崎町)  放送 2月13日(金)
 外湯の「まんだら湯」近くにある極楽禅寺は臨済宗の京都・大徳寺の末寺で、600年前の室町時代初めの応永年間(1394〜1428)に創建された。その後、一時衰微したが江戸時代初めに出石出身の沢庵禅師が再興し、豊岡藩主からの寺領などの寄進もあった。
 境内を潤す独鈷(とっこ)水は温泉寺を開いた道智上人が、千日間の曼荼羅修行をするにあたり、手にした仏具の独鈷で岩をたたいたところ清水が湧き出たと伝えられる。この独鈷水は真夏の日照り続きでも枯れたことがなく、境内の蹲(つくばい)に引かれ参詣前の手を清める水に使われている。

極楽寺

(写真は 極楽寺)

阿弥陀如来像

 山門をくぐると参道右側に白と黒のコントラストの枯山水の石庭「清閑庭」が広がっている。京都白川の砂に鞍馬の赤石、黒砂部分は吉野の青石が配され、白砂部分は心の字を形取っている。本堂左には「寒霞庭」右には沢庵禅師も愛でた「山月庭」があり、庭を通じて禅の教えを説いていると言う。
 江戸時代初期に再建された本堂は、明治45年(1912)に焼失、現在の本堂は大正10年(1921)に焼失前の本堂と同じ建物を復元、再建した。本堂須弥壇には本尊・阿弥陀如来像(鎌倉時代)と奥の位牌堂には聖観音菩薩像(平安時代末期)が安置されている。

(写真は 阿弥陀如来像)

 独鈷水の湧く裏山は四国山と呼ばれて霊域とされ、温泉旅館街にある四所神社から温泉寺を経て、山頂にいたる山道には88体の石仏がまつられている。これらの石仏のひとつひとつに手を合わせながら山頂に着くと、温泉寺の奥の院・大師堂が建っている。大師堂前には10数体の石仏が並んでいる。中央の一番大きな石仏は「雨乞大師」と呼ばれ、昔から日照りが続くと雨乞いの祈願が行われ雨を降らせたと伝えられている。
 石仏を巡り、快い疲れとともに山頂の展望台に立つと、眼下に城崎の温泉街が広がり、その先には日本海へ流れ込む円山川の雄大な流れの絶景が望める。

石仏

(写真は 石仏)


◇あ    し◇
出石神社JR山陰線豊岡駅、江原駅からバスで
出石神社鳥居前下車徒歩10分。
総持寺JR山陰線豊岡駅、江原駅からバスで
出石神社鳥居前下車徒歩20分。
出石城跡、辰鼓楼、弘道館JR山陰線豊岡駅、江原駅からバスで出石下車徒歩10分。
弘道小学校JR山陰線豊岡駅、江原駅からバスで出石下車徒歩20分。
温泉寺JR山陰線城崎駅からバスで鴻の湯下車、
ロープウエイで温泉寺下車。
三木家JR山陰線城崎駅からバスで御所湯下車。 
極楽禅寺JR山陰線城崎駅からバスで御所湯下車徒歩5分。 
大師堂JR山陰線城崎駅からバスで鴻の湯下車、
ロープウエイで大師山下車。
◇問い合わせ先◇
出石町役場産業振興課0796−52−3111 
出石町観光協会0796−52−4806 
出石神社0796−52−2440 
総持寺0796−52−2678 
そば庄0796−52−2432 
城崎町役場温泉課0796−32−0117 
城崎温泉観光協会0796−32−3663 
城崎温泉旅館協同組合0796−32−4141 
温泉寺0796−32−2669 
三木屋0796−32−2031 
極楽禅寺0796−32−2326 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

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