月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・嵐山〜嵯峨野 

 嵐山、小倉山の麓に抱かれた洛西・嵐山、嵯峨野の地は、京都の中でも自然が豊かな景勝地として観光客の人気が高い。この一帯には名刹、古刹のほかに、史跡、名勝も多く、これらを訪ね歩きながらのんびりとした散策の一日を過ごす人も多い。桜が爛漫の嵐山、嵯峨野に遊んでみた。


 
天龍寺  放送 4月5日(月)
 毎日大勢の観光客や修学旅行生が、門前をにぎわす京都五山第一位の臨済宗天龍寺派大本山の天龍寺。吉野に南朝を興し勢力回復をはかろうとしたが、その願いもかなわず暦応2年(1339)失意のうちの崩じた後醍醐天皇の菩提を弔うために、足利尊氏が夢窓国師を開山として創建した。
 後醍醐天皇は亡くなる際に「玉骨は吉野山の苔に埋もれようとも、魂魄(こんぱく)は北闕(ほっけつ=宮城)を望まん」と言い残したが、その言葉に無念さが表れている。夢窓国師は敵味方の別なく、南北両朝の戦死者の霊を慰めることを天龍寺開創の目的とした。

後醍醐天皇像

(写真は 後醍醐天皇像)

夢窓国師像

 天龍寺が創建されたこの地は嵯峨天皇の離宮があった所で、のちに檀林皇后が檀林寺に改めた。建長年間(1249〜56)に後嵯峨天皇が離宮・亀山殿を造営、その後も大覚寺統(南朝系)の離宮として使われ、後醍醐天皇も幼少期をここで過ごしたことがあった。
 堂塔建立にあたって夢窓国師は、長らく途絶えていた中国・元との貿易船「天龍寺船」を再開し、この貿易による利益を天龍寺建立の資金とした。夢窓国師は建立資金を南北両勢力のどちらからも仰がないことで、南北両朝の融和をはかり、天下に太平をもたらそうとした。

(写真は 夢窓国師像)

 天龍寺建立には6年の歳月が費やされ、康永2年(1343)にほぼ七堂伽藍が整い、貞和元年(1345)落慶法要が営まれた。その後、広大な境内に150余の塔頭、子院を数えるになった。創建以来、天龍寺は延文元年(1356)を最初に、元治元年(1864)の禁門の変まで、8回の兵火などに見舞われ堂塔を焼失した。その度に諸堂は再建され、現在の建物の多くは明治時代に再建されたものである。
 亀山を背に法堂(はっとう)、方丈などの七堂伽藍が建ち並び、境内には国の特別名勝・史跡に指定されている夢窓国師が作庭した池泉回遊式の庭園・曹源池(そうげんち)を中心とした庭園が広がり、禅寺らしい静かな雰囲気が漂っている。また、後嵯峨天皇、亀山天皇陵や足利義満の墓も境内にある。

多宝殿

(写真は 多宝殿)


 
天龍寺に見る禅刹の美  放送 4月6日(火)
 天龍寺は国の特別名勝、史跡に指定されている美しい庭園でも広く知られている。
天龍寺開山の夢窓国師が作庭した曹源池(そうげんち)は、嵐山、亀山を借景として渓流、池水、木々の緑、砂の白さ、水辺の岩石など、王朝の大和絵風文化と中国風の禅文化が巧みに融け合った池泉回遊式庭園で、禅の厳しさを秘めた中に美しさを感じさせる。
 池の水と石組みの組み合わせや、巨岩を組み合わせた滝の石組みの龍門の滝、その前に架かる自然石の石橋など、いずれも日本作庭史上で最高傑作の庭と評されている。

曹源池

(写真は 曹源池)

法堂

 庭の周囲を逍遥するもよし、大方丈西側の縁に座して見るもよし、また庭の周囲の桜が開花すれば華やかな空気に一変する。夢窓国師にとって庭は、四季の移り変わりを見て大自然の本質を探り、仏教の奥義にいたる思索の場であった。平安時代の庭が「詩歌管弦の庭」とすれば、室町時代の庭は石庭に象徴される「思索の庭」であった。その思索の庭こそ、南禅寺住職の地位よりも庭作りを選んだ禅僧・夢窓国師の庭に始まると言える。
 曹源池の名は、夢窓国師が池の泥をあげた時、池の中からあらゆるものの原初、根源を意味する「曹源一滴」の4文字が記された石があがったことに由来する。

(写真は 法堂)

 大方丈の東に建つ法堂(はっとう)は、昔の選仏場(座禅堂)を移築したもので、正面に掲げられている「選佛場」の額がその名残を示している。法堂は禅寺では住職が修行僧に説法する所で、一般寺院の講堂にあたる。
 法堂の天井には直径9mの円形いっぱいに雲龍画が描かれている。平成9年(1997)に日本画家・加山又造氏の筆によって制作されたもので、厚さ3cmの杉板159枚を張り合わせ、漆地の上に白土を塗り、墨で躍動する龍が描かれた。この龍は「八方にらみの龍」と言われ、どこから見ても見る人の方をにらんでいる。この天井には明治時代の日本画家・鈴木松年画伯が、和紙に描いた雲龍図が貼られていたが、傷みがひどく修復できなくなったので新しい雲龍図の制作となった。

雲龍図

(写真は 雲龍図)


 
天龍寺の野に遊ぶ  放送 4月7日(水)
 天龍寺へ参詣する人たちは、夢窓国師が禅の心を庭につぎ込んだ名庭園・曹源池(そうげんち)を中心に、その東側を歩いて池と背後の緑、山々とのとり合わせの美しさを鑑賞する。だが、さらに時間をさいてその先に歩を進める人は少ないようだ。
 広い境内のかなりの部分を占める庭園は曹源池周囲だけでなく、曹源池西側から北門にいたるまでの庭は起伏に富んでいるが、歩きやすい拝観コースが設けられている。
せっかく訪れた天龍寺庭園を一部だけでなく、すべてを鑑賞されることをお勧めしたい。

精進料理篩月

(写真は 精進料理 篩月)

竹林

 曹源池の南側の新書院龍門亭の精進料理・篩月(しげつ)=高級精進料理は要予約=で食事をいただいてから庭の散策に出るのもよい。散策コースの途中、後醍醐天皇像が安置されている多宝殿前の枝垂れ桜は、天から幾筋もの花糸がしだれているように花をつけ、風雅な趣をたたえるその眺めは筆舌では言い現せない。その枝垂れ桜の花の幕をすかして見る曹源池、天龍寺諸堂の甍(いらか)も素晴らしい。
 さらに北門近くの百花苑では四季折々の花を楽しむことができる。北門を出て野宮(ののみや)神社にいたる竹林は「野宮竹」と呼ばれ、嵯峨野の竹林を代表するものである。その竹林の中の小径は野趣に富んでいて散策の楽しみは尽きない。

(写真は 竹林)

 天龍寺の北、JR山陰線近くにある野宮神社は、天皇の代理として伊勢神宮に仕える斎王に選ばれた皇女が、身を清める潔斎のためにこもった神社だった。樹木に囲まれた小さな社殿や黒木の鳥居(現在は樹脂製)、小柴垣、石の井戸、苔の庭園などが閑寂な趣を創り出している。特にじゅうたんを敷き詰めたような豊かな庭の苔は、雨あがりの美しさ、紅葉の季節に紅と苔の緑が織りなす景観は、京都随一とも言われてる。
 野宮神社は紫式部の源氏物語「賢木の巻」の舞台にもなり、謡曲にも取り上げられるなど、文学でも王朝ロマンのしのばせる神社となっている

野宮神社

(写真は 野宮神社)


 
清涼寺  放送 4月8日(木)
 天龍寺から北へ10分ほど歩くと、古くから「嵯峨釈迦堂」の名で親しまれている清涼寺がある。ここは嵯峨天皇の皇子・源融(みなもとのとおる)の山荘・棲霞観(せいかかん)があった所である。源融の没後、遺族が御堂を建立して棲霞寺としたのが現在の阿弥陀堂で、今は清涼寺に吸収された堂塔のひとつとなっている。
 清涼寺は永延元年(987)中国・宋から帰国した奈良・東大寺の僧〔ちょうねん〕が、清涼寺を建立し中国で模刻した釈迦如来像を安置しようとしたが、その完成を見ずして没したため、弟子の盛算がその遺志を継いで釈迦堂を建立して清涼寺と称した。

ちょうねん上人座像

(写真は ちょうねん上人座像)

本尊 釈迦如来立像

 本堂内の本尊・釈迦如来像(国宝)は日本三釈迦如来像のひとつで、インド〜中国〜日本の三国伝来の仏像で、生身のお釈迦様として信仰を集めている。インドで釈迦生身の尊像として栴檀(せんだん)の香木で作られた釈迦如来像は、ヒマラヤを越えて中国に伝わり安置されていたという。
 宋に留学していた〔ちょうねん〕は、中国の仏師にこの釈迦如来像の模刻を依頼、完成した像を日本に持ち帰った。模刻した時に中国の尼僧たちによって、胎内に絹製の五臓六腑(国宝)が納められた。これが昭和28年(1953)に発見され話題となったが、すでにこの時代に中国では人間の体内の構造が知られていたこと示している。

(写真は 本尊 釈迦如来立像)

 この釈迦如来像は全身黒漆塗りで一部に朱漆塗り、納衣(のうえ)の一部が彩色され、両眼に黒水晶、耳には水晶が入れられ、髪形、手の形、衣の衣文などに特徴がある。この像は清涼寺式と呼ばれ、この像をモデルに多くの釈迦如来像が造仏され、わが国の仏像製作に大きな影響を与えた。
 風流貴公子だった源融は光源氏のモデルと言われ、彼の供養のために作られた阿弥陀三尊像(国宝)は、源融が死亡する前に自分の顔に似せて造られた像で「光源氏の写し顔」と言われる。境内には源融の墓と伝えられる宝篋印塔や嵯峨天皇と檀林皇后の石塔がある。

絹製 五臓六腑模型

(写真は 絹製 五臓六腑模型)


 
法輪寺  放送 4月9日(金)
 毎年4月13日のテレビニュースで、桜の花の下を着飾った子供たちが母親たちと一緒に「十三まいり」をする微笑ましい姿が報じられるお寺が、桂川にかかる渡月橋南詰の嵐山の麓にある法輪寺。日ごろは子供たちの姿がない境内だが、この日ばかりはにぎやかな声がはずむ。
 京都の人たちから「嵯峨の虚空蔵さん」と親しく呼ばれている法輪寺は、和銅6年(713)元明天皇の勅願で行基が創建し葛井寺とよばれた。天長6年(829)弘法大師・空海の高弟の道昌が寺を中興し、師の空海の開眼と伝わる虚空蔵菩薩を安置して本尊とした。貞観16年(874)堂塔を改修して寺名を法輪寺と改めた。

本堂

(写真は 本堂)

御前立虚空蔵菩薩像

 法輪寺は道昌の中興後、応仁元年(1467)の応仁の乱で堂塔の大半を焼失、後陽成天皇の勅願によって諸国で寄進を募り再興に乗り出した。慶長11年(1606)に堂塔が完成して落慶法要が営まれ、山号を「福智山」と改め、後陽成天皇から山号の勅額を賜った。幕末の元治元年(1864)の禁門の変で再び堂塔が焼失し、明治時代に入って本堂、大正時代に客殿、庫裏、山門などが再建された。
 法輪寺の本尊で秘仏の虚空蔵菩薩像は、伊勢市朝熊山の金剛証寺、福島県柳津町の円蔵寺の虚空蔵菩薩蔵と共に同じ木で刻まれ、空海が開眼したと伝えれる「日本三大虚空蔵」として知られている。

(写真は 御前立虚空蔵菩薩像)

 大空のように果てしなく大きな宝蔵を持ち、限りない智恵と福徳を納め、人びとにご利益を授けてくださる虚空蔵菩薩から智恵を授かる「十三まいり」は法輪寺の年中行事。数え年13歳になった男女の子供たちが、厄除けと虚空蔵菩薩から智恵を授かるためのお参りをする。成人式のルーツでもあり、男児は元服、女児は肩上げを取った着物を着飾り、この日から大人の仲間入りをする。また、参詣後は渡月橋を渡り切るまで、後ろを振り向くと授かった智恵が逃げてしまうと言われ、真剣な表情で渡月橋を渡る子供たちの微笑ましい姿が目に入る。
 十三まいりは江戸時代中ごろから盛んになり、江戸時代後期に刊行された「都林泉名勝図絵」にも、法輪寺の十三まいりが記されている。

十三まいり

(写真は 十三まいり)


◇あ    し◇
天龍寺JR山陰線嵯峨嵐山駅下車徒歩5分。 
京福電鉄嵐山線嵐山駅下車徒歩2分。
京都市バス嵐山天龍寺前下車徒歩2分。
野宮神社JR山陰線嵯峨嵐山駅下車徒歩10分。 
京福電鉄嵐山線嵐山駅下車徒歩7分。
京都市バス野々宮下車徒歩3分。
清涼寺JR山陰線嵯峨嵐山駅下車徒歩10分。 
京福電鉄嵐山線嵐山駅下車徒歩15分。
京都市バス嵯峨釈迦堂前下車徒歩3分。
法輪寺阪急電鉄嵐山線嵐山下車徒歩8分。 
京都市バス嵐山公園下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
天龍寺075−881−1235 
篩月(精進料理)075−882−9725 
野宮神社075−871−1972 
清涼寺075−861−0343 
法輪寺075−861−0069 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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