月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・南禅寺  

 平成16年(2004)は、京都東山の禅刹・南禅寺を開創した亀山法皇700年御忌を迎え、一山をあげての大法要が営まれた。また700年御忌記念特別展「南禅寺」が2004年5月16日まで京都国立博物館で開催され、書画などの名宝が鑑賞できる。この期間中、通常は有料の南禅寺の方丈、三門、南禅院を展覧会鑑賞者には無料公開し、同時に非公開の三門楼上内陣を特別公開する。こうした南禅寺の諸堂を紹介する。


 
巨刹の春  放送 4月19日(月)
 京都・東山の地に壮大な伽藍(がらん)を構える南禅寺は臨済宗南禅寺派の大本山。自ら禅僧として修行した最初の天皇である亀山法皇(1249〜1305)が、正応4年(1291)東福寺3世の大明国師・無関普門(むかんふもん)を開山に迎え、法皇の離宮だった禅林寺殿を禅寺に改めたのが南禅寺の始まりとなった。
 創建当時は禅林寺と称していたが、2世南院国師・祖円が禅寺としての七堂伽藍を整備した時、亀山天皇の後を継いだ後宇多天皇から瑞龍山太平興国南禅禅寺の勅額を賜ったことから南禅寺と改めた。

法堂

(写真は 法堂)

庫裡大玄関

 南禅寺の寺格は極めて高く、初めは京都五山の第一位だった。室町時代になって足利義満が京都五山、鎌倉五山を定めた時、南禅寺を天下第一位として五山の上におき「五山之上」とし、禅宗寺院の最高位の寺となった。当時の境内は33万平方mもあり、塔頭は62院あった。
 創建後、室町時代の明徳4年(1393)、文安4年(1447)、応仁元年(1467)の応仁の乱の3回にわたる火災にあい、創建当時の伽藍はすべて焼失した。
その後、豊臣秀吉、秀頼や徳川家康の帰依と援助を得て諸堂の再建が進み寺観が整った。現在の七堂伽藍は桃山時代以降に再興されたものである。

(写真は 庫裡大玄関)

 南禅寺は南禅寺山を背にした12万平方mの広大な境内に、勅使門(国・重文)、三門(国・重文)、法堂(はっとう)、方丈(国宝)が一直線に並び、その両側に塔頭12院が建ち並んでいる。
 創建当時に亀山法皇は南禅寺の住持は臨済宗当代一流の禅僧を当てることとを定め、しばらくこの定め通り五山の住持を経た僧たちが選ばれ、多くの名僧が南禅寺の住持を務め「五山之上」の寺格を保っていた。
 南禅寺の境内は秋の紅葉も見事だが、春は山道沿いからそれぞれの諸堂周辺や庭園の桜が、競うように花をつけ1年中で禅刹の境内が最も華やぐ時である。

大方丈

(写真は 大方丈)


 
三門  放送 4月20日(火)
 南禅寺の三門は歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」で、楼上に住みついた大盗賊の石川五右衛門が、楼上からの眺めを「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ、この五右衛門の目からは万両」と言った名せりふの伝説があまりにも有名。今もこのせりふの通り楼上から京都市街、御所方向を見渡す眺めは素晴らしい。 この名せいりふに水を差すようだが、五右衛門は文禄3年(1594)に処刑されており、五右衛門が生きていた時には、南禅寺の山門は焼失して再建されていなかった。五右衛門の死後、34年後に再建されており、このせりふはあくまでも歌舞伎での創作話。

三門

(写真は 三門)

宝冠釈迦座像

 三門は禅寺の仏殿前にある三解脱門、すなわち空門・無相門・無作門に例えて言い、禅宗七堂伽藍(がらん)のひとつに入る重要な建物である。創建当時の三門は永仁3年(1295)太政大臣・西園寺実兼が寄進、後に改築されたが文安4年(1447)の火災で焼失した。
 現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が、大坂夏の陣で戦死した侍たちの冥福を念じて寄進した。禅宗様式の豪壮な建物は、巨大な門を支える列柱群が力強さを示し、日本三大門のひとつにふさわしい。楼上の2階部分には縁がぐるりと取り巻き、ここからの眺めが素晴らしい。

(写真は 宝冠釈迦座像)

 楼上内陣には宝冠釈迦像と脇侍2像、十六羅漢像を安置しているほか、徳川家康、藤堂高虎と一門の重臣の位牌が安置されている。天井には狩野探幽、土佐徳悦の筆による鳳凰や天女の極彩色画が描かれ、柱や梁にも華やかな装飾紋が描かれている。多くの寺院の釈迦像と違ってきらびやかな宝冠をかぶった宝冠釈迦像は、鎌倉時代に中国・宋から伝えられたもので、禅宗寺院の三門の本尊としてまつられるようになった。
 南禅寺と同形式の三門は京都の東福寺、大徳寺、妙心寺、知恩院、東京の増上寺にあるが、常時、楼上に登り拝観できるのは南禅寺の三門だけである。

鳳凰・天人の図(狩野探幽・土佐徳悦筆)

(写真は 鳳凰・天人の図
     (狩野探幽・土佐徳悦筆))


 
南禅院  放送 4月21日(水)
 2度にわたる蒙古襲来など多難な問題に直面した亀山天皇は、後嵯峨天皇の第4皇子で兄の後深草天皇の後を継いで正元元年(1259)11歳で即位した。積極的な行動派の賢帝とされていたが、25歳で皇子の後宇多天皇に譲位し上皇となった後も、意欲的に政務に取り組んでいた。
 40歳になった正応2年(1289)離宮で出家して法皇となり、その離宮を寄進して禅寺とした。その離宮の遺跡が、赤レンガの水路閣をくぐって石段を登ったところにある南禅院で、南禅寺発祥の地である。平成16年(2004)の今年は亀山法皇の700年忌となり、4月7日から17日まで盛大な大法要が営まれた。

亀山法皇座像

(写真は 亀山法皇座像)

亀山法皇分骨所

 南禅院は応仁の乱の兵火で焼失した後、しばらくそのままになっていたが、元禄16年(1703)徳川5代将軍・綱吉の母・桂昌院が方丈を再建して寄進した。方丈の襖(ふすま)絵は狩野養朴父子の筆による水墨画が描かれ、軒丸瓦は菊の紋が象られている。
 方丈内陣に安置されている法皇の木像(国・重文)は、椅子に座る法体姿で、玉眼をはめた写実性豊かで落ち着いた雰囲気の像である。納衣(のうえ)には飛雲、袈裟には霊鳥と草花の文様が金泥で描かれており、崩御から間もない時期に製作されたと思われる。また、境内には亀山法皇の遺言によって分骨埋葬された御廟がある。

(写真は 亀山法皇分骨所)

 南禅寺山を背後にした庭園は、京都に残る鎌倉時代の代表的な池泉回遊式庭園で、亀山法皇自らの作庭とも言われる。周囲を深い樹林で包まれた静かな庭園は、国の史跡・名勝に指定されていて、新緑と紅葉の時期はことに趣が深い。
 庭園の大小の池の上池は曹源池(そうげんち)と呼び、竜の形に作られ、中央に蓬莱島がある。下池は池を心字形にしないで島を心字島にしたところに特色がある。築庭当時の庭には吉野の桜、難波の葦、竜田の楓が移植され、井手の蛙も放たれていたとの記録がある。

曹源池

(写真は 曹源池)


 
方丈  放送 4月22日(木)
 南禅寺境内の東の奥に建つ方丈(国宝)は、もともと別の建物であった大方丈と小方丈がひとつにまとめられている。入母屋造、柿(こけら)葺きの大方丈は、豊臣秀吉が天正17年(1589)に造営して寄進した御所の清涼殿を慶長16年(1611)に移築したもので、寝殿造りの美しい形を今に伝えている。左甚五郎が彫った両面透かし彫りの欄間が掲げられ、縁側の欄干の金具には南禅寺の山号の瑞龍の紋が彫刻されるなど、いたる所に凝った意匠が施されている。大方丈の北側の小方丈は承応元年(1652)に移築されてもので、伏見城の遺構を移したとの説もあるが定かではない。

小方丈

(写真は 小方丈)

官嬪の国(狩野永徳筆)

 大方丈の6室の襖(ふすま)には、狩野永徳や狩野元信ら狩野派絵師らの筆による中国の孝子説話「二十四孝図」や麝香(じゃこう)の間の2匹と3匹の麝香猫の親子が対峙している「牡丹麝香猫図」のほか「宮嬪の図」など、壮麗な極彩色の襖絵(国・重文)120面が描かれている。禅宗風襖絵とは異なる桃山時代の金碧画として注目されている。
 小方丈の3室は「虎の間」と呼ばれ、狩野探幽の筆による「竹林と虎」を主題にした虎の襖絵が42面描かれ、中でも水を呑む虎とそれを眺める虎の美しい姿態の「水呑みの虎」の絵が名高い。

(写真は 官嬪の国(狩野永徳筆))

 大方丈南側の広縁に面する禅院式枯山水の庭園は、慶長年間(1596〜1615)に小堀遠州が作庭したと言われている。石組みを一カ所にまとめて箒(ほうき)目の白砂面を広く残した名園で、その巨石の姿が虎が子供の虎を従えて川を渡る姿に似ていることから、俗に「虎の児渡しの庭」と呼ばれ、京都では龍安寺の石庭と共に有名な庭である。
 清涼殿が移された時に作られ、もとは龍安寺の庭と同様に、一木一草もない海を現していたのかも知れないと言われている。今はマツ、ツバキ、カエデ、モチ、サツキなどが植えられ、庭の石や築地塀などとよくマッチしている。小方丈前の如心庭は、白砂の中に置かれた石がどの方向から眺めても心の字を現している宗教的な庭である。

群虎図(狩野探幽筆)

(写真は 群虎図(狩野探幽筆))


 
水路閣  放送 4月23日(金)
 南禅寺法堂(はっとう)から境内を南へ進み南禅院前へ出ると、レンガ造りのアーチ型の水路閣が現れる。明治18年(1885)長等山と東山にトンネルを掘り、琵琶湖の水を京都へ引き入れる大胆な計画が実行に移された。この琵琶湖疏水事業の一環として造られた水路が南禅寺境内にある水路閣で、今日もこの長さ93mのアーチ橋の上を琵琶湖の水が流れ続けている。
 当時、由緒ある古刹・南禅寺境内に、レンガ造りの洋風建造物が築かれることに対して寺側や信者らに強い抵抗感があったが、100年以上たった今では、レンガの色も古色に変化して周囲の景色に溶け込み、南禅寺を代表する景観のひとつとして参詣者の目に馴染んでいる。

水路閣

(写真は 水路閣)

インクライン

 琵琶湖疏水の開通当時は、疏水の水路が水運にも使われ、物資を運ぶ船が行き来していた。南禅寺近くの蹴上には高低差のある水路に船を上下に移動させるインクラインが設けられた。今もそのインクラインのレールが琵琶湖疏水の史跡として残されている。
 当時、疏水の水は水道水、かんがい用などに使われたが、水路の落差を利用した水力発電も行われ、この電力を使って明治28年(1895)日本で一番早く路面電車を走らせた。また電力を利用した工場が生まれるなど京都の町に活気を呼び戻した。
こうした琵琶湖疏水の歴史と現状をわかりやすく展示しているのが、平成元年(1989)にオープンした琵琶湖疏水記念館である。

(写真は インクライン)

 明治維新で都が東京へ遷都し、京都は沈滞ムードが漂っていた。京都市民の長年の夢だった琵琶湖の水を引くことを実現させ、工場を興し沈み切った京都に活力を取り戻そうと北垣国道・京都府知事が、琵琶湖疏水の大事業を計画し着工した。この難工事には東京大学を卒業ばかりの新進気鋭の技術者・田辺朔郎を技師として採用し、工事に当たらせた。外国の技術者の手を一切借りず、日本人だけでこの大事業を完成させてことでも注目された。
 現在、1日180万トン、最大200万トンの水を琵琶湖から取水しており、京都市の水道水の97%は琵琶湖疏水の水が使われ、市民は今も琵琶湖疏水の恩恵を受けている。このほか哲学の道沿いの川など市内の小河川に放流され、きれいな水の流れる観光都市・京都の川の景観の維持にも役立っている。

田辺朔郎

(写真は 田辺朔郎)


◇あ    し◇
南禅寺地下鉄東西線蹴上駅下車徒歩8分。 
京都市バス南禅寺・永観堂又は法勝寺町下車徒歩8分。
琵琶湖疏水記念館地下鉄東西線蹴上駅下車徒歩5分。 
京都市バス法勝寺町下車徒歩5分。
◇問い合わせ先◇
南禅寺075−771−0365 
琵琶湖疏水記念館075−752−2530 
京都市水道局浄水部疎水事務所075−761−3171

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

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(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

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