月〜金曜日 18時54分〜19時00分


八尾市 

 大阪府と奈良県の境にある高安山の西側に広がる八尾市は、中河内の中心地で古くから開けた歴史の古い町である。高安山西麓には弥生時代の遺跡や6〜7世紀初めに造られた多くの古墳群がある。物部守屋が蘇我馬子に滅ぼされた地でもあり、中世には浄土真宗の寺内町が形成された。また、江戸時代初めからの河内木綿の産地でもあり、中河内の商業の中心地としても栄えた。このように多彩な歴史に彩られた八尾市を訪れた。


 
久宝寺御坊・顕証寺  放送 4月26日(月)
 「久宝寺御坊さん」と呼び親しまれている顕証寺は、蓮如上人創建の浄土真宗本願寺派寺院。京都、近江、越前と各地で布教を続けた蓮如が、文明2年(1470)河内の久宝寺へ来た時、浄土真宗に帰依する人が大変多かったので、ここに西証寺創建した。天文4年(1535)大津の顕証寺の住職だった蓮如の第6子・蓮淳を住職に迎え、寺号が顕証寺と改められた。蓮淳はその後、各地に顕証寺の支坊を建立し、河内一円の本願寺派の根本道場となった。
 現在の本堂や鼓楼、鐘楼などは江戸時代の宝永7年(1710)建立されたもので、山門を入ると蓮如上人の銅像が参詣者を迎えてくれる。寺宝に蓮如上人の筆による親鸞上人等身画像などがある。

蓮如上人像

(写真は 蓮如上人像)

本堂

 顕証寺は本願寺派の中でも格式の高い寺院で、住職は親鸞、蓮如の血筋に当たる連枝と呼ばれる人が務める。後に顕証寺住職から本願寺第17世門主法如上人、第20世門主広如上人を出している。
 顕証寺と門徒は信仰心で一体となって寺の周辺に住みついた。町の周囲を2重の濠と土塁で囲み、碁盤の目状の整然とした街路を整備し、町の6ヶ所の入口には木戸門を設け、城郭に等しいような厳重な防備をした寺内町が誕生した。かつての今口の木戸門があったところに、今口地蔵尊の小堂があり往時を伝えている。ここに祀られている地蔵尊は樋之上の地から出土したことから、別名・樋之上地蔵と呼ばれている。

(写真は 本堂)

 この地は聖徳太子の建立と伝えられる久宝寺があったことから、古くから久宝寺の地名で呼ばれていた。蓮如上人が建立した西証寺は廃寺となっていた久宝寺跡に建てられた。また、顕証寺の東の本町には親鸞の高弟の法心の建立した慈願寺、
その北には浄土真宗大谷派の八尾御坊・大信寺があり、八尾は古くから浄土真宗の信者が多い土地であった。
 毎月11日、27日に開かれるお逮夜(たいや)と呼ばれる法要は500年も続いている。このお逮夜の中で5月11日の河内蓮如忌法要には各地から大勢の門徒衆が集まり、念仏を唱えて蓮如上人の徳をしのぶ。毎年11月27日に開かれるお逮夜市は、古くから付近の農村の商業機能を果たす市として知られている。

久宝寺寺内町

(写真は 久宝寺 寺内町)


 
河内音頭発祥の地  放送 4月27日(火)
 八尾は古代から歴史遺産に富んだ所だが、一般には河内音頭の町として知られる。
毎年8月23、24日、常光寺の地蔵盆会の夜、境内で盛大な盆踊りが行われた。この盆踊りで唄われるのが「流し節・正調河内音頭」で、この盆踊りが中河内に定着し、この時期には市内いたる所で盆踊りが催されるようになった。
 室町時代に南北朝時代の戦乱で荒廃した寺を再建した時、材木を運ぶ木遣り唄が河内音頭の始まりとなり、今日まで約600年間唄い継がれている。平成8年(1996)には環境庁の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。冬以外には地元の河内音頭保存会の人たちが境内で「流し節・正調河内音頭」を練習しており、名調子を聴くことができる。

八尾地蔵盆踊

(写真は 八尾地蔵盆踊)

常光寺

 常光寺は天平17年(745)聖武天皇の勅願で行基が開創、新堂寺と称していた。平安時代の寛治2年(1088)白河法皇が熊野詣の途中に立ち寄って参詣しており、京の都にもその名が聞こえていた寺だった。南北朝時代には八尾別当顕幸が八尾城を本拠に南朝方についたため、常光寺はこの戦乱の兵火で焼失した。その後、又五郎大夫藤原盛継が至徳2年(1385)復興した。現在安置されている木像地蔵菩薩像はこのころに造仏されたものとされており、盛継の木像も地蔵像の横に安置されている。
 康応2年(1390)足利義満が祈願所とし、高野山参詣の帰途立ち寄った後、伽藍(がらん)造営の木材とともに「初日山常光寺」の扁額を贈って以来、常光寺と改められた。

(写真は 常光寺)

 大坂冬の陣、夏の陣ではこの一帯が激戦地となったが、徳川家康の信任の厚かった臨済宗南禅寺金地院の以心崇伝(いしんすうでん)の抱え寺だったので、家康から「常光寺を荒らすな」の禁制の文書が出され焼失を免れた。慶長20年(1615)大坂夏の陣で徳川方の藤堂高虎が常光寺に陣を置き、豊臣方の長曽我部盛親の軍と戦った。高虎が方丈の縁側で敵方の首実検をし、血のついた縁板が天上にあげられ血天井として今に伝わっている。境内に戦死した藤堂氏の家臣71人の墓があり、位牌も寺に安置されている。
 常光寺は八尾地蔵としても知られ、平安時代初期にあの世とこの世を往き来した言われる小野篁(たかむら)の作と伝えられる地蔵菩薩像が、本尊として安置されている。こうしたいきさつから小野篁が彫った地蔵尊は、閻魔大王と親しい間柄との伝説がある。

八尾地蔵

(写真は 八尾地蔵)


 
十三街道  放送 4月28日(水)
 大阪市玉造から八尾市神立(こうだち)を経て奈良の竜田川へ通じる道を十三(じゅうさん)街道と言う。古代から河内と大和を結んだ重要な街道で、大阪と奈良の境にあるのが十三峠。十三街道の名は大阪平野が一望できる峠の北側にある十三塚(国・重要有形民俗文化財)からこの名がついた。十三塚は直径6.5m、高さ1.4mの大塚を中心に南北に6基ずつの小塚が1列に並んでいる。  街道の茶屋の辻にはいくつもの茶屋が並んでいたと言う。平安時代の六歌仙のひとり、在原業平はこの近くの玉祖(たまおや)神社へ参拝の途中、茶屋の娘・梅野を見そめしばしば通うようになった。いつもは茶屋の近くの松の木に登り笛を吹いて知らせ、逢瀬を重ねるようにしていた。

玉祖神社

(写真は 玉祖神社)

水呑地蔵

 ある日、業平は笛の合図しないで茶屋に近づき、東窓からそっと中をのぞいたところ、梅野が手づかみで飯を器に盛って食べている姿を見て興ざめし逃げ帰った。これ以来、この地方では東窓を作ると娘の縁が遠のくと言われ作らなくなったとも言う。
玉祖神社に業平が吹いたと言われる「一節切(ひとよぎり)の笛」が伝わっており、茶屋の辻近くに「笛吹きの松」と言われた大きな松があったが今はない。
 玉祖神社は和銅3年(710)周防国(現山口県)の玉祖神社から勧進した玉祖連(たまおやのむらじ)の祖神・櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)を祀っている。
参道の石段横にある樹高10mのクスノキの巨樹は大阪府の天然記念物に指定されている。

(写真は 水呑地蔵)

 神社にはわが国最古の木製制札と言われる北条時政の制札(国・重文)がある。
制札には「神社にある薗光寺は鎌倉殿の祈祷所なので乱入してはならぬ」と記されている。木造の男女神座像は平安時代の作と見られ、男神像の着物の襟が立っていることや、女神像が立て膝をしていることから渡来人の風習を伝える像とされる。
 十三峠を大阪側へ下ったところに水呑地蔵堂がある。元禄7年(1694)造立の石造地蔵立像の前には2つの壺があり、こんこんと清水が湧き出ている。この清水を俗に弘法水と言っており、弘法大師がこの峠を越える旅人のために祈願して得た霊水と伝えれている。水呑地蔵の上には水呑園地があり、大阪平野を一望することができる。

弘法の水

(写真は 弘法の水)


 
高安古墳群  放送 4月29日(木)
 八尾市の東部、高安山の麓には、6世紀から7世紀にかけて造られた約200基を数える古墳群がある。かつては600基ほどあったのではないかと見られている。
これらの古墳はは高い技術を使って造られた横穴式石室を持った直径10〜20mの小さな円墳で、山の斜面のいたる所に開口した石室が見える。
 4〜5世紀にかけては巨大な権力を持ったごく少数の人物が、その権力と富みにものを言わせて巨大な前方後円墳を造った。だが、6〜7世紀になると権力の分散や財力のある人たちが現れ、多くの人たちが小規模な円墳の墓を造るようになった。こうした人たちの墓が集まったのが高安古墳群で、どのような人物が古墳に埋葬されたのかは不明で謎に包まれている。

来迎寺

(写真は 来迎寺)

抜塚

 高安古墳群は見学者のために古墳群を大窪・来迎寺コースと服部川コースに分けて遊歩道が整備されており、石室の中へ入って見学できる古墳もある。大窪・来迎寺コースにある代表的な古墳を紹介しよう。
 謡曲の弱法師、説教節の俊徳丸、人形浄瑠璃の摂州合邦辻などで知られている中世の高安長者の子・俊徳丸の墓と伝えられる徳俊丸鏡塚古墳で、石室入口には歌舞伎役者・実川延若が立てた焼香台がある。高安古墳群の中にある浄土宗・来迎寺の境内にも来迎寺塚と名づけられている古墳の石室の名残がある。寺の墓地内に石室の奥壁が抜かれてしまったため、7.5mの石室がトンネルのようになっている抜塚(ぬけづか)は、珍しい形での残り方である。家形石棺が残っているものや鉄剣や金環が出土した古墳もある。

(写真は 抜塚)

 高安古墳群の最も北側にある独立した円墳の愛宕塚古墳は、6世紀後半に築造されたと見られ、巨石を使った横穴式石室は長さ15.7m、幅3mもある。この地区の古墳の中では最大級のもので、蘇我馬子の墓ではないかと言われている飛鳥の石舞台古墳に匹敵、あるいは同等クラスの古墳と見られる。
 この古墳からは金銅製の馬具の一部、捩(ね)じり環頭(かんとう)太刀の一部のほかに、多数の須恵器が出土した。これらの副葬品などからかなり地位の高い人物の墓と考えられている。このほか高安古墳群や周辺の古墳から多くの土器や副葬品が出土品しており、これらは八尾市立歴史民俗資料館で順次展示している。

蒼ケ(愛宕塚古墳)

(写真は 羨道(愛宕塚古墳))


 
大聖勝軍寺  放送 4月30日(金)
 6世紀初めの飛鳥時代にわが国へ伝来した仏教をめぐって、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が対立していた。用明天皇の没後の用明天皇2年(587)崇仏派の蘇我馬子は、ここ河内の渋川の館に逃れていた排仏派の物部守屋を攻めた。
 仏教に帰依する聖徳太子は、この戦いで崇仏派の蘇我氏側についた。太子はこの戦いにあたって白膠木(ぬるで)の木に自ら四天王像を刻んで戦勝を祈願し、戦いの四天王とも言われた蘇我馬子に持国天、秦河勝(はたのかわかつ)に多聞天、迹見赤梼(とみのいちひ)に広目天、小野妹子に増長天を与え、それぞれの頭髪の中に入れて戦わせ勝利した。

多聞天(左)・待国天(右)

(写真は 多聞天(左)・待国天(右))

増長天(左)・広目天(右)

 物部氏を討つことができた聖徳太子は、戦勝を感謝し難波に四天王寺を建立したことは日本書紀でよく知られているが、この戦いの主戦場となったここ河内の八尾にも一寺を建てた。後に推古天皇から神妙椋樹山大聖勝軍寺(しんみょうりょうじゅたいせいしょうぐんじ)の山号を賜った。大阪・太子町の永福寺を「上ノ太子」、羽曳野市の野中寺を「中ノ太子」、大聖勝軍寺を「下ノ太子」と呼び、いずれも聖徳太子が創建した古刹である。
 大聖勝軍寺には聖徳太子16歳植髪像や戦勝のご利益を預かった四天王像が安置されている。境内の神妙椋(しんみょうむく)の老樹は、戦いの最中に身が危うくなった太子が木のそばに寄ると幹が割れて開き、太子の身をかくまい戦勝に導いたと伝えられている。

(写真は 増長天(左)・広目天(右))

 大聖勝軍寺境内や寺の周辺にはこの戦いの史跡が多い。寺の門前に「守屋池」と呼ばれる小さな池がある。迹見赤梼が放った鏑矢(かぶらや)で倒れた守屋の首を、秦河勝が取って洗ったと言う池で、俗に「守屋首洗池」と言う。
 寺の東、八尾市立病院の正面の国道25線に面した所には物部守屋を葬った「物部守屋大連墳」と記された碑が立っている守屋の墓がある。市立病院西側には、守屋を射た鏑矢が落ちた所にその矢を埋めた「鏑矢塚」、この鏑矢を放った弓を埋めた「弓代塚(ゆみしろづか)」が、すぐそばの竜華中学校南側にあり、いずれも石碑が立てられている。

守屋池

(写真は 守屋池)


◇あ    し◇
久宝寺御坊・顕証寺JR関西線久宝寺駅下車徒歩10分。 
近鉄大阪線久宝寺口駅下車徒歩15分。
常光寺近鉄大阪線八尾駅下車徒歩7分。 
玉祖神社近鉄信貴線服部川駅下車徒歩30分。 
八尾市立歴史民俗資料館近鉄信貴線服部川駅下車徒歩10分。 
大聖勝軍寺JR関西線八尾駅下車徒歩15分。 
JR関西線八尾駅からバスで太子堂下車徒歩3分。
◇問い合わせ先◇
八尾市役所広報課0729−91−3881 
八尾市立歴史民俗資料館0729−41−3601 
久宝寺御坊・顕証寺0729−93−1144 
常光寺0729−22−7749 
玉祖神社0729−41−8488 
大聖勝軍寺0729−22−3000 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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