月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・吉野町吉野山 

 吉野・大峯、熊野、高野の「紀伊山地の霊場と参詣道」が、平成16年7月ユネスコの世界遺産に登録される運びとなった。紀伊山地には修験道の「吉野・大峯」、神仏習合の「熊野三山」、密教の「高野山」とそれぞれ起源や内容を異にする三つの山岳霊場と霊場に至る参詣道が生まれた。これらの文化的景観を世界遺産に登録しようと言うもので、今回はその中の吉野山の遺産を訪れた。


 
金峯山寺  放送 5月3日(月)
 金峯山寺(きんぷせんじ)は、飛鳥時代の天武天皇年間(672〜85)に修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた金峰山修験本宗の総本山。
 伝承では役行者が大峰山で修行中に金剛蔵王権現を感得し、その姿を桜の木に刻みお堂を建立して祀った。これが金峯山寺の本堂・蔵王堂の始まりで、以来、1300余年間にわたって修験道の根本道場として、多くの修験者や修行僧たちが、本尊・金剛蔵王権現像の前で祈り、修行を重ねている。ユネスコの世界遺産に「紀伊山地の霊場と参詣道」が登録されるのを記念して、2004年7月1日から1年間、秘仏の金剛蔵王権現像三体(国・重文)が特別公開される。

吉野山

(写真は 吉野山)

蔵王堂

 吉野山から大峰山・山上ヶ岳にかけての山を金峯山と言い、その山中に散在していた寺を総称して金峯山寺と呼んでいた。蔵王堂は初め山上ヶ岳にあったが、参詣に不便なため天平年間(729〜49)に行基が吉野山にも堂を建て、金剛蔵王権現像を祀ったのが吉野蔵王堂(国宝)の起こりである。
 蔵王堂はたび重なる兵火や火災で焼失し、現在の建物は戦国時代の天正20年(1592)再建されたものである。木造建築としては奈良・東大寺の大仏殿に次ぐ大きさで、高さ34m、四方36mある。堂内には自然木をそのまま使った大小68本の柱があり、その中でもツツジの巨木の柱には目を見張る。

(写真は 蔵王堂)

 蔵王堂内にはわが国で最大と言われる厨子内に、三体の巨大な金剛蔵王権現像が安置されている。最も大きな中尊・釈迦牟尼如来像は高さ7.3m、右尊・千手観音菩薩像、左尊・弥勒菩薩像はそれぞれ5.9mある。この三体は蔵王権現の本地仏で過去、現在、未来の三世にわたって衆生を救済する仮の姿をしている。右手に三鈷(さんこ)を握って肩をいからせ、左手で刀印を結び、頭髪は逆立ち、目は怒りに燃え、全身で悪魔調伏の姿を現している。
 修験道は法皇、上皇、天皇をはじめ貴族から武士、庶民にいたるまで、多くの人たちの信仰を集め、平安時代から鎌倉時代にかけて最も盛んになった。今も山伏姿の信者たちの参詣が絶えず、女人禁制の山上ヶ岳の大峯山寺(おおみねさんじ)への参詣者も多い。

護摩供

(写真は 護摩供)


 
竹林院  放送 5月4日(火)
 蔵王堂から南へ徒歩で20分ほどの所にある竹林院は、聖徳太子創建の椿山寺が起こりと伝えられ、南北朝時代の後小松天皇の勅命によって現院号・竹林院に改められた。大峰山護持院のひとつで古くから大峯修験者の宿坊として利用されてきた。
 歌人・西行や細川幽斎の昔から近代の文人、墨客まで、多くの著名人が宿泊した宿坊だった。今は太い柱や黒い梁など、豪壮な寺院の建物の風情を生かした観光旅館として親しまれている。

本館

(写真は 本館)

護摩堂

 3万3000平方m(1万坪)の境内にある庭園「群芳園」は、秀吉の吉野の花見に際して千利休が築造、細川幽斎が改修した庭として知られる。吉野の山々や蔵王堂が望める池泉回遊式の借景庭園で、大和三名園のひとつに数えられている。
 宿泊客や寺を訪れた人たちは、四季折々にその趣を現す木立や池のほとりをめぐり、花と山の景色を愛でた太閤秀吉の気分にひたる。この庭園を眺めながら味わう利休鍋や懐石料理の味もまた格別とのこと。

(写真は 護摩堂)

 竹林院に遊んだ西行や秀吉をはじめ、多くの文人墨客がそれぞれゆかりの品を残した。秀吉が吉野の花見の時に使ったと伝えられる、茶弁当の器と酒を入れるひょうたん、狩野元信筆の「夏冬芭蕉」の絵、与謝蕪村筆の「山水」の絵などが伝わっている。
 また、竹林院の境内や群芳園の風景を与謝野寛は「三吉野の 竹林院の 静かなり 花なき後も ここに在らばや」と詠み、妻の晶子は「山の鳥 竹林院の 林泉を 楽しむ朝と なりにけるかな」と詠んでいる。

群芳園

(写真は 群芳園)


 
吉野水分神社  放送 5月5日(水)
 蔵王堂から上千本のなだらかな坂道を1時間ほどかけて登り、子守地区の人家もつきる所に吉野水分(よしのみくまり)神社がある。朱塗りの鳥居をくぐり境内に入ると、右に本殿、左に拝殿、奥に弊殿と楼門で囲まれた境内の空間は、緑深い自然と桧皮葺き屋根の風格ある古い社殿が調和し、荘厳な神域の雰囲気を漂わせている。
 この神社の創建は明らかでないが延喜式に記された大社である。平安時代には子守明神とか子守三所権現として京の都にも聞こえており、清少納言の枕草子にもその名が出てくる。

社殿

(写真は 社殿)

絵馬

 水分(みくまり)は水配(みくばり)、つまり山や谷の流水を司る意味で、主神を天之水分(あめのみくまり)大神として、古くから農耕の神として信仰されてきた。毎年、4月3日には牛と農夫に扮した2人が、農耕作業をユーモラスな仕草で演じる御田植神事が行われる。
 また、水分(みくまり)が御子守(みこもり)と訛って子守さんと呼ばれ、子宝の神としても信仰を集めており、子宝を願った赤ん坊の着物や乳房などが奉納されている。豊臣秀頼もこの神社の申し子と言われ、本殿、拝殿、塀殿、楼門、回廊からなっている現在の社殿(国・重文)を、慶長9年(1604)再興して寄進した。本殿は三つの社殿を一棟としたもので、横に並ぶ「三間社流造」と言う独特の建築。

(写真は 絵馬)

 本殿には精巧な造りで正装の女神像の国宝の秘神・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が祀られている。胎内に建長3年(1251)の銘があり、鎌倉時代の神像彫刻の代表作として高く評価されている。拝殿にある慶長9年(1604)の銘が刻まれた4個の芋の葉唐草釣灯籠(国・重文)をはじめ、秀頼寄進の灯籠や釜などが社宝として保存されており、4月3日の御田植神事の日に公開される。
 境内の庭にある枝垂れ桜は10日間近くも花をつけており「散らない桜」として知られ、毎年、参拝する人たちの目を楽しませている。神社近くの子守茶屋は吉野山の全景が見下ろせる見晴らしのよい所で「このあたりからの吉野山の桜が最高」と言う人が多い。

子守茶屋

(写真は 子守茶屋)


 
奥千本  放送 5月6日(木)
 吉野山には約3万本の桜がある。この日本一の桜の名所は下千本、中千本、上千本、奥千本に分かれ、桜の花が山を駆け登るように開花をずらしながら咲き登る。4月初旬に下千本が咲き始め4月下旬の奥千本まで、約1ヵ月間、花見が楽しめるのが吉野山の桜の特色である。
 修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)が桜の木に金剛蔵王権現像を刻み、本尊として祀ったことから吉野山では桜の木が神木とされた。「桜の一枝を伐るものは。
その一指を切る」とまで言われ保護されてきた。こうした由来から桜の寄進、献木が行われ、豊臣秀吉も1万本を寄進したとの記録がある。こうして増え続けた吉野山の桜のほとんどが山桜で、全山で10万本と言われた時もあった。

金峯神社

(写真は 金峯神社)

西行庵

 奥千本に鎮座する吉野山の地主神を祀った金峯(きんぷ)神社は延喜式に記された古社で、普段は人気も少なく修験道の行場のひとつとなっている。平安時代に金峯山は金鉱のある山として御嶽(みたけ)信仰の中心地となっていた。関白の藤原道長もこの山に入山して参籠したほか、天皇、皇族、貴族たちも御嶽信仰詣をしている。
道長が奉納した金銅製の経筒(国宝)が元禄4年(1691)に出土しているほか、御嶽信仰に関わる遺物が神社の周辺から出ている。
 金峯神社のかたわらにある宝形造の義経隠れ塔は、追われていた源義経、弁慶、佐藤忠信が隠れたと言われている建物。追手から逃れるため屋根を蹴破ったとの伝えから「蹴抜(けぬけ)の塔」とも言う。今は真っ暗闇の塔内をお経を唱えながらまわる修行の場となっている

(写真は 西行庵)

 金峯神社から南へ谷を下りると西行法師が俗塵を避けて3年間、隠棲していた西行庵と苔清水がある。漂白の歌人として各地を遍歴した西行は、2000首以上の歌を詠んでいるが、そのうち230首ほどが桜の歌である。
 「願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ」「吉野山 やがて出でじと 思う身を 花散りなばと 人や待つらむ」などと詠み、吉野山の桜をこよなく愛していた。西行庵のそばにある苔清水は今も清水が湧き出ており、西行は「とくとくと 落つる岩間の 苔清水 汲みほすまでも なき住まいかな」と詠んだ。
西行を慕ってこの地を訪れた松尾芭蕉が「露とくとく 心身に浮き世 すすがばや」と詠んだ句碑も立っている。

義経かくれ塔

(写真は 義経かくれ塔)


 
名物散策  放送 5月7日(金)
 吉野山は修験道の聖地であると同時に桜、紅葉の名所でもあり、修験道の根本道場・蔵王堂へ参詣する修験者や信者、桜見物をはじめ四季折々の自然を楽しむ観光客が多い。吉野ロープウエイ吉野山駅を降りてから、中千本の吉野山の尾根筋の沿道には土産物、特産品の店が軒を連ね、訪れた修験者や観光客を引き止めている。
 桜の花をあしらった吉野山ならではの産物や工芸品店、骨董品店、漢方薬店、食堂、山伏用の法具店など、さまざまな品を売る店が並んでおり、あれこれと品定めをする観光客らの姿が見える。

増田芳輝堂

(写真は 増田芳輝堂)

桜羊羹

 葛(くず)の根を砕いて厳寒期に冷水でさらし、でんぷんを取り出したのが吉野葛で、谷崎潤一郎の小説「吉野葛」でもよく知られている。その葛を炭火で乾燥させ、さまざまな形に成型した干し菓子の葛菓子は、高級菓子として茶席などにも出される。
一般家庭では鍋物に入れる葛切りで知られ、ほかに甘い蜜を入れた葛切り水菓子などがある。桜の花を散らした桜羊羹(ようかん)、桜餅、草餅は、甘味ばかりでなく目でも吉野の花や自然を味わわせてくれる。
 ほかに桜の木や土で作る愛らしい吉野雛は女性に人気の土産物。修験者が必携品としていた万能薬の陀羅尼助は、強い苦味が特徴の胃腸薬で今でも根強い人気を保っている。

(写真は 桜羊羹)

 最近は大阪市内でも売られるようになった柿の葉すしは、元は祭の日のご馳走として各家庭で作られていた郷土食。すし飯にしめサバを乗せ、柿の葉でくるんだもので、すし飯としめサバの味、柿の葉の香りが程よくマッチして、微妙な味と香りを醸し出している。酢の効いたすし飯と柿の葉でくるむことで保存が効き、修験者たちが保存食として持ち歩くのに重宝していた。
 各家庭で作られる柿の葉すしは、それぞれ微妙に味が違い「わが家の柿の葉すしが一番」と主婦たちは自慢する。柿の葉すしの専門店でも店独自の味があり、それぞれ食べ比べるのも面白い。

花錦

(写真は 花錦)


◇あ    し◇
蔵王堂近鉄吉野線吉野駅下車、吉野ロープウエイ乗り換え
吉野山駅下車徒歩10分。
竹林院近鉄吉野線吉野駅下車、吉野ロープウエイ乗り換え
吉野山駅下車徒歩30分。
吉野水分神社近鉄吉野線吉野駅下車、吉野ロープウエイ乗り換え
吉野山駅下車徒歩1時間。
金峯神社近鉄吉野線吉野駅下車、吉野ロープウエイ乗り換え
野山駅下車徒歩2時間。
西行庵近鉄吉野線吉野駅下車、吉野ロープウエイ乗り換え
吉野山駅下車徒歩2時間30分。
◇問い合わせ先◇
吉野町役場商工観光課07463−2−3081 
吉野山観光協会07463−2−1007 
金峯山寺07463−2−8371 
竹林院07463−2−8081 
吉野水分神社07463−2−3012 
金峯神社07463−2−1089 
増田芳輝堂(草餅、桜餅、桜羊羹)07463−2−8127
花錦(葛菓子)07463−2−4105 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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