月〜金曜日 18時54分〜19時00分


大阪・歴史を彩った人びと 

 大阪は歴史、文化の豊かな都市であり、歴史上の著名人も枚挙にいとまがない。今週は歴史、文化の再発見の旅として、古代から現代まで歴史を彩った人物の足跡をたどって見た。
 ※江戸時代までは大坂、明治時代以降は大阪とします。


 
仁徳天皇  放送 5月24日(月)
 5世紀初め、難波に最初に都を置いた仁徳天皇は、当時、河内湖とそこに流れ込む河川がたびたび氾濫したため、上町台地の北端に堀江をうがつ大工事を敢行した。
 この大工事にその技術力を貸したのが、朝鮮半島や中国大陸からやって来た渡来系の人びとだった。天皇は鷹狩りの折りなどに、渡来人たちが住んでいたこの地へしばしば行幸し、この地の森で休息しながら渡来人たちの文化や先進技術を観察していた。土地の人たちはこの森を御幸森と呼ぶようになり、天皇の崩御後、この森に社を建立し天皇を祀ったと伝えられるのが、現在の大阪・生野区桃谷の御幸森天神宮である。

御幸森天神宮

(写真は 御幸森天神宮)

つるのはし跡

 日本書紀に仁徳天皇が難波に置いた都は高津宮と記されている。その場所は定かでないが、現在の大阪城付近の難波宮あたりと推定されている。仁徳天皇はこの宮のあった上町台地から庶民の家に煙の立たぬのを見て、3年間税を免除したとの伝承は有名である。
 当時の難波は上町台地の西側まで大阪湾の入り江が入り込み、大小の河川が流れ低地では水害に悩まされていた。そこで上町台地の北側に深い水路を切り開き水を大阪湾に流し水害を防いだ。また、日本書紀に御幸森天神宮の近くの平野川(旧大和川)に小橋をかけたとあり、この付近に鶴が多く集まったので「つるの橋」と呼ばれ、今はその跡地に石碑が立っている。

(写真は つるのはし跡)

 御幸森天神宮付近は昔から朝鮮半島・百済からの渡来人たちが多く住んでいたが、今も天神宮から東に延びる御幸通商店街は、通称・コリアタウンと呼ばれている。在日韓国、朝鮮人の人たちが暮らし、ハングル文字があふれ、韓国語と大阪弁が交差しながら飛び交い、ほがらかな人たちの庶民感覚の息づく町である。
 商店街の両側にはキムチや韓国風お好み焼きと言われるチヂミ、焼き肉、トウガラシ、朝鮮人参など、安くておいしい本場の食料品や食材が豊富に並んでいる。色鮮やかな民族衣装のチマチョゴリを売る店頭には、異国情緒の華やいだ雰囲気が漂っている。

御幸通商店街(コリアタウン)

(写真は 御幸通商店街(コリアタウン))


 
細川ガラシャ  放送 5月25日(火)
 戦国時代の戦乱の中で、その運命を大きく左右された細川ガラシャ・本名玉子(1563〜1600)は、戦国の世が生んだ悲劇の女性のひとりと言える。
 関ヶ原の戦が起った時、徳川家康に味方しようとした細川忠興に対して、豊臣方の石田三成は忠興の妻・ガラシャ夫人を人質として大坂城への入城を強要した。この要求を拒否したため三成の軍勢に屋敷を囲まれたガラシャ夫人は、自殺を禁じられたキリスト信徒であったが、あえて屋敷に火を放ち家老に長刀で胸を突かせて自決、自己の信念を貫き37歳の生涯を閉じた。

崇禅寺

(写真は 崇禅寺)

細川ガラシヤ墓所

 大阪・東淀川区の曹洞宗の寺・崇禅寺にガラシャ夫人の五輪塔の墓があり、かたわらに「秀林院細川玉子之墓」と刻まれた石碑が立っている。
 明智光秀の娘だった玉子は、織田信長の命によって細川忠興に嫁し、後にキリスト教に帰依して洗礼を受けガラシャとなった。本能寺で織田信長を討った光秀は、羽柴秀吉との天下分け目の山崎の合戦に備え、忠興を味方に誘ったが、忠興は妻を一時離縁して光秀の誘いを断った。秀吉との戦いに敗れた光秀は近江へ落ち延びる途中、山科の小栗栖村で住民に襲われて殺され、光秀の三日天下は終わり、忠興は秀吉の家臣とった。

(写真は 細川ガラシャ墓所)

 ガラシャ夫人が自決した忠興の屋敷は大坂城の南にあった。その台所の井戸が「越中井」と呼ばれ今も残っており、その脇に「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」の辞世の歌碑が立っている。
 越中井の近くの大阪カテドラル聖マリア大聖堂の入り口には、ガラシャ夫人の像とキリシタン大名として知られる高山右近の像が立ち、大聖堂内には堂本印象作の「最後の日のガラシャ夫人」の絵が掲げられている。大聖堂の約100個ほどの窓は、イエス・キリストや聖母マリアらを描いた美しいステンドグラスで彩られていることで有名。また2400本のパイプを持つ素晴らしい音色のパイプオルガンもよく知られている。

大阪カテドラル聖マリア大聖堂

(写真は 大阪カテドラル聖マリア大聖堂)


 
上田秋成  放送 5月26日(水)
 江戸時代の大坂の物語作者と言えば、井原西鶴、近松門左衛門の名が浮かぶが、「雨月物語」の作者・上田秋成(1734〜1809)も大坂の人である。秋成は江戸時代中期に大坂の曽根崎新地で遊女の子に生まれ、4歳の時、堂島の紙と油を商う島屋・上田家の養子となった。
 暮らしに不自由しないのを幸いに、中国の小説を読みあさったり、俳諧、和歌、文芸にふけった。明和3年(1766)33歳の時、風俗小説を書き、作家として世に出た。2年後の35歳の時、幻想的な怪異の世界を表現した「雨月物語」を書き上げ、西鶴や近松とはまったく異質の文学が大坂で生まれ評判になった。

上田秋成

(写真は 上田秋成)

「伊勢物語考・長柄都考・さざ波の都考」

 その3年後、堂島の火災で島屋は全焼し、破産に追い込まれた。幼児の時に天然痘にかかり、養父母が祈願して一命を救われたことから信仰していた郊外の加島稲荷(現淀川区・香具波志神社)の宮司・藤氏の招きで神社に居を移し、医術を学びながら「雨月物語」に手を加え続けた。
 船場で医者を開業、親切な医者として患者に喜ばれていたが、自分の誤診で幼児を死なせたため、13年間続けた医者を廃業した。晩年、京都に移り文化6年(1809)76歳で没した。墓は京都・南禅寺そばの西福寺と香具波志神社の宮司の墓地にあり、鳥居の傍らには「上田秋成寓居跡」の石碑が立っている。

(写真は 「伊勢物語考・
長柄都考・さざ波の都考」)

 香具波志神社のある加島は、古くから中国や朝鮮半島から渡ってきた優れた技術を持った鍛冶職人が住みつき、鍛治の町として栄え「加島鍛冶千軒」と言われたほどだった。
 江戸時代中期に徳川幕府は、香具波志神社の北に銭座を置き銅銭を作らせた。当時、大坂には加島のほかに高津、難波に銭座があり「大坂三銭座」と呼ばれていた。加島の鍛冶の技術は高く「酒は灘、銭は加島」と言われ、ここで作られた銅銭は良質のものだった。たが、幕府は銭座を増やしすぎたため、粗悪な銭が出回るようになり、一転して銭座を廃止して貨幣価値を維持することになって、加島の銭座はわずか3年で廃止となった。

加島鋳銭所

(写真は 加島鋳銭所)


 
福沢諭吉  放送 5月27日(木)
 明治維新後に「学問のすすめ」を著し、慶応4年(1868)に慶応義塾を開いた福沢諭吉(1834〜1901)は、豊前国中津藩(現大分県中津市)の藩士の子として大坂・堂島の中津藩蔵屋敷で生まれた。諭吉が2歳になる前に父が急死したため、母に連れられて兄、姉ら5人と中津に帰った。
 中津では儒学を学び、長崎での遊学を終えた後、江戸へ行く途中、大坂蔵屋敷へ立ち寄った際に、兄の勧めで安政2年(1855)緒方洪庵の適塾に入門して蘭学を学んだ。適塾では塾頭も務めており、適塾で学んだ数年間がその後の福沢諭吉の人生に大きな影響を与えている。

適塾

(写真は 適塾)

緒方洪庵

 大阪・北浜のオフィス街の一角に残る幕末の蘭学者で医師・緒方洪庵が開いた「適塾」は、自由奔放な気風の蘭学塾だった。適塾からは後に「明治」の新時代をを創った福沢諭吉をはじめ、福井藩士で幕末の思想家・橋本左内、長州藩士で近代的な軍隊制度を創設した大村益次郎、幕末の幕臣で明治初期の政治家・大鳥圭介、幕末から明治初めの医学者・長与専斎ら3000人にのぼる幾多の英才たちを輩出した。
 木造2階建ての適塾(国・重文)は江戸時代末期の建物。2階の大部屋は塾生が起居した部屋で、部屋の中央の柱には刀傷が残っており、血気盛んな塾生の様子をうかがい知ることができる。

(写真は 緒方洪庵)

 福沢諭吉の家庭は中津藩士と言っても下級武士で、封建制では下級武士の子は下級武士で終わらねばならず、父は諭吉を努力しだいで大僧正にもなれる僧侶にしようと考えていた。封建制度の中で苦労し若くして亡くなった父を思い、諭吉は涙し「封建的な門閥制度は親の敵(かたき)でござる」と福翁自伝で言い放っている。
 こうした思想の中から国民平等・独立自尊を説き、封建思想を批判した「学問のすすめ」は生まれ、その巻頭に書かれた「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」が、堂島川右岸の元大阪大学医学部付属病院南側の福沢諭吉誕生地の碑に刻まれている。

ヅーフ辞書

(写真は ヅーフ辞書)


 
川端康成  放送 5月28日(金)
 大坂天満宮の東向かいの料亭・相生楼の門の脇にある小さな石のモニュメントには「川端康成生誕之地」とある。「伊豆の踊子」「雪国」など、独特の感性で叙情的な名作を数多く著し、昭和43年(1968)日本人で初めてノーベル文学賞を受けた川端康成(1899〜1972)は、開業医だった父・栄吉の長男として明治32年この地で誕生した。
 虚弱だった父は肺結核で32歳の若さで死亡した。康成は生まれて間もない1歳7ヶ月で父を失い、その翌年、母も父と同じ病で死亡、3歳で両親を失い4歳年上の姉と二人きりになった。

相生楼

(写真は 相生楼)

茨木市宿久庄

 両親の死亡後、姉は叔母の嫁ぎ先に引き取られ、康成は茨木市宿久庄の父の両親に引き取られ、旧制茨木中学校を卒業する18歳まで祖父母とここで過ごした。
 川端家は宿久庄で代々、庄屋を務めていた家で、祖父も庄屋を務め村政にもたずさわっていた。広い屋敷で祖父母との生活は、幼い康成にとってはわびしい生活だった。
近所の子供とも遊ばない孤独な日々を送る境遇の康成は、物事を深く見つめるようになった。本をよく読み、小学生の時には学校の図書室の本は、一冊残らず読んだと言う。

(写真は 茨木市宿久庄)

 祖母を亡くした後、祖父と二人きりの生活の中で、病で死の床にいる祖父を康成少年は冷徹な観察眼でノートに記録した。後年、この日記に手を加えて発表したのが「十六歳の日記」である。旧制茨木中学校時代に創作活動を始め、地元の地方新聞などへ投稿して掲載されるようになった。
 茨木市にある川端康成文学館には小学生時代の習字、中学生時代の作文、成績表などの遺品のほかに書簡、自筆原稿や「雪国」「古都」などの初版本、祖父母と暮らした屋敷の模型などが展示されている。幼、少年期を過ごした屋敷は、遠縁の人が買い取り住んでおり、康成が寝そべった庭石などがわずかに当時をしのばせている。

茨木市川端康成文学館

(写真は 茨木市川端康成文学館)


◇あ    し◇
御幸森天神宮JR大阪環状線桃谷駅下車徒歩10分。 
JR大阪環状線、近鉄奈良線、
近鉄大阪線、地下鉄千日前線鶴橋駅下車徒15分。
崇禅寺阪急電鉄京都線崇禅寺駅下車徒歩5分。 
JR東海道線、地下鉄御堂筋線新大阪駅下車徒歩15分。
越中井、
大阪カテドラル聖マリア大聖堂
JR大阪環状線、地下鉄中央線・長堀鶴見緑地線
森ノ宮駅下車徒歩10分。
香具波志神社JR東西線加島駅下車徒歩10分。 
福沢諭吉生誕の地JR東西線新福島駅、阪神電鉄福島駅下車徒歩10分。 
JR大阪環状線福島駅、
地下鉄四つ橋線肥後橋駅下車徒歩15分。
適塾京阪電鉄、地下鉄御堂筋線淀屋橋駅徒歩5分。 
相生楼(川端康成生誕の地)JR東西線天満宮駅下車徒歩5分。
地下鉄谷町線・堺筋線南森町駅下車徒歩5分。
京阪電鉄北浜駅下車徒歩15分。
川端康成文学館JR東海道線茨木駅、
阪急電鉄京都線茨木市駅下車徒歩15分。   
◇問い合わせ先◇
御幸森天神宮06−6732−2816 
大阪カテドラル聖マリア大聖堂06−6941−2332
崇禅寺06−6322−9309 
香具波志神社06−6301−6501 
適塾06−6231−1970 
川端康成文学館0726−25−5978 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

    あなたも「関西の歴史や文化を楽しみながら探求する」歴史街道倶楽部に参加しませんか?
    歴史街道倶楽部では、関西各地の様々な情報のご提供や、ウォーキング、歴史講演会など楽しいイベントを企画しています。
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          郵便番号 530−6691
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                  「テレホンサービス係」
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       FAXでも受け付けております。FAX番号:06−6448−8698   

歴史街道推進協議会