月〜金曜日 18時54分〜19時00分


福井・今庄町 

 福井県は今庄町と敦賀市の境にある木ノ芽峠の峰を境にして嶺北、嶺南に分かれている。その嶺北の境界に位置する今庄町は、古代からすべての交通路が通過し、交通の要衝として発展してきた。街道筋には宿場町の面影を残す建物が今も残っている。
豊かな自然と宿場町の情緒が相まっている今庄町は名物の今庄そばもおいしい。今回はこんな越前の今庄町を訪ねた。


 
宿場の里  放送 6月14日(月)
 町の東西と南の三方を1000mを超す山に囲まれ、北方だけが日野川によってひらけた今庄町は、峠越えの北陸道、北国街道が通る宿場町として繁栄してきた。
 京都、大坂や東海道から北陸へ入るには古代から都との往来が盛んだった最古の北陸官道の山中峠があった。平安時代初期の天長7年(830)には西近江路と呼ばれ、古代、中世の官道・北陸道と言われた木ノ芽峠が開通した。さらに福井に北ノ庄城を築いた柴田勝家によって天正年間(1573〜92)に改修された木ノ芽峠越えの北陸道に対し北国街道とも東近江路とも呼ばれた栃ノ木峠もあった。これらの街道はいずれも今庄で合流しており、今庄は北陸の玄関口、交通の要衝の宿場町として発展した。
今庄宿

(写真は 今庄宿)

京藤家

 今も昔ながらの面影を残す町並みの中で、天保年間(1830〜44)の建築と見られる京藤家住宅は、塗籠(ぬりごめ)の外壁と赤みの強い越前瓦の屋根の上にあげられた卯建(うだつ)が異彩を放っている。江戸時代には裕福な家でなければ、卯建をあげることができなかったので「うだつがあがらぬ」との言葉が生まれた。外壁を塗籠にしたのは、火事の時に延焼を防ぐためで、卯建も延焼防止の役目を果たす。
 一般的に町家は敷地の間口いっぱいに家を建てるが、京藤家は主屋の左に前庭を作り、奥に座敷を配した本陣形式をとっている。2階正面の壁は全面に虫籠格子(むしここうし)を取り入れ、窓と壁面の差をなくするデザインとするなど、随所に凝った造作を施し、材料、仕上げも質の高いものを使っている。

(写真は 京藤家)

 江戸時代の天保年間の記録によると、今庄宿は戸数約290戸、人口約1300人、旅籠(はたご)55軒、茶屋15軒などあり、越前各藩は参勤交代の折に利用する本陣を置いていた。
 心和む唄と振りに風情がある羽根曽(はねそ)踊りは今庄で生まれ、往来する旅人の旅情を慰めてきた。10世紀の初めごろ、今庄の西にある藤倉山の藤勝寺で舞われていた稚児舞が起源と伝えられており、この稚児舞が宿場町での盆踊りとなり、さらに旅人を慰める踊りへと変化していった。山本周五郎の著作「虚空遍歴」では、今庄宿が芸道を究めようとする主人公の生き方を映す重要な背景となっている。

羽根曽踊り

(写真は 羽根曽踊り)


 
今庄そば  放送 6月15日(火)
 今庄特産のそばは、慶長6年(1601)府中(現武生市)領主として着任した本多富正が、荒れ地の作物としてそばの栽培を勧めた。さらに城下の医師と相談して大根おろしの汁で食べる方法を工夫したとも言われ、以来400年の歴史を持つ越前そばの本場としてその味のよさを誇ってきた。
 今庄そばと言えばピリッと辛い大根おろしを添えたおろしそばが主流。昔の人は大根おろしの汁をしぼり、その汁と醤油をそばにかけて食べた。これが通のおいしいそばの味わい方だとも言われる。ほかに大根おろしをそのままそばに乗せ、タレをかけて食べたり、タレと大根おろしを混ぜ合わせそばにかけて食べたり、これにカツオ節をかけたりするなど、おろしそばには定型がなく、いろいろな食べ方があるようだ。
今庄そば

(写真は 今庄そば)

そばの里

 昭和天皇が福井を訪れた時、おろしそばを2杯も食べられたとのエピソードがある。その後、皇居でそばが話題になると「あの越前そばは…」と言われたのが「越前そば」のネーミングにつながったとも言われている。
 越前そばの発祥地・今庄では昔、そばが打てなければ嫁にも行けぬと言われたほど、そばは毎日の食卓に欠かせないものだった。今でも各家庭でそばを打ち、素朴な味を楽しんでいる家庭が多く、そばを食べると成人病の予防に必要な栄養成分が効率良く摂取できると言われている。
 今庄町には茅葺きの農家をそのままそばの店にし、先祖から伝えられた今庄そばを提供している「今庄・そばの里」や、各家庭で鍛えたそば打ちの腕を生かして、素朴な味の今庄そばを出す「そば処・おばちゃんの店」などのほかに、おいしいそばが味わえる店は町内あちこちにある。

(写真は そばの里)

 明治21年(1888)海岸寄りに国道8号が開通してから今庄宿は寂れたが、明治29年(1896)鉄道・北陸線の開通で再び活気を取り戻した。今庄町と敦賀市の間の急勾配を上り下りする列車は、今庄駅で機関車を代えたり増結するため、すべての列車が今庄駅で5分以上停車した。この停車時間に駅では土産物や弁当、立ち食いそばなどがよく売れ、今庄そばの名を全国に広めた。こうして「宿場町今庄」は「国鉄の今庄」となったが、昭和37年(1962)の新北陸トンネルの開通で、これも昔物語になってしまった。
 この今庄そばのおいしさを多くの人たちに知ってもらおうと、今庄町は直営の「今庄・そば道場」を開き、そば打ちの手ほどきをしている。予約すれば6食分の材料費を含めて2000円で、おばちゃんたちが懇切丁寧に教えてくれる。

今庄そば道場

(写真は 今庄そば道場)


 
板取宿  放送 6月16日(水)
 福井、滋賀県境の交通の要衝・栃ノ木峠は、すでに鎌倉時代に木ノ芽峠越えと並ぶ街道として存在していたことが、源平盛衰記に記されている。柴田勝家が戦国時代末の天正10年(1582)北ノ庄城を築いた時、主君・織田信長の安土城へ参勤する近道として、道幅を5mほどに広げる大改修を行った。以来、福井側山麓の板取宿は北国街道の入口として栄えてきた。
 琵琶湖の西岸を経て京都に入る木ノ芽峠越えの西近江路の北陸道に対し、湖東を経て京都、大坂や東海道へ通じる栃ノ木峠越えの東近江路を北国街道と呼んだ。江戸時代に入って参勤交代など江戸への往来が多くなるにつれて、東海道や中山道と接続する栃ノ木峠越えの旅人が増え、近世の幹線路となった。
板取宿

(写真は 板取宿)

妻入り兜造り民家

 江戸時代にはいり福井藩主・結城秀康は板取宿に番所を設け、役人3人、足軽1人を常駐させ、旅人を取り締まった。上板取、下板取合わせて戸数53戸、旅籠(はたご)7軒、茶屋3軒、人馬継ぎ立て問屋3軒があり、参勤交代の殿様が一服する場所ともなっていた。
 板取宿には江戸時代後期から明治時代中期にかけて建てられた家が10戸ほど残っていたが、今は4戸だけになった。この宿場町の町並みを形成していた家々は「妻入り兜(かぶと)造り型民家」と言う、珍しい建て方の建物である。街道に面した屋根の裾を切り上げ2階部分の採光、通風を良くし、積雪の際には2階からの出入りに好都合な造り。正面から見ると兜の形に見え、街道に面した部分の美観を兼ねた工夫でもあった。

(写真は 妻入り兜造り型民家)

 昭和38年(1963)の「三八豪雪」の時には、4〜5mもの雪が積もり交通は途絶してしまった。その後、過疎化が進み今では全戸が、今庄町の中心部や福井県内各地に移住し無住地区となってしまった。
 上板取から6kmほど登った栃ノ木峠付近一帯は、トチの木が群生している。福井県の天然記念物に指定されている樹齢500年、樹高25m、幹周り7mのトチの巨木が大きな枝を伸ばしており、越前と近江の国境の巨木として旅人の目安となっていた。
 板取宿の手前の国道365号沿いに、大自然を満喫しながら温泉が楽しめる町営の「今庄365温泉・やすらぎ」があり、雄大な白山が一望できる露天風呂が人気。近くにはスキー場もあり、町は大自然の中の行楽を楽しんでもらおうと力を入れている。

今庄365温泉やすらぎ

(写真は 今庄365・温泉やすらぎ)


 
夜叉ヶ池  放送 6月17日(木)
 夜叉ヶ池は今庄町最南端の福井、滋賀、岐阜の県境にある三国岳(1209m)と三周ヶ岳(1292m)の中間の標高1099mの尾根筋にある。
 麓の登山口から夜叉ヶ池までは約2時間のハイキングコース。急峻な山道だが、その途中には清流がほとばしるように流れ落ちる夜叉滝や四季の花々が目を楽しませ元気づけてくれる。こうした道すがらの自然を楽しみながら登れば、いつしか夜叉ヶ池にたどり着く。夜叉ヶ池からさらに三国岳、三周ヶ岳への登山を試みるなり、周辺の高山植物などを楽しむこともできる。
夜叉滝

(写真は 夜叉滝)

ハイキングコース

 急な登山道を登り、やっとの思いでたどり着いた夜叉ヶ池。周囲がブナの原生林で覆われ、碧潭(へきたん)の水をたたえた池を眼前にすると、その美しさはもとより、夜叉ヶ池に漂う深山の池の神秘性に人びとは息を呑んでしまう。
 標高1099mの高い位置にある夜叉ヶ池は、風化や浸食作用によってできた谷が多量の土砂でせき止められ、固いチャート層の岩盤上に水が蓄えられてできたと見られている。広さは3600平方m、周囲23m、最も深いところは7〜8mある。今庄町を北へ流れる日野川は、この夜叉池に源を発しており、昔から雨乞いの池として近郷の人びとの信仰を集めていた。

(写真は ハイキングコース)

 夜叉ヶ池が信仰の対象となっていたので、池の周辺は自然や植物、動物、魚、鳥、昆虫、両棲類などの宝庫であり、これらの研究者にとっては垂涎(すいえん)の地とも言える。
 植物は北方系植物の西限と言えるタテヤマリンドウなどや高山性、亜高山性植物、積雪寒冷地性植物など、いろいろな植物が豊富に自生している。樹木もブナやナラなどが多く、アケビやクリ、ワラビ、ゼンマイ、タラの芽など、山菜、木の実などもたくさんある。野鳥も四季を通じて多くの種類が生息し、さえずりの声を聴くことができる。池には魚類はいないが、ゲンゴロウやモリアオガエル、ヤマアカガエル、イモリが生息している。数え上げればきりがないほど動植物の種類が豊富なのは、夜叉ヶ池周辺の自然環境が汚染されていないことを証明している。

イモリ

(写真は イモリ)


 
夜叉ヶ池の龍神伝説  放送 6月18日(金)
 神秘的なムードを漂わせる夜叉ヶ池は、多くの人びとを幻想ロマンの世界に誘ってきたことだろう。泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」もそのような雰囲気の作品で、池のほとりに文学碑が立っている。
 夜叉ヶ池は近在の人びとから雨乞いの池として信仰され、池のほとりには雨乞い神事をした夜叉龍神神社がある。雨を降らせる龍神が棲むと伝えられる夜叉ヶ池に、いつのころからか龍神伝説が語り継がれるようになった。この龍神伝説は福井、滋賀、岐阜3県にそれぞれ語り継がれており、話の内容も微妙に異なっているが、干ばつに悩む農民が娘を人身御供にしても雨を願ったことでは一致している。
泉鏡花文学碑

(写真は 泉鏡花文学碑)

夜叉龍神社

 最も一般的な夜叉ヶ池龍神伝説は次のようなものだ。昔、干ばつに苦しんだ豪農が、池の主の大蛇に「田に水を入れてくれるなら私の娘を嫁にあげよう」と頼んだ。
翌日、田を見に行ったところ田に水がはいっており、稲は活気を取り戻していた。娘に事情を話したところ長女と次女は恐れて家を逃げ出し、末娘が父の命とあらば仕方がないと大蛇のもとへ嫁いだ。
 娘はやがて大蛇となって池に棲み、必ず雨を降らせるようになり、この地の農家は干ばつに悩まされることがなくなった。

(写真は 夜叉龍神社)

 この伝説にはまだ続きがある。後日、娘の実家が火事になった。池の雄大蛇が娘の家を七巻にして火を消した。その時、雄大蛇は「水を一杯くれ」と頼んだが、村人たちは恐れて水を与えなかったので、雄大蛇は死んでしまった。雄大蛇が焼死したため、雌大蛇は仕方なく夜叉ヶ池に移り棲んだ。ところが夜叉ヶ池には以前から棲んでいた雌大蛇がいた。嫉妬深いこの雌大蛇と相争うようになり、困り果てた夜叉ヶ池の雄大蛇は、道路に蛇体を横たえ勇気ある者を待った。
 加賀藩の武士がこの蛇体を平気でまたいで通ったので、この武士の勇気を見込んで以前から棲んでいる雌大蛇の退治を依頼した。この武士によって嫉妬深い雌蛇は退治され、豪農の娘の大蛇は夜叉ヶ池に残り、龍神となったと言う。

夜叉ヶ池

(写真は 夜叉ヶ池)


◇あ    し◇
今庄宿JR北陸線今庄駅下車。 
今庄・そば道場JR北陸線今庄駅からバスで大門下車徒歩3分。 
今庄365温泉・やすらぎJR北陸線今庄駅からバスでやすらぎ温泉下車。 
板取宿JR北陸線今庄駅から
バスでやすらぎ温泉下車徒歩30分。
栃ノ木峠JR北陸線今庄駅から
バスでやすらぎ温泉下車徒歩1時間。
夜叉ヶ池JR北陸線今庄駅からタクシーで登山口まで行き
徒歩2時間。
バス利用は長時間の徒歩が必要で一般客は無理。
◇問い合わせ先◇
今庄町役場商工観光課0778−45−1111 
今庄町観光協会0778−45−0074 
今庄 そばの里0778−45−0774
そば道場0778−45−1385 
今庄365温泉・やすらぎ0778−45−1113 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会