月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・清水 

 京都の観光スポットで人気が高く、参詣者の絶えることのないのが清水寺と清水の舞台。清水寺の参道とも言える五条坂には清水焼の店が軒を連ね、この一帯は京焼のひとつ清水焼の窯元が多く、戦前までは登り窯の煙突からから真っ黒な煙を吐き出していた。今回は東山の名刹のひとつ清水寺と清水焼の陶芸の一端をのぞいてみた。


 
音羽山の名刹  放送 8月23日(月)
 「清水の舞台」で有名な音羽山(おとわさん)清水寺は、京都を訪れた観光客なら参拝しない人はいないと言われる観光スポット。北法相宗の大本山で西国三十三カ所第十六番札所でもある観音霊場。寺の開創には諸説がある。寺伝には宝亀9年(778)大和国・小島寺(現高取町)の僧・延鎮(えんちん)上人が「木津川の北流に清泉を求めてゆけ」との夢のお告げで、音羽の滝のほとりにたどり着いたところ、草庵で修行中の僧・行叡(ぎょうえい)から霊木を授けられ、千手観音像を彫り祀ったのが起こりとある。
 その2年後、坂上田村麻呂が、妻の安産を願い鹿を求めて音羽山へ来たが、延鎮から殺生を戒められたのを機に観音に帰依、自宅に十一面観音像を安置し、後に清水寺本堂を建立したとの伝えもある。

清水寺屏風

(写真は 清水寺屏風)

二十八部象

 本尊で秘仏の十一面千手観音像(国・重文)は、42本ある手のうち最上部の両手を頭上に合わせて、化仏(けぶつ)の小如来像を戴く独特の「清水型観音」。脇侍に毘沙門天像、地蔵菩薩像、その両脇に眷族(けんぞく)の二十八部衆像が居並んで本尊を守っている。
 本尊を安置している本堂(国宝)は、宗派間の争いや災害などで再三にわたって焼失、破壊を繰り返した。現在の本堂は江戸時代初期の寛永10年(1633)徳川3代将軍・家光の援助で再建された。本堂南側の「清水の舞台(国宝)」は、数十メートルの断崖に139本の太い柱を立て、その上に張り出した壮大な舞台造りので、舞台からの眺望が参拝者の人気の的となっている。

(写真は 二十八部象)

 音羽山の山中から湧き出る清水が三筋の滝となって落ちている音羽の滝は、創建以来絶えることのない清水で日本十大名水のひとつにあげられ、清水寺の寺名もここから起こったと言われている。観音霊場としての御詠歌にも「まつかぜや おとわのたきの きよみずを むすぶこころは すずしかるらん」と詠まれている。
 音羽山の中腹に広大な境内を持つ清水寺は、京都市中でありながら深山幽谷の趣が濃い。
特に舞台から眺める秋の紅葉は素晴らしく「錦雲渓(きんうんけい)」の名に恥じないものである。また、四季を通じ春の桜、初夏の緑、秋の紅葉、冬の雪景色を参拝者に楽しませてくれ、京都市内はもとより遠く大阪まで望める「清水の舞台」の眺望が自慢である。

音羽の滝

(写真は 音羽の滝)


 
陶器の神  放送 8月24日(火)
 清水焼の窯元や陶磁器店が多い五条坂の一角に清水焼発祥の地の碑が立つ若宮八幡宮は、天喜元年(1053)後冷泉天皇の勅願で六条左女牛井(醒ケ井)に創建された。この創建には八幡太郎・源義家の父・頼義が当たったため源氏の崇敬をうけ、足利尊氏をはじめ室町幕府の歴代将軍の崇敬も受けていた。天正11年(1583)豊臣秀吉によって東山・方広寺の北に移され、さらに慶長10年(1605)さらに北の現在地に遷座した。
 応神、仲哀、神功皇后の三帝を祭神としているが、陶器の町の中心に位置するため、昭和24年(1949)に陶祖神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を合祀、陶器神社ともなった。

若宮八幡宮

(写真は 若宮八幡宮)

足利義持参拝絵巻

 椎根津彦命は神武天皇の臣下。天皇の東征の際に大和の賊を平定するには、天香久山の土で祭祀土器を造り祈願せよとの夢のお告げがあった。椎根津彦命は「天香久山の土を取ってくるように」と神武天皇から命じられ、敵中を通り抜けこの土を持って帰り祭祀土器を作らせたことから陶祖神とされた。
 五條坂の清水焼業者らは境内に、京焼の開祖として仁清(にんせい)、乾山(けんざん)、木米(もくべい)の三名工を祀る祠を建立した。この三名工を祀ることによって、名実ともに陶器の神社として信仰を集めるようになった。近くには伝統工芸品の清水焼の展示、即売をしている京都陶磁器会館もある。

(写真は 足利義持参拝絵巻)

 清水焼の守護神的な存在となった陶器神社の祭として、毎年8月7日から10日まで催される陶器祭と陶器市は、大勢の人でにぎわう京都の夏の名物となっている。
境内には陶器で造った御輿(みこし)や陶器人形の造り物が飾られたり、陶芸業者から贈られた陶磁器工芸品が展示される。
 この陶器祭に合わせて開かれる陶器市には、京都市内はもとより阪神方面や奈良、和歌山、滋賀県方面からも陶器を求める人でにぎわう。五条坂一帯の陶器店も年に一度の蔵ざらえを兼ね、日ごろひいきにしてもらっている顧客に、感謝の気持ちを込めた安売りのセールを行う。

陶祖神社

(写真は 陶祖神社)


 
登り窯の残像  放送 8月25日(水)
 京焼の本場は清水寺から南の東福寺にいたる東山山麓の五条坂を本拠として蛇ケ谷、泉涌寺付近一帯に窯が並んでいた。清水焼の窯元が多い五条坂付近の傾斜地は登り窯に最適で、この付近に数多くの窯が築かれ焼物が盛んになった。さらに清水寺への参詣者相手に陶磁器を売る店が並び、清水焼の一大生産地、販売地へと発展していった。
 五条坂付近では戦前まで、窯元の煙突から黒々とした煙があがっていた。戦後になって市街化が進み、大気を汚染する煙害が問題となり、煙を出さない電気窯、ガス窯に転換され登り窯は姿を消していった。

登り窯

(写真は 登り窯)

B-29迎撃用燃料装置

 清水焼の一大生産地の五条坂でほとんど見ることができなくなった登り窯が、藤平陶芸に残っている。五条坂最大の堂々たる登り窯を保存し、藤平陶芸の店を訪れた人たちに見学してもらっている。この登り窯の近くで焼物に施した上絵を焼き付ける仕上げ用窯の錦薪窯も見つかった。この錦薪窯は大正時代末から昭和時代初めのもので、窯の変遷がわかる貴重な存在とされ、登り窯と同様に展示している。
 藤平陶芸は、大正5年(1916)初代当主が馬町に陶器所を創業、昭和にはいって五条坂に店舗を構えた。藤平では清水焼を多くに人に知ってもらおうと、陶芸の体験教室を開き土に親しむ場を提供している。

(写真は B-29迎撃用燃料装置)

 雅な焼物を追求していた清水焼の業界にも第2次世界大戦の重苦しい空気が押し寄せてきた。資材不足から鉄製品の供出が強要され、寺院の梵鐘、大阪の通天閣まで供出させられていた時、金属の代用品として陶製手榴弾の製造が命じられた。この陶製手榴弾は敗戦後に処分されたが、このほど藤平陶芸で所蔵品を整理していたところ、256個の陶製手榴弾が見つかった。藤平陶芸では戦争の苦しみを多くの人に知ってもらおうと、8月13日から約1ヵ月間、併設の「ギャリー・カフェ・ふじひら」で、この陶製手榴弾の展示会を開いている。
 こうした苦境の時代を乗り越え、平和な時代になった清水焼の産地・五条坂の陶工たちは、陶祖と言われる仁清(にんせい)、乾山(けんざん)、木米(もくべい)の作品に学びながら、新しい作品に挑戦している。

手榴弾

(写真は 手榴弾)


 
河井寛次郎の世界  放送 8月26日(木)
 東山五条坂の河井寛次郎記念館は、昭和12年(1937)陶芸家・河井寛次郎(1890〜1966)自らが設計、家具や調度品をデザインして建てた住居兼仕事場で、登り窯とともにそのままの姿で美術館として一般公開している。
 寛次郎は島根県安来町(現安来市)の大工の棟梁の子として生まれた。建築業の家に生まれ育った寛次郎にとって自宅の全面改築は、重要な出来事であったようだ。この時、大工の棟梁だった父はすでに亡くなっており、実兄が棟梁となっていた。実兄の息のかかった大工一行を安来から呼び寄せ、住み込みの形で半年間、京都に引き止め、自分の思い通りの家を建てると言うほどの思い入れようだった。

河井寛治郎記念館外観

(写真は 河井寛治郎記念館外観)

河井寛治郎記念館内部

 この記念館には陶器だけにとどまらず、木彫、デザイン、書、文章にいたる寛次郎の多彩な作品はもとより、京都の市中とは思えない田舎の懐かしさにあふれた建築、家具から寛次郎の生前の暮らしぶりや、その生活空間が見られるのが大きな魅力となっている。
 この家の中心となっているのが、1階の囲炉裏のある板の間である。この空間は表通りへも、中庭へも、2階へもつながっており、接客の場であり、作品の展示場でもあった。囲炉裏の存在は自宅を京都の町家ではなく、農村の家をイメージした象徴とも言える。この板の間にある椅子は、餅つきの木臼の縁の一部を取り除いて椅子にしたもので、底には移動しやすいように木製のキャスターがついている。寛次郎の遊び心がここに現れている。

(写真は 河井寛治郎記念館内部)

 この建物のもうひとつの大きな特徴は、2階へ通じる吹き抜けの空間である。そして吹き抜けの中央に設けられた滑車の存在がユニーク。この滑車は建築時に資材の運び入れに用いたものをそのまま残し、その後も滑車を使って2階への重量物の搬入をしていたようだ。
 囲炉裏のある部屋には屋根のついた家具がある。神棚が設けられており、謎を含んだ家具と言える。家族の団らんの場である部屋には、畳1畳大の掘りこたつと同じ大きさのテーブルがある。ここは家族や書生たちの食事の場であり、来客の折りにはここで寛次郎と語り合ったのであろう。友人から贈られた箱階段や振り子時計も違和感なく収まっており、時計は今も「コチ、コチ」と時を刻んでいる。

真鍮煙管

(写真は 真鍮煙管)


 
河井寛次郎・土と炎の詩人  放送 8月27日(金)
 陶芸家・河井寛次郎(1890〜1966)は、島根県安来町(現安来市)の大工の棟梁の子として生まれ、松江中学時代に陶工になることを決意、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に進み、卒業後、京都市立陶磁器試験場に入り、陶磁器の研究と制作に取り組んだ。
 大正9年(1920)30歳の時、五条坂鐘鋳町に自宅を持ち、5代目・清水六兵衛の登り窯を譲り受け「鐘渓(しょうけい)窯」と名づけ、本格的に陶芸家として制作に取り組むようになった。寛次郎は生涯、この鐘渓窯に大満足を覚え「この窯があったから五条坂を離れられなかった」と言うほどだった。

鐘渓窯

(写真は 鐘渓窯)

見本陶片

 念願の窯を持った寛次郎の作風は、初期は中国、朝鮮の古陶器を範とする繊細、華麗な作風を示した。これらの作品を中心に大正10年(1921)に東京と大阪の高島屋百貨店で個展の「第1回創作陶磁展」を開き絶賛を浴びた。
 中期は日常的な用途を明快に示した「用の美」に重きを置き、簡素でたくましい生活陶の世界をその作風に展開した。後期は「造形」にその主眼を置いた。丸いものしか造れない円運動のロクロから抜け出し、石膏の型に粘土を張りつけて形を造る方法を取り入れた。この手法によって角張ったもの、左右非対称のもなど、自由に形を創造することができ、陶硯や面、手などが制作できた。この三つの領域は、それぞれひとりずつの作家が取り組んでもおかしくないほどコンセプトの異なるものであった。

(写真は 見本陶片)

 大正13年(1924)思想家・柳宗悦と出会ったことが寛次郎にとって大きな転機となる。初め柳は寛次郎の作風を「模倣に過ぎない」と手厳しく批判、これに対し寛次郎は雑誌で反論するなどペンでやりあった間柄だった。この柳と東京高等工業学校(現東京工業大学)時代に知り合い、生涯の友として共に作陶の道を歩んだ後輩の浜田庄司の3人で「民芸運動」を提唱した。
 この民芸運動は、美術的に評価をされなかった職人たちが作る実用品の中にこそ、健全な美が宿っており、日常の暮らしの中に美があふれ、息づいていると唱える運動だった。東京に日本民芸館を設立したり、同人誌「民芸」を発刊するなどの運動を展開した。この民芸運動が寛次郎の作風に変化を与え、温かく素朴な器を作るようになった。

木彫像

(写真は 木彫像)


◇あ    し◇
清水寺京都市バス清水道又は五条坂下車徒歩15分。 
京阪電鉄五条駅下車徒歩25分。
若宮八幡宮・陶器神社、藤平陶芸本社京都市バス五条坂下車3分。
京阪電鉄五条駅下車徒歩10分。
河井寛次郎記念館京都市バス馬町下車3分。 
京阪電鉄五条駅下車徒歩10分。
◇問い合わせ先◇
清水寺075−551−1234 
若宮八幡宮・陶器神社075−561−1261 
藤平陶芸五条坂店075−561−3024 
藤平陶芸本社工房075−561−3979 
河井寛次郎記念館075−561−3585 

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