月〜金曜日 18時54分〜19時00分


奈良・JR桜井線沿いの史跡 

 桜井市から天理市にかけての東側山麓は、山辺の道としてハイカーたちの人気を集めている。この山辺の道の西側には、巨大な前方後円墳から陪塚と見られる円墳などが数多くある。この一帯は古代大和王朝があった所とされ、邪馬台国の女王・卑弥呼とのかかわりがあると見られる遺跡もあり、古代への夢をふくらませながら歩くことができる。


 
仏教伝来の地(桜井市)  放送 10月4日(月)
 JRと近鉄の桜井駅の北方を東西に流れる大和川(泊瀬川)畔の一帯は、古代大和朝廷の中心地であり、難波津からの舟運の終着地であった。またこのあたりは万葉人の散策の地でもあり、泊瀬川を詠んだ歌が万葉集に多くあり、川沿いや山辺の道などに歌碑が立っている。
 6世紀中ごろの欽明天皇13年(552)百済の聖明王が日本に献じた釈迦金銅仏像、経巻などが難波津からこの地に上陸したとされており、川べりに大きな「仏教伝来之地」の石碑が立っている。日本に伝来した仏教をめぐって、後に崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立、聖徳太子を巻き込んだ戦になり、崇仏派の馬子が勝利を収め、日本に仏教が広まった。

平等寺

(写真は 聖徳太子十歳尊像)

十一面観世音菩薩(秘仏)

 仏教伝来の地とされるこのありは、その当時、山辺の道、初瀬街道、飛鳥からの山田の道、磐余の道などの主要街道が交わる交通の要所で、古代の市としてにぎわった海石榴市(つばいち)があった。後には伊勢詣、長谷詣によって旅人の往来が盛んになり、宿場としても栄えた。
 ここから山辺の道を少し北にたどると、三輪山の麓に聖徳太子を開基とする古刹・平等寺がある。鎌倉時代に慶円上人が中興し、仏法の奥義を極める根本道場として、南都七大寺の僧たちも修行した。また修験道の霊地でもあり、江戸時代には大峰山に向かう修験者が、境内の不動の滝に打たれて修行した。今もそうした人たちの姿が見られる。

(写真は 平等寺)

 平等寺は大神神社の神宮寺として堂塔、塔頭が建ち並ぶ大寺として栄えたが、明治維新の排仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、伽藍はことごとく壊され仏像も各地に移された。
明治13年(1880)塔頭の一部を移し翠松寺として再興、本尊・十一面観世音菩薩像(秘仏)、三輪不動尊像、中興の祖・慶円上人像を安置し、宗派も曹洞宗に改宗した。
 昭和52年(1977)に創建当時の平等寺の寺号を復活、この間に信者らの浄財で本堂、鐘楼堂などの堂塔も復興され、秘仏の前立として本尊十一面観世音菩薩も造仏された。再建された朱塗りの本堂の屋根の上には金色の鴟尾が輝き、緑の連子窓、朱の柱、白壁が調和して美しい。

聖徳太子十歳尊像

(写真は 十一面観世音菩薩(秘仏))


 
古代王朝の息吹(桜井市)  放送 10月5日(火)
 天理市から桜井市にかけては日本最古級の巨大な古墳が集中している。このあたりを衾道(ふすまじ)とも言い、葬送の道を意味する。その中でも一番古いと言われる古墳がJR巻向駅南の箸墓古墳で、纏向(まきむく)型と呼ばれる前方後円墳の集まった纏向遺跡の中の古墳のひとつである。全長278mの前方後円墳で、後円部の直径157m、高さ23m、前方部の幅25m、高さ13mで周囲の濠が一部残っている。この古墳は、昼は人が造り、夜は神が造ったとの伝えがあり、石室の石材は二上山から運ばれたと言う。
 平成7年(1995)に箸墓古墳北側に隣接する箸中大池の堤の改修工事に伴い発掘調査が行われ、古墳築造期の土器が多数出土し、その土器の形式から箸墓古墳の築造は、3世紀末から4世紀初頭の西暦280〜300年と推定された。

箸墓古墳

(写真は 箸墓古墳)

〆柱(桧原神社)

 箸墓古墳は記紀伝承上の第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされるが、卑弥呼の墓だという説もある。だが、卑弥呼の死亡時期と箸墓古墳の築造時期が大きくずれており、考古学的にはその可能性は薄いと見られているが、いずれにしても謎を秘めた古墳である。
 日本書紀によると百襲姫は巫女であったと言われ、大神神社の祭神・大物主命の妻となった。夜だけ妻の所に来る妻問婚の形をとっており、姫が「姿を見せて欲しい」と頼んだところ大物主命は「翌朝、姫の櫛箱の中にいる」と約束した。姫が櫛箱を開けたところ1匹の蛇が入っていた。姫は驚き悲鳴をあげ尻もちをついてしまった。この時、箸で陰部を突いてしまい、これが原因で死亡した。ここから姫の墓を箸墓と呼ぶようになったとある。

(写真は 〆柱(桧原神社))

 箸墓古墳から東へJR桜井線を越え、畑の間の坂を登って行くと桧原神社に突き当たる。桧原神社は皇居に祀っていた皇祖神・天照大神を崇神天皇の時にこの地・倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)に移して祀り、崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が斎宮として仕えた。垂仁天皇の時代に天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の鎮座地を求めて各地を巡行し、伊勢国の五十鈴川のほとりに祭ったのが現在の伊勢神宮で、桧原神社を「元伊勢」と地元の人たちは呼んで崇敬している。
 桧原神社には拝殿も本殿もなく、三ツ鳥居越しにご神体の三輪山の磐座(いわくら)を参拝する形式は、大神神社と同じある。境内から大和盆地が一望でき、二上山の方へ沈む夕日の眺めは絶景である。

三輪鳥居(桧原神社)

(写真は 三輪鳥居(桧原神社))


 
大王たちの眠る丘(天理市)  放送 10月6日(水)
 天理市の南部の柳本町、渋谷町の山辺の道周辺は、柳本古墳群と呼ばれ数多くの古墳が点在している。そのひとつ景行天皇陵は、渋谷向山古墳とか山辺道上陵とも呼ばれる全長約300m、後円部幅約168m、前方部幅約170mの全国最大規模の前方後円墳のひとつで、丘陵の先端を利用して3段に構築されている。付近には陪塚と見られる上山、松明山、丸山と呼ばれる古墳もある。
 第12代景行天皇の皇子の日本武尊は、記紀に記載されている多くの説話で有名。日本武尊は東征の折、このあたりの地をしのんで「大和は 国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる 大和しうるはし」と歌っており、この地が素晴らしい所であったことをこの歌に込めている。

景行天皇陵

(写真は 景行天皇陵)

崇神天王陵

 同じく柳本古墳群のひとつで、景行天皇陵の1kmほど北にあるのが景行天皇の祖父にあたり、大和朝廷の最初の王とも言われる崇神天皇陵。行燈山(あんどん)古墳、山辺道勾岡上陵とも呼ばれ、江戸時代まではこの御陵が景行天皇陵とされていた。
 4世紀前半に丘陵の先端を利用して築造した全長約242m、後円部直径約158m、高さ約23m、前方部幅約102m、高さ約15mで、周囲に濠をめぐらした堂々たる前方後円墳は、その強大な権力を思わせる。天皇陵としては最も古いもので、古墳の周囲の濠は静かに水をたたえ、堤には松並木が続いている。江戸時代末期に柳本藩が灌漑用水確保のため、堤を高くするなど改修の手を加えており、築造当初の姿とは異なっている。

(写真は 崇神天王陵)

 崇神天皇陵の前方にある陪塚の天神山古墳の発掘調査で鉄剣、鉄鏃(てつやじり)、鉄鎌などの副葬品のほか、当時としては貴重な水銀朱41kgや23面の鏡が出土した。
 崇神天皇陵の向かいにある伊射奈岐(いざなぎ)神社は、社伝によると崇神天皇が祖神である伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を祀ったのが始まり。菅原道真が合祀されており柳本天神とも呼ばれている。境内には各地の天満宮にある牛の像があり、石灯籠にも天満宮の文字が見える。崇神天皇陵の南側にあったと推定される伊射奈岐神社をここへ合祀して、名も天満宮から伊射奈岐神社と改めたと見られている。小さな拝殿と本殿が建つ神社だが、参道両脇には老樹が生い茂り古社のたたずまいを見せている。

伊射奈岐神社

(写真は 伊射奈岐神社)


 
黒塚古墳(天理市)  放送 10月7日(木)
 JR柳本駅から東へ、住宅と商店の並ぶ道を5分ほど歩くと、左手に池を隔てて黒塚古墳が姿を現す。全長約130m、後円部直径約72m、前方部幅約60m、後円部高さ約11m、前方部高さ約6mの黒塚古墳は、古墳時代前期の3世紀後半から4世紀の築造と推定されている。
 大和古墳群学術調査委員会(奈良県教委文化財保存課、奈良県立橿原考古学研究所、天理市教委)が、平成9年(1997)から2年間かけて行った発掘調査で、後円部に長大な竪穴式石室の存在が明らかになった。33面の三角縁神獣鏡と多数の副葬品が出土したことで、大きな話題となったのは記憶に新しいところ。

黒塚古墳

(写真は 黒塚古墳)

三角縁神人竜虎画像鏡(複製)

 発掘調査の結果で最も注目を集めたのが、大量に出土した三角縁神獣鏡だった。三角縁神獣鏡は鏡の背面に神獣を配し、縁を山形に鋭く尖る形にしたものを言う。黒塚古墳から出土した三角縁神獣鏡は直径の平均が22cm、重さは平均1kg。最大のものは直径24.7cm、最小のものは直径20cmで、33面とも完全な形を保っている。1面は棺内にあったと見られ、残り32面は棺外に置かれ鏡面を木棺側に向けていた。
 出土した三角縁神獣鏡は初期の大和政権の存在や邪馬台国や卑弥呼の存在と関係があるとされず、謎の多い邪馬台国論争を活発なものにし、古代へのロマンをかき立てている。黒塚古墳のかたわらに天理市立黒塚古墳展示館があり、大和の古墳全般の解説や復元された黒塚古墳石室、三角縁神獣鏡のレプリカが展示されている。

(写真は 三角縁神人竜虎画像鏡(複製))

 黒塚古墳は中世に後円部の墳丘に城郭が築かれたため、墳丘面が著しく損傷しており、築造当時の墳丘面の確認はできない。石室は墳丘主軸に直角に交わる形で南北に設けられ、長さ約8.3m、幅は最も広いところで1.3m、高さ1.7m。石室壁面は下部が人頭大の川原石を用い、上部は板石を積み上げて天井部をふさぐ合掌式となったいた。
 壁面下部には紅殻が塗られ、床面には木棺を置く台の粘土棺床があったが、木棺は消滅していた。粘土棺床の大きさ、形状から長さ約6.2m、直径約1mの割竹形木棺であったと見られる。石室内から出土した遺物は、木棺内に納められていた棺内遺物と木棺と壁面の間に納められていた棺外遺物に大別できる。

竪穴式石室(復元)

(写真は 竪穴式石室(復元))


 
大和の地主神(天理市)  放送 10月8日(金)
 JR長柄駅の東南、静かに広がる稲田の中に見えるこんもりとした森に鎮座するのが大和(おおやまと)神社。主祭神の日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)は、日本全土の地主神であり、ほかに二神が祀られており社殿は3つある。
 日本大国魂大神は崇神天皇の時代までは天照大神と共に宮中に祀られていたが、神威を畏れて天照大神を桧原神社に移して祀ったと同じように、日本大国魂大神もこの近くの市磯邑(いちしのむら)に移して祀られた。こうした歴史から日本大国魂大神を祀るこの神社の神威は、伊勢神宮に次ぐものであると言う。

大和神社

(写真は 大和神社)

祖霊社

 一の鳥居から老樹が生い茂る約200mの玉砂利の参道、その先の社殿はそうした古社の由緒を感じさせる。社殿は平安時代末期の火災と戦国時代の兵火によってことごとく焼失し、現在の社殿は明治初めに再興されたものである。
 飛鳥・奈良時代に唐へ派遣された遣唐使たちは出発に際し、大和神社に航海の安全を祈願した。無事任務を果たして帰国したことを歌った山上憶良の「好去好来の歌」が万葉集にある。
藤原宮造営にあたって持統天皇は勅使を遣わして宮廷の無事造営を祈願したと言われている。第2次世界大戦の時には、わが国最大の戦艦・大和にもこの神社の分霊が祀られ、戦艦・大和と運命を共にした戦死者の英霊が、境内にある末社・祖霊社に祀られている。

(写真は 祖霊社)

 大和神社の最大の例祭は、毎年4月1日に行われる豊作祈願の「チャンチャン祭」。御神体を乗せた御輿(みこし)が、約1km離れた中山町の大塚山の御旅所へ渡御する行列が「チャン、チャン」と鉦(かね)を鳴らして進むところから「チャンチャン祭」と呼ばれるようになった。
 ご神体が渡御した旅所では、村々から氏子たちが持ち寄ったお供え物が供えられ、龍頭を持って舞う「龍の口」と言う舞を奉納して豊作を祈願、夕方、御神体は神社に帰る。大和では「祭り始めはチャンチャン祭、祭りおさめはおん祭」と言われ、大和で一番早く行われるのが大和神社のチャンチャン祭、一番遅く行われるのが春日大社の春日若宮おん祭とされている。

御旅所坐神社

(写真は 御旅所坐神社)


◇あ    し◇
仏教伝来之地の碑JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅下車徒歩30分。 
平等寺JR桜井線三輪駅下車徒歩10分。 
箸墓古墳JR桜井線巻向駅下車徒歩15分。 
JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅からバスで
箸中下車徒歩7分。
桧原神社JR桜井線三輪駅下車徒歩30分。 
JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅からバスで
箸中下車徒歩20分。
崇神天皇陵JR桜井線柳本駅下車徒歩12分。 
JR桜井線、近鉄天理線天理駅からバスで
柳本下車徒歩3分。
景行天皇陵JR桜井線巻向駅下車徒歩15分。 
JR桜井線、近鉄大阪線桜井駅からバスで
渋谷下車徒歩7分。
黒塚古墳、天理市立黒塚古墳展示館JR桜井線柳本駅下車徒歩5分。
JR桜井線、近鉄天理線天理駅からバスで
柳本下車徒歩5分。
大和神社JR桜井線長柄駅下車徒歩8分。 
◇問い合わせ先◇
桜井市役所観光課、桜井市観光協会0744−42−9111
天理市役所商工観光課0743−63−1001 
平等寺0744−42−6033 
桧原神社(大神神社が窓口)0744−42−6633 
伊射奈岐神社0743−66−2254 
天理市立黒塚古墳展示館0743−67−3210 
大和神社0743−66−0044 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

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歴史街道推進協議会