月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・丸太町通 

 京都御所の南、二条城の北にあたる京都市の中心部を、東山から嵯峨まで東西に走る全長約8.5kmの丸太町通には、京都御所、二条城を別格に、歴史を刻んだ神社仏閣や建造物、商店などが沿道に並んでいる。今回はこの丸太町通を東から西にたどって見た。
 


 
泉屋博古館  放送 10月11日(月)
 丸太町通の東端、鹿ヶ谷通に面した泉屋博古館(せんおくはくこかん)は、春翠(しゅんすい)と号した住友家第15代当主・住友吉左衛門(1864〜1926)の別荘の敷地の一角を占める美術館で、住友家が蒐集した数多くの名品を収蔵、展示している。
 住友家に伝わる美術品と言えば、春翠がが蒐集した中国古代の青銅器、鏡鑑が有名で、青銅器は中国国外でのコレクションとしては質、量ともに充実したものとして高く評価されている。蒐集された青銅器の中で最も有名なのが、中国古代王朝時代の殷、周の古銅器で、多彩な形、怪異な文様の酒器、食器、楽器などである。その中でも紀元前14世紀〜紀元前11世紀の殷時代後期の作と見られる"き神鼓"や紀元前11世紀〜紀元前10世紀の西周時代の作と推定される"虎ゆう"は、世界的な名品として知られている。

き神鼓(前14〜前11世紀)

(写真は き神鼓(前14〜前11世紀))

虎ゆう(前11〜前10世紀)

 き神鼓は太鼓の両面に鰐皮を張り、鋲留めした形を鋳造した太鼓。胴の両面に両手をあげ、足をふんばった人面文様が施されているのが特徴で、羊角、虎耳、獣爪、羽毛を持っており、当時の鬼神のひとつと考えられる。青銅太鼓の例は中国でも珍しく、湖北省崇陽で1点が出土しているのみである。虎ゆうは虎が後足と尻尾で立ち上がり、前足で人を抱える様子を表した器。
 殷、周時代の青銅器は日常の道具ではなく、祖先の霊を祀った宗廟に置く器などの祭器であった。それを物語るように二つの青銅器とも、曲がった角や大きく飛び出した目を持った怪獣面文様の饕餮文(とうてつもん)が施されている。

(写真は 虎ゆう(前11〜前10世紀))

 鏡鑑は中国、朝鮮、日本で製作されたもので、中国鏡は春秋、戦国時代から宋時代までの約1500年にわたる作品をほぼ網羅している。また古墳時代に日本に伝来した中国鏡、その影響を受けて日本で製作された三角縁神獣鏡など、広範囲に蒐集された鏡からその変遷を知ることができる。
 泉屋博古館はこれら青銅器、鏡鑑のほかに書画、仏教美術品、茶道具、能面、能装束、近代絵画、近代陶芸品など約3000点を収蔵している。常設の青銅器、鏡鑑とあわせて、これらの収蔵品を企画展として順次公開しており、これら個性的で素晴らしい蒐集品には、15代住友吉左衛門の鋭い審美眼とその財力を、文化や美術の振興に傾注した意気込みがうかがえる。

泉屋博古館

(写真は 泉屋博古館)


 
岡崎神社  放送 10月12日(火)
 岡崎神社は延暦13年(794)桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都した際、王城鎮護の勅願によって京の四方に建立した社のひとつで、この地が都の東に当たるところから東天王と称され、これが現在の町名にもなり、神社は岡崎一帯の産土神として地元の人たちの崇敬を集めている。
 貞観11年(869)清和天皇の勅命により、社殿を造営し、疫病除けの神として信仰されていた播磨国広峰(現姫路市)に祀られていた素戔嗚尊(すさのおのみこと)とされている牛頭天王を勧請して祀り、悪疫の流行が治まることを祈願したことに始まる。

東天王岡崎神社

(写真は 東天王岡崎神社)

素盞鳴尊

 祭神は素戔嗚尊と奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)。素戔嗚尊は記紀神話で国造りの神として知られる伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の子で、天照大神の弟神。奇稲田姫命は素戔嗚尊が出雲国の簸川(ひのかわ)で、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して奇稲田姫を救い、結ばれたと記紀神話に記されており、厄除け、縁結びの御神徳があるとされている。
 八岐大蛇を退治した時、その尾を割いて天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を取り出し、天照大神に献上した。日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、この剣で草を薙ぎ払ったところから草薙剣(くさなぎのつるぎ)と称され、熱田神宮に祀られていたが、平氏滅亡の折に壇之浦に没したとされている。

(写真は 素盞鳴尊)

 岡崎神社境内をはじめこのあたり一帯は、かつて氏神様の使いとされる野ウサギの生息地だった。境内の黒御影の子授けウサギ像に水をかけ、ウサギのお腹をさすって祈願すると子宝に恵まれると言われ、多くの女性の信仰を集めている。狛犬の台座や灯籠、斎館の欄間にもウサギが彫り込まれたり、ウサギのお守りや絵馬、置物などが売られており、岡崎神社のマスコット的存在でもある。高倉天皇の中宮がお産の時、岡崎神社に安産を祈願したことから安産の神として信仰を集め、妊婦の腹帯を持参して祈願する慣わしがある。
 境内の雨社は元は大文字山の石の祠(ほこら)に祀られていた雨乞の神として知られている。安目社とも呼ばれ目の病気平癒にもご利益があるとか。

子授け厄除けうさぎ像

(写真は 子授け厄除けうさぎ像)


 
鴨川畔の洋館  放送 10月13日(水)
 丸太町通の名称は、材木商の同業者町である丸太町に由来すると言われている。かつては堀川のあたりに筏で運んできて貯木してあった丸太の材木を荷揚げしていた。また鴨川に架かる橋を架け替える時に、周辺の人びとが丸太を寄進したところから丸太町の名が興り、橋の名も丸太町橋となったとの伝えもある。
 この丸太町通があわただしくなり、脚光を浴びたのが幕末の元治元年(1864)の蛤御門の変の時。丸太町通の西にあった徳川幕府中枢の二条城や京都所司代の下屋敷といった官庁街と京都御所をつないだのが丸太町通だった。さらに丸太町通東端の金戒光明寺には、京都守護職として入洛した会津藩主・松平容保が本陣を構え、丸太町通の堺町御門付近で会津藩士と尊王攘夷派が対峙したこともあり、蛤御門の変へと発展した。
丸太町橋

(写真は 丸太町橋)

旧京都中央電話局上分局(大正13年)

 こうした歴史を見つめてきた丸太町通の鴨川に架かる丸太町橋の西詰にたたずむ洋館は、大正13年(1924)に営業を始めた旧京都中央電話局上分局の庁舎。この建物を設計したのは、東京中央郵便局や大阪中央郵便局など、優れた建物を数多く設計した当時の逓信省技師・吉田鉄郎。特に吉田技師の作風が表現主義から合理主義建築へ展開する過程を知ることができる建物のひとつであると建築専門家は言う。
 ほとんど装飾のない簡素な外壁と窓の外観、ドイツの民家を参考にした独特のカーブと勾配を持った日本瓦との取り合わせの屋根のデザインが見る人の目を奪い、そばを流れる鴨川とマッチした河岸景観を現出している。昭和59年(1984)に京都市登録有形文化財に指定され、現在は国の登録有形文化財に指定されている。

(写真は 旧京都中央電話局上分局(大正13年))

 旧京都中央電話局上分局は昭和34年(1959)に電話交換業務をやめて廃局となり、その後、電話の博物館として使用されいたが、現在は1階がシーフード・レストラン「カーニバルタイムズ」、2、3階はスポーツクラブとして使われている。
 シーフード・レストラン「カーニバルタイムズ」では、現在でもそれほど古さを感じさせないたたずまい、高い天井と言った現代ビルにはない独特の雰囲気をうまく利用したレトロ調なレストランにしている。料理はシーフードに京都ならではの食材をプラスするなどの工夫を凝らし、値段も手ごろなので若者から家族連れまで幅広い層に受け、なかなかの人気である。

タンジネスクラブコース(カーニバルタイムズ)

(写真は ダンジネスクラブコース(カーニバルタイムズ))


 
堺町御門  放送 10月14日(木)
 京都御所の南端は丸太町通に面し、堺町御門が開かれている。この御門に向かい合う形でかつては京都御所の御用達だった各種の店が、丸太町通に軒を並べている。
 京都に都が遷都した平安時代から続いているこれらの店も、明治維新で皇居が東京へ遷されてからはやや影が薄れた。しかし京都の伝統工芸であるそれぞれの業種で、長年培われてきた職人の技は現代に引き継がれ、脈々と続いている。

下御霊神社

(写真は 下御霊神社)

菱屋畳 佐竹商店

 堺町御門の前にある菱屋畳・佐竹商店は、江戸時代中期の宝暦2年(1752)の創業当時には、堺町御門内に店を構えていたと言う。菱屋の屋号は、平安時代以来、家格、位階、伝統に相応して、公家の装束、調度品につける有識文様の菱形に由来している。
 御所の儀式畳である有識畳や神社、料亭などの特殊な畳のほかに一般家庭用の畳も製作している。8代目の現当主が最も心に残っている大作は、京都御所で行われた大正天皇と昭和天皇の大嘗祭(だいじょうさい)の時に、皇居に仮設される古式の宮殿である大嘗宮(だいじょうきゅう)に納めた天皇の玉座だと言う。

(写真は 菱屋畳 佐竹商店)

 佐竹商店では日本の風土、気候にあった畳の良さを理解してもらい、近代建築にも畳を使ってもらおうと、1階に畳の種類や品質がわかる見本を並べたり、い草を使った小物などを置いている。
 同じく京都ならではの職種である朝廷や神社などで使う装束を作っている黒田装束店が、堺町御門の前に江戸時代から店を構えている。神社の神職たちが身につける狩衣や白衣、烏帽子、履き物、さらに巫女装束などの縫製をしている。ほかに今は主に体験装束に使われる十二単(じゅうにひとえ)や袿(うちき)など、宮廷女性が身につけた装束を手がけたり、京都三大祭のひとつ、葵祭の行列の人たちが着る装束なども製作している。

黒田装束店

(写真は 黒田装束店)


 
法金剛院  放送 10月15日(金)
 丸太町通を一気に西へ。洛西・双ヶ岡のなだらかな丘陵の東南にある法金剛院の歴史は古い。平安時代初め右大臣・清原夏野が建てた山荘を夏野の死後、寺に変え双ヶ岡寺と称したのを始まりとする。夏野はここに珍草奇花を植え、淳和天皇らの行幸を仰いだので、この地が花園と呼ばれるようになったと言う。
 その後、天安2年(858)文徳天皇が双ヶ岡寺に大きな伽藍を建立し、官寺に準じた定額寺に列し天安寺とした。だが、平安時代中ごろからいつしか寺は衰え、淳和、仁明天皇らが行幸したころの隆盛はなくなっていた。

十一面観世音菩薩

(写真は 十一面観世音菩薩)

本尊阿弥陀如来坐像

 衰退した天安寺を平安時代末、鳥羽天皇の中宮・待賢門院が復興し法金剛院とした。
境内を川で東西に区切り中央に池を配し、この池を中心に西に本尊・阿弥陀如来座像(国・重文)が安置されている西御堂(丈六阿弥陀堂)、南に南御堂(九体阿弥陀堂)、東に女院の御所(宸殿)の3棟の御堂を建てた。さらに11年の歳月を費やし、諸堂伽藍を建立したり、庭を作っており、この伽藍や庭の造営は、当時、盛んだった浄土信仰の西方極楽浄土をこの世に現そうとしたものである。
 待賢門院亡き後、鳥羽天皇の第二皇女・上西門院が生母・待賢門院にならって髪をおろし、法金剛院の御所の南に東御堂(丈六阿弥陀堂)を建立し、母の遺志を継いで寺を守った。

(写真は 本尊阿弥陀如来坐像)

 両女院の信仰の場となり、整備された法金剛院は、双ヶ岡、衣笠山を背に四季折々の草花が庭を飾り、その美しさは見事なもので、西行をはじめ多くの歌人が二人の女院を慕って訪れ歌を残している。
 清原夏野が珍草奇花を植えたのに始まり、待賢門院がさらに滝を作るなど極楽浄土の庭として整備し「池泉回遊式浄土庭園」とした庭も素晴らしい。この庭園が発掘調査され、待賢門院が作った「青女の滝」も復原整備され、見事な庭園のたたずまいを甦らせた。平安時代の庭で作庭の発願者と作庭者がはっきりしており、その遺構が当時のままで残っているのは珍しく、国の特別史跡に指定されている。

青女ノ瀧

(写真は 青女ノ瀧)


◇あ    し◇
泉屋博古館京都市バス東天王町下車徒歩3分。 
岡崎神社京都市バス岡崎神社前下車。 
旧京都電話局上分局・カーニバルタイムズ京阪電鉄丸太町駅下車徒歩2分。
京都市バス河原町丸太町下車2分。
菱屋畳・佐竹商店、黒田装束店地下鉄丸太町駅下車徒歩6分。
京都市バス裁判所前下車。
下御霊神社京都市バス河原町丸太町下車2分。 
法金剛院JR山陰線花園駅下車。 
京都市バス花園扇野町下車徒歩
◇問い合わせ先◇
泉屋博古館075−771−6099 
岡崎神社075−771−1963 
シーフードレストラン・カーニバルタイムズ075−223ー0606
菱屋畳・佐竹商店075−231−3731 
黒田装束店075−211−8008 
下御霊神社075−231−3530 
法金剛院075−461−9428 

◆歴史街道とは

     日本の歴史の舞台を尋ねながら、日本文化の魅力を楽しみながら体験できる
ルートのことです。
     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

(1)・・・ひょうごシンボルルート   
(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
(8)・・・なにわ歴史ルート           

    歴史街道計画では、これらのルートを舞台に
  「日本文化の発信基地づくり」
  「新しい余暇ゾーンづくり」
  「歴史文化を活かした地域づくり」
を目指し,
    官民188団体によりソフト・ハード両面の事業が推進されています。

◆歴史街道テレフォンガイド

     テレビ番組「歴史街道〜ロマンへの扉〜」と連合した各地の歴史文化情報を提供しています。
                  TEL:0180−996688    約3分 (通話料は有料)

 

◆歴史街道倶楽部のご紹介

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歴史街道推進協議会