月〜金曜日 18時54分〜19時00分


京都市・龍安寺 

 あわただしい師走のさなかながら、洛西・衣笠山の麓、石庭で世界的に有名な龍安寺(りょうあんじ)を訪ね、心静かなひとときを過ごし、行く年を顧み、来る年への心の準備をしてみてはいかがでしょうか。


 
石庭を訪ねて  放送 12月20日(月)
 通称・嵐電、京福電鉄「竜安寺道駅」から北へ5分、住宅と商店が混在する生活道路を行くと龍安寺参道に入る。にわかに観光地めく金閣寺から仁和寺に通じる「きぬかけの路」を渡り、山門をくぐると左手に鏡容池(きょうようち)を巡る緑の庭園が広がる。
 龍安寺は宝徳2年(1450)室町幕府の管領・細川勝元が徳大寺家の別荘だったこの地を譲り受けて創建した禅刹。北方のなだらかな山々を水面に映す鏡容池は徳大寺家の別荘だったころのもので、王朝時代の趣を今に残している。

総門

(写真は 総門)

山門

 鏡容池を含む一帯は龍安寺庭園と呼ばれる庭園になっている。鏡容池を左にしながら龍安寺へ向かう参道は、まさに池泉式回遊庭園を歩く心地で、三笑橋を渡ると「玄々庵」とかすかに読める札が架けられた枝折戸が目に入る。
 玄々庵の入口を過ぎると正面に白壁と柱の木組のコントラストが美しい切妻の庫裏が見える石段の参道を登る。この付近は豊かな自然に恵まれ、後ろには鏡容池、前方には白壁の庫裏、秋はこれれの景色と一体となった真っ赤に色づいた紅葉が美しい。

(写真は 山門)

 参道の石段を登りきると庫裏とその左に方丈(国・重文)がある。この方丈の前庭がユネスコの世界遺産に登録され「ロック・ガーデン」の名で世界的に知られた枯山水の石庭である。
 方丈の縁に座し、1本の草木もない筋目のつけられた砂と石の庭を眺めていると、誰しも心が落ち着き、この一年を振り返り、新たに次への想念を練ることもできる。これこそが禅刹の庭園の志すところである。

鏡容池

(写真は 鏡容池)


 
方丈庭園  放送 12月21日(火)
 龍安寺の方丈庭園・石庭は、東西25m、南北10m、三方を油土塀で囲まれた102坪の一面に白砂が敷き詰められ、大小15個の石が配された枯山水の庭。庭には一木一草もなく、油土塀の外の樹木などを借景としている。
 15個の石は東から西へ7・5・3に分け石組みにして配され、それぞれの石組のまわりから波紋が広がってゆくように、白砂に美しい筋目がつけられている。15個の石はどこから見ても1個は隠れて見えないように置かれており、見えない石は心の目で見るとも言われる。

方丈

(写真は 朝の庭)

石庭

 15個の石のうち、1個の石が隠れて見えないことから「虎の子渡し」とも呼ばれている。この虎の子渡しは、虎が子を連れて川を渡る時、必ずその子を隠すことから、隠れた石を虎の子に見立てたと言う。
 また、3頭の子を持った母虎が川を渡る時、気性の荒い子虎から目を離すと他の2頭の子虎をかみ殺す恐れがある。気の荒い子虎から他の子虎を守るために、まず最初に気の荒い子虎を渡し、次いで1頭の子虎を渡し、気の荒い子虎を元へ連れ戻す。次に残っていた子虎を渡し、最後に気の荒い子虎を渡したと言う、中国の故事に因んだ虎の子渡しだとも言われている。

(写真は 石庭)

 この石庭は見る人がそれぞれ自由に思いをはせ、思索する庭である。白砂と石組みの庭に海や山を想い浮かべるか、あるいは無の世界と見るか。石の配置を「心」の字と読む人もいる。人によってさまざまであろう。このように禅の庭は単なる観賞用の庭ではなく、とりも直さず自分自身を見つめる庭である。
 創建当時の方丈は寛政9年(1797)の火災で焼失し、現在の方丈(国・重文)は塔頭・西源院の方丈を移築した。西源院の方丈は慶長11年(1606)建立の建物で、後世に改造をしているが大規模な禅宗寺院の方丈の典型として貴重な建物である。

朝の庭

(写真は 方丈)


 
禅のこころ  放送 12月22日(水)
 龍安寺は妙心寺派十刹のひとつの禅寺で大雲山と号す。広く知られた龍安寺の石庭は、禅の教えを象徴していると言われるが、ほかにも禅寺らしいものが境内に数多く存在する。
 禅宗の寺には天井や襖(ふすま)などに龍の絵が必ず描かれる。石庭のある方丈正面の襖には、皐月鶴翁の筆になる昇り龍、降り龍が描かれている。

昇り龍(皐月鶴翁筆)

(写真は 昇り龍(皐月鶴翁筆))

雲龍図(伝兆殿司筆)

 さらに龍の絵がもうひとつある。こちらは非公開だが縦5m、横4mの大きな雲龍図。
室町時代の東福寺の画僧・吉山明兆(きちさんみんちょう)の筆になるもので、雲を巻く飛龍は真に迫る勢いがあり、見る者を圧倒すると言う。かつては方丈の背後の昭堂の天井を飾っていたが、現在は天井からはずされて軸装され、保管されている。
 こうした雲龍図は禅宗の寺には多い。ほとんどは法堂(はっとう)の天井に描かれているもので、妙心寺、天龍寺、東福寺などの法堂の雲龍図が有名だ。

(写真は 雲龍図(伝兆殿司筆))

 方丈の北東に据えられている銭形の蹲踞(つくばい=手水鉢)は、中心の口の字を回りにある4字と共用して「吾唯知足=われただたるをしる」と読み、禅の格言を図案化した無言の教えとなっている。
 水戸黄門でお馴染の徳川光圀が寄進したと言われており、現在、庭に置かれている蹲踞は複製品で、本物は茶室「蔵六庵」に保存され非公開である。この蹲踞の傍らに晩秋から寒中に一重の花をつけるツバキで、茶人が茶花として好む侘助(わびすけ)の老樹が、蹲踞に彩りを添えている。

吾唯足知

(写真は 吾唯足知)


 
大寂常照禅師  放送 12月23日(木)
 龍安寺は室町時代中期の宝徳2年(1450)細川勝元が、妙心寺の義天玄詔を開山として創建した。石庭のある方丈の仏間には、釈迦如来像と寺を開いた細川勝元の木像が安置されている。
 この龍安寺も応仁の乱の兵火で焼失、長享2年(1488)に勝元の子・政元が再建し、特芳禅傑(大寂常照禅師)(1419〜1506)が龍安寺中興の祖となる。以来、細川家の菩提寺として寺運も隆盛になった。

細川勝元像

(写真は 細川勝元像)

大寂常照禅師項相(霊雲院蔵)

 大寂常照禅師は、妙心寺が排出した四傑と言われる特芳禅傑(霊雲派)・景川宗隆(龍泉派)・悟渓宗頓(東海派)・東陽英朝(聖澤派)の四派のひとり。若くして出家、京都・東福寺で詩文を学び、妙心寺で禅を修行、後に龍安寺の住職となって中興の祖となった。
 大寂常照禅師は、京の都が焼け野原となった応仁の乱の中を生き抜き、乱世の世に平和と民衆の幸せを願い、仏の教えを説いた。自分の持ち物をすべて民衆に与え、妙心寺を開いた関山国師の禅風である清貧を守った孤高の禅師だった。平成16年、常照禅師の500年遠諱法要が妙心寺で行われ、世界平和へのメッセージが発信された。

(写真は 大寂常照禅師項相(霊雲院蔵))

 龍安寺の石庭は創建時にはなく、再建の時に作られたようで、それを指導したであろう大寂常照禅師は、謎とされている石庭の作者と推理されるひとりである。
 ほかに石庭の作者として相阿弥説が有力である。また油土塀際の大石の裏に「小太郎」「彦二郎」の刻名がかすかに残っており、この二人が室町時代中期の延徳年間(1489〜92)に登場する庭師で、龍安寺が再建された時期と一致する。実際の作庭者は不明だが、禅の心を表した石庭に大寂常照禅師の意思が働いていると見るのが妥当であろう。

大寂常照禅師墓所

(写真は 大寂常照禅師墓所)


 
冬めく禅刹  放送 12月24日(金)
 龍安寺と言えば石庭のイメージがあまりにも強いが、鏡容池を含む緑に包まれた広い境内は龍安寺庭園と呼ばれ、花の絶えることがなく、四季それぞれの美しさを見せてくれる。
 早春、涅槃堂のそばには色鮮やかな紅梅が花をつけ、石庭の油土塀の外側に植えられたシャクナゲが咲き競う。方丈の縁から石庭越しに見る油土塀の外側に咲く枝垂れ桜は、春の一時期しか目にできない石庭の景観である。初夏には鏡容池の水面にスイレンの花が一面に咲き、ハナショウブも負けじと花をつける。

紅葉

(写真は 紅葉)

ギャラリー雅堂

 鏡容池のほとりから庫裏へ続く石畳の参道の両脇の木々が色づく秋は、参道が紅葉のトンネルになり、庫裏の白壁と木組に紅葉が映えて美しい。こうした紅葉もそろそろ終わりを告げ、龍安寺も初冬へ向け衣替えをしている。これらを含め龍安寺境内には、龍安寺十勝と呼ばれる景勝地があり、それぞれに禅刹らしい静かな美しさを現出し、訪れる人たちの心を和ませてくれる。
 龍安寺など京都を中心にそういった日本の四季折々の情景を、独特のタッチと繊細な色遣いの木版画で表現して、高い評価を得ている人が、龍安寺にほど近いきぬかけの路沿いにギャラリーを構える井堂雅夫さん。

(写真は ギャラリー雅堂)

 秋は紅葉が庫裏まで続く石畳の参道や鏡容池のほとり、そして石庭の借景が美しい時である。禅刹ならではの龍安寺の実景と井堂さんが描いた木版画をだぶらせて観賞するのも一興だ。
 井堂さんは盛岡市で育ち、15歳の時京都に出て、染色、版画などの芸術活動を始めた。
日本の四季、特に京都の四季の景色に心を引かれ、金閣寺、龍安寺、等持院、きぬかけの路などの名所に残る情趣豊な日本の伝統の色を、多色摺りの木版画で描いている。井堂さんのアトリエには彫り師、摺師らが集まり、伝統の技を磨き、それらを若者へ伝えている。

精進料理七草湯どうふ(西源院)

(写真は 精進料理七草湯どうふ(西源院))


◇あ    し◇
龍安寺京福電鉄北野線竜安寺道駅下車徒歩10分。 
京都市バス龍安寺前下車。
ギャラリー雅堂京都市バス桜木町下車。 
◇問い合わせ先◇
龍安寺075−463−2216 
ギャラリー雅堂075−464−1655 

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     伊勢・飛鳥・奈良・京都・大阪・神戸の歴史都市を時流れに沿ってたどるメインルートと地域の特徴を活かした8本のテーマルートが設定されています。

 

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(2)・・・丹後・丹波伝説の旅ルート
(3)・・・越前戦国ルート              
(4)・・・近江戦国ルート              
(5)・・・お伊勢まいりルート         
(6)・・・修験者秘境ルート           
(7)・・・高野・熊野詣ルート         
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